松田望が書いた小説」カテゴリーアーカイブ

漫画を描く前に、僕はよく小説を書く。
それは単なる下書きではなく、絵になる前の世界を、文章だけで動かしてみる作業です。
ここには、これまで誰にも見せる機会のなかった短編小説を載せています。
ギャグ、SF、寓話、怪談、ナンセンス、記憶、身体、因果、時間、自己同一性。
漫画家が絵を使わず、言葉だけで世界のルールを試している場所です。

松田望が書いた小説

【小説】孤独な地球人たち

地球は、もはや見えない侵略者たちの巣窟となっていた。

その正体は、目に見えない形で人間の意識を乗っ取る宇宙人。
彼らは日常に溶け込み、地球人として振る舞いながら、確実にその数を増やしていく。
僕は唯一の例外だった。
“地球人としての意識”を保っているのは、どうやら僕一人らしい。
しかし、この事実を誰かに知られてはいけない。
もし知られたら、僕も彼らの仲間にされるか、最悪の場合、命すら危うい。

僕にはずっと、周囲の誰ともわかり合えないという感覚があった。それは昔からのことで、たぶん僕自身に問題があるのだろうけど、僕はその孤独を“地球が侵略されたせい”にしていた。

僕がその孤独を紛らわせる手段は、本を読むことだった。
誰にも理解されないなら、せめて誰かの書いた物語の中でなら、自分を見失わずにいられる。
活字の世界にいるあいだだけは、侵略されずに済むと信じていた。
僕は、シオドア・スタージョンの『夢見る宝石』や、フレドリック・ブラウン、レイ・ブラッドベリなど黄金時代のSF小説に耽溺していた。
それらの物語は、時に現実からの逃避であり、また僕の現実そのものを映す鏡のようでもあった。
異星人、奇妙な世界、そして孤独。
それらは僕の心の中に強く響いた。
もしかしたら自分が地球に馴染めないのは周囲がみんな宇宙人だからなのではないかと、僕は考えるようになっていた。

そんなある日、学校の図書室で僕は隣のクラスの餅郎に出会った。
彼はハインラインの『人形つかい』を読んでいた。
僕ももちろん夢中になった、地球外から飛来した異生物によって人間を操られる侵略テーマの小説だ。
彼がその本を読んでいたというだけで、僕は勝手なことだけど希望を見出してしまった。
“きっと、この人なら通じ合えるかもしれない”と。

僕は勇気を出して声をかけた。
「それ、好きなのか?」
餅郎は少し驚いた顔をしたが、すぐに穏やかに笑った。
「ああ、いいだろこれ。こういう話、好きなんだ」
その一言で、僕たちは一気に意気投合した。

僕たちは図書室の隅で何時間も話し込んだ。
餅郎もまた孤独な時間を本の中で過ごしてきたという。
彼はスタージョンやブラウンの話題にも詳しく、僕たちはお気に入りのシーンについて語り合った。
「ブラッドベリの『万華鏡』、読んだことある?」
僕が聞くと、餅郎は熱心にうなずいた。
「あるとも。あの宇宙飛行士たちが漂流する話だろ。切ないよな……でも美しい」
「だよな」

僕は心の中で何かが満たされていくのを感じた。
僕たちはその後も、放課後や週末を図書室やカフェで過ごした。
本の話だけではなく、世界がどう狂っているか、自分たちの周りの人間がどれだけ奇妙に見えるか、そんなことも話題に上った。
孤独な読書家だった僕たちは、いつしか互いを心の拠り所にしていた。

「なあ、君も思うだろ?」
ある日、僕は思い切って聞いた。
「周りはみんな宇宙人なんじゃないかって」
餅郎は真剣な顔でうなずいた。
「そうだ。俺も気づいてる。周りの奴らが変だってことに」
僕たちは、それからますます強く結びついていった。夜遅くまで話し込み、時には一緒に街をさまよいながら、見えない敵に立ち向かう方法を模索した。

最近、街が少しだけ違って見えるようになっていた。
色が鮮やかに感じられる日が増え、誰かと話すのがほんの少しだけ楽になっていた。
……僕が〝地球人でなくなってきている〟かもしれない?
そんな疑問を振り払うように、また本に手を伸ばす。

ある日、僕たちは小さなカフェで食事をしていた。
話題はヤングの『ジョナサンと宇宙クジラ』だった。二人ともその小説に深い感銘を受けていたが、解釈について意見が食い違った。
「いや、ジョナサンはクジラに同化されるんじゃなくて、あれは心が繋がることの象徴だろ」
僕はそう主張した。
「違う。あれは完全な支配だ。クジラの方が優れていて、ジョナサンはそれを受け入れざるを得なかったんだ」
餅郎が反論した。
「いや、それはおかしいだろ!ジョナサンは最後まで自由を失ってない」
「お前、何も分かってないな。本当に読んだのか?」
餅郎の声が荒くなる。
「読んだから言ってるんだ!」
僕もつい声を荒げた。
「お前、その解釈、どう考えても地球人らしくないだろ!」
「何だと?餅郎、お前こそおかしいぞ!」
「こんなこと言いたくないけれど……」
餅郎は上目遣いで僕を睨んだ。
「俺は見たんだ、お前が教室で誰か女と楽しそうに喋ってんのを」
僕は動揺した。
たしかに僕は最近、席替えで隣席になった千真希と話すようになった。
ちょっと仲良くなっただけで、それ以上でも以下でもない。
彼女だって宇宙人だ。僕が心を許すはずがない。
でも心の奥底で少し嬉しい感情があったことも確かだ。
そのことを餅郎に知られたくなくて黙っていた。
ひょっとして、餅郎は僕の変化を気づいているのか?

餅郎は小声だがきっぱり言った。
「お前は宇宙人なんだろ?」
その瞬間、僕たちの間にあった信頼は音を立てて崩れた。
数分後、僕たちは無言で席を立ち、それぞれ別の方向へと歩き出した。

夜の街を歩きながら、餅郎の言葉が頭の中でこだました。
「お前は宇宙人なんだろ?」
僕の起こった変化は、知らぬ間にすこしずつ宇宙人の支配下に置かれたからなのだろうか。
千真希と話すことで芽生えた、ほんの小さな安心……それが宇宙人に支配されたというのなら、僕たちの思っていた地球人らしさとは。
こだまする声を振り払うことができない。
餅郎と千真希……地球人と宇宙人の狭間で、僕はどちらに向かって歩を踏み出すべきか……答えを求めてさまよい続ける。
宇宙人が行き交う地球の底で。

—— おわり——

【小説】別れた妻が帰ってきました

深夜、突然ドアが激しく叩かれた。
ドンドンドン!
「ねえちょっと開けてよ!」
聞き覚えのある声。それも、今ここにいるはずのない人物の声だった。
俺は戸惑いつつも玄関に向かい、ゆっくりと鍵を開ける。するとドアの隙間から勢いよくねり奈がなだれ込んできた。
「何で鍵変えてんのよ、頭おかしいんじゃない?」
玄関の明かりを受け、酔いか怒りか真っ赤になった顔でこちらを睨む。
「お前と俺は別れたんだよ」
「何バカなこと言ってんのよ〜」
どうやら酔っ払って、別れたことを忘れて俺の家に帰ってきたみたいだ。
こういうところが可愛くて好きだったんだが……

ねり奈は靴を脱ぎ捨て、そのままキッチンへと歩いて行った。勝手知ったる我が家、といった様子で冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に喉に流し込む。水を飲み干し、一息つくと、少しずつ彼女の目に正気が戻っていった。
「朝、喧嘩したっけ? そんなことずっと引きずっているから駄目なんだよ」
「いやいやいや……離婚したじゃん。一年前に」
俺がそう告げると、ねり奈は眉をしかめた。
「何バカなこと言ってんのよ」
「バカじゃないよ。二〇二四年の四月二六日、俺の誕生日に離婚したから覚えてる」
「二〇二四年の四月二六日? 明日じゃないの。今日は二五日だよ!」
ねり奈は呆れた顔でスマホの画面をこちらに突きつける。日付表示は、確かに『二〇二四年四月二五日』になっていた。
「ええっ」
思わず、俺も自分のスマホを取り出し、彼女の目の前に差し出した。
「今日は二〇二五年三月二三日だぞ。お前のスマホの時間表示はおかしい」
「今年は二〇二四年だよ!」
「いや二〇二五年だ」

ねり奈と俺は黙ってお互い見つめ合った。
あいつは、嘘をついている様子はない。
ねり奈は周囲を見渡し、何かに気がついた。
「私の荷物は?」
「ああ、お前が離婚した次の日に運送会社に頼んで実家に送ったじゃん」
「ちょっと待って、ちょっと待って……」
ねり奈は片手で頭を押さえ、深刻そうな顔で考え込む。さすがに酔いは完全に覚めたらしい。
「帰ってくる途中……バスを降りて歩いていたら、突然、視界がぐんにゃり歪んで、一瞬気を失ったの。そのときは、自分でも酔っぱらいすぎだって思ったけど……」
真剣な表情のまま、とんでもないことを口にした。
「私、時空を超える……ワームホールみたいなものを通っちゃったのかもしれない」
ありえない仮説を出して自分自身を納得させようとする。その姿勢もねり奈らしい。
沈黙のあと、ねり奈は唐突に叫んだ。
「何で別れたの!」
「お前がいきなり別れようって言ったんだろ!」
思わず声が大きくなった。
「あの日、朝に口論して帰ってきてすぐそれだったから、俺だってびっくりしたんだよ……」
俺はため息をついた。
「次の日には仕方なく離婚届を取りに行って、書いて、判子を押した」
「私と別れたかったの?」
真っ直ぐな視線を向けてくる。
「そりゃ別れたくなかったけど……」
その言葉を聞いたねり奈は、さらに声を荒げた。
「もっと説得しなよ! 本当に好きなら、別れたくないって。あんたのそういう、本当の気持ちを秘めて我慢するところがイヤなんだよ!」
「いやいやいや……相手がいやだって言ってるのに説得したら、それは強要になるだろ?」
「そういうところが駄目なの! 私が理不尽なことを言っても、我慢して我慢して……ああもう、うじうじしたところがイヤ!」
「やっぱりイヤなんじゃないか」
「イヤじゃないよ! 別れたくないなら別れたくないって意思を通さないから別れたんだろ!」
ねり奈は、ふと素の顔に戻り、小さく問いかける。
「あんたの時間の……現在の私は、今どうしてんの?」
「俺と別れて二ヶ月後には彼氏ができたとかで、今はその男と同棲してるよ」
ねり奈は、それを聞いてニヤリと笑った。
「さすが私、もてるな〜」
自分で褒めるその無邪気さが、たまらなく可愛いと思った。

ねり奈は真顔になって、俺の顔をじっと覗き込む。
「あんたは今も私のこと好きなんでしょ?」
「そりゃ好きさ」
「そうよねえ、あんたはもてないし私一筋だったもんね」
そのまま俺の頬を手で挟み込み、強引に顔を近づける。
「今度私が別れたいって言っても、絶対別れたくないって言え!」
「う、うん……」
「ちゃんと約束しろ!」
「別れたくないけど……君はもう新しい彼氏が……」
「それは別の私だろ。本当の私、この私とだよ!」
「別れたくない」
「そんなんじゃ駄目!」
「別れたくないっ!」
「もう一度!」
「別れたくないっ!」
俺は腹の底から絶叫した。
「そうだよ、その気持ちだよ! 今後、何があっても、私が癇癪起こして別れ話を始めても、絶対に別れちゃ駄目だよ。君は君の気持ちを大切にしないと駄目!」
勝手なことを真剣な表情で言う。だが、そこが好きだったのだ。
「絶対に別れちゃ……」
その言葉の途中で、ねり奈の輪郭がぐんにゃりと歪んだ。ぼんやりとした渦のようなものが彼女を包み、淡く光を帯びて、彼女の姿はそのまま静かに掻き消えた。
ワームホールって、本当にあんな感じなのかもしれない。

俺はねり奈からもらった勇気に背を押され、思い切って電話した。
ねり奈はすぐに出た。
「何? こんな時刻に」
猛烈に不機嫌そうなねり奈の声が響く。
「横で彼氏寝てるんだけど」
「今……君が来たよ。一年前の君が」
「え」
ねり奈は絶句した後、静かに続けた。
「そっか、じゃあ今だったんだ」
「知っているのか?」
「覚えてるよ。一年前のことだもの。あの後、気づいたら最初気を失った場所に私また立ってたんだよ」
「じゃあ、わかっているよね」
「何が?」
「僕は君と別れたくない」
「おそっ!」
ねり奈が怒鳴った。
「あの後帰ってすぐ、君に『別れたい』って言ったら『うん、わかった』って即答だよ! 君からすれば朝言い争いしたから、その夜にあり得たことかもしれないけど、私からすれば、そんなに好きじゃなかったことかなって思うよ! 直前に『別れたくない!』ってあんなに叫んでいたのにさ」
「いやいや、それは一年後の俺で……」
「そうやって言い訳するところがイヤ!」
もう滅茶苦茶だ。
「もう遅い! バイバイ! 二度と電話しないでね!」
プツッ!

こういう勝手なところが好きだったんだよな〜。
俺は泣き笑いの表情でスマホを見つめていた。

——おわり——

【小説】たかし、異世界で最強の英雄に——かーちゃん涙の冒険譚

岡市たかし(おかし たかし)がダンプに跳ねられ命を落としてから半年が経った。

納棺の際、母親の岡市多辺美(おかし たべみ)はたかしの部屋に入り遺品を探した。
本棚には、たかしが大切にしていた漫画がぎっしり詰まっていた。
異世界転生をテーマにしたものばかりで、主人公が圧倒的な力を手にし、仲間たちに崇められながら美少女たちと幸せに暮らすという内容だった。
「現実のたかしとはまったく正反対ね……これが、たかしの求めていた世界だったのね」
多辺美は泣きながら目立つ場所に置いてあった本を棺の中に入れた。
「だから、たかしはその理想の世界へ旅立ったのね……きっと異世界で幸せに暮らしていることでしょう。こっちの世界で幸せにしてあげられなくてごめんね……」
葬儀屋が棺の蓋を閉じ、たかしが多辺美の息子として生きた日々は幕を閉じた。

ある日、多辺美はたかしの遺品の一つであるゲームを手にした。
それは異世界を舞台にしたRPGだった。
たかしが途中で放置していたデータを開いてみると、メイキングで作られた主人公の顔がたかしにそっくりだった。
「まあ、このゲーム、女性キャラクターばかり仲間になるのね。それに主人公だけが圧倒的に強いなんて、バランスも何もあったものじゃないわ」

ゲームの中では、たかしそっくりの主人公が剣を握り、異世界を駆け回っていた。
光る剣を振りかざし、巨大な魔物を次々と倒していく姿は、現実のたかしとはかけ離れた頼もしさだった。
たかしの冒険には、美少女の仲間たちがずらりと並んでいた。
それぞれが個性的で可愛らしく、主人公を敬愛してやまない彼女たちの姿を見て、多辺美は少しだけくすりと笑った。
「こんな世界に憧れていたのね……」

たかしが生前に見せていた無口で大人しい一面からは想像もつかないようなゲームの世界観だったが、多辺美はそのギャップがどこか愛おしく感じられた。
最初は慣れないゲームの操作に戸惑いながらも、多辺美は進めるうちに主人公と旅する女性キャラクター名を変更できることに気づいた。

「『たかしママ』……これでいいわね」

名前をつけられたキャラクターは、たかしの冒険に寄り添う回復役のサポートキャラだった。
「たかし、しっかり守ってね」

冗談交じりに画面越しの息子に語りかけると、その直後、たかしが画面の中でチート能力を発揮し、大勢の敵を一撃で蹴散らした。
「すごい……本当に頼もしいわね!」

多辺美は歓声を上げた。戦闘のたびに、たかしが彼女を守り、導く姿に多辺美は心を奪われていった。
どんな危機的状況でも彼が放つ一振りの剣は光り輝き、戦いの終わりには決まって彼の背中がまばゆく映った。
「こんなに強いたかしと一緒に旅をしているなんて、夢みたい……」

多辺美はふと、自分が言った言葉に気づいて胸を締め付けられるような思いに駆られた。
確かに夢ではない——現実のたかしは、もう戻らないのだ。
しかし旅をする時間だけは、たかしと再び繋がれたように思えた。

旅が進むにつれて、多辺美は次第に現実を忘れ、ゲームの世界に深く引き込まれていった。
森を抜け、広大な草原を渡り、崖の上から絶景を見下ろしたとき、多辺美は画面越しでありながら心から感動した。

「こんな景色、たかしと一緒に見られるなんてね」

チラとたかしが少し振り返るように見えたのは、多辺美の気のせいだろうか。
時折、美少女たちが会話の中で主人公を褒め称えるのが耳に入るたびに、多辺美は少し照れくさくなりながらも嬉しく感じていた。

「たかし、こんなにみんなに慕われて……本当によかったわね」

そんな楽しい日々が続く中、旅の物語はついに大きな山場を迎えた。
それは、伝説のドラゴンが現れるというイベントだった。
画面いっぱいに映るドラゴンの姿は恐ろしく、多辺美は一瞬、手が震えた。
「こんなの、倒せるの……?」

恐怖で動けないたかしママを守るため、たかしは真っ先にドラゴンに立ち向かった。
放たれる巨大な火炎もものともせず、剣を振りかざして攻撃を繰り出すたかしの姿は、これまで以上に輝いて見えた。
「たかし! 頑張って! かーちゃんも一緒に戦うから!」

多辺美も慌ててボタンを押して回復魔法をかけたが、ドラゴンの攻撃は容赦なくたかしを襲う。
何度目かの激しい突風の中で、たかしは吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
「たかし! ダメ! あなたがそんなことをしたら……!」

多辺美の叫び声が響く中、画面の中のたかしがゆっくりと顔を上げた。
その目は、どこか懐かしさを感じさせるもので——いつの間にか、彼は現実のたかしそのものの姿になっていた。
「かーちゃん、大丈夫か?」
その声は紛れもなく、息子の声だった。
「たかし!?」

多辺美は画面の前で息を飲んだ。そこにいるのは、もうゲームのキャラクターではない。
本物のたかしが、画面越しにこちらを見つめている!
「かーちゃん、俺、異世界でも元気にやってるからさ。もう俺のことは心配しないで……かーちゃんには、かーちゃんの人生があるだろ?」

「何を言ってるの! あなたなしでどうやって生きていけというの!」

涙を流しながら訴える多辺美に、たかしは優しく微笑んだ。
「俺、かーちゃんの子供に生まれて、本当に幸せだったよ。異世界転生しても絶対かーちゃんの子供になりたい……今まで、本当にありがとう」
たかしはドラゴンに向かって剣を振った。チート能力で一閃、ドラゴンは倒れた。
そしてゆっくりと立ち上がり、彼方へ歩き出した。
その背中を追いかけるように、多辺美は叫んだ。

「たかし! 行かないで! たかし!」
たかしは振り返らなかった。
遠くで待っていた旅芸人の女性と手を取り合い、やがて視界から消えていった。

多辺美は泣きながらリセットボタンを押し、セーブデータからやり直そうとした。
しかし、データは消えていた。
ゲームを最初からやり直してみても、あのシーンを見ることができなかった。
「あれは……幻だったの……?」

多辺美は呆然としながらも、真っ暗な部屋で立ち上がって電気をつけた。
「……私も、頑張らなきゃ」

「これが、小説投稿サイトで大人気の『たかしママ』先生が異世界転生ものを書き始めたきっかけです。息子さんの死を乗り越え、彼との絆を物語に託したのです」
数年後、そんなインタビュー記事が公開された。

—— おわり——

【小説】目覚めのビッグバン

私は目を覚ます。
窓の外から差し込む光が、半分夢の中にいる私の意識をゆっくりと引き上げていく。
光とともに、世界が一気に広がっていくのが見える。
街並みや人々の姿、木々のざわめき。これらすべては、私が目覚めた瞬間に生まれたのだ。
そう、世界は私の想像の産物だ。
私が目覚めると同時にビッグバンが起き、宇宙が形作られる。
そんな壮大なスケールの中で、私はただの一人の人間として存在している。
でも、不思議なものだ。
私のために世界があるはずなのに、どうして私の人生はこんなにもうまくいかないんだろう。

眠りの余韻が消え、意識が覚醒するにつれて、部屋の中に光が差し込み、家具や壁が現れる。
窓の外の景色も徐々に「再生」されていく。遠くに見える電車、駅前の小さなコンビニ、通りを行き交う車や人。
「はいはい、おはようございます、私の世界」
心の中でぼんやり呟く。
鏡を見ると、寝癖のついた自分の顔がそこにある。この顔さえも、私が目覚めた瞬間に生成されたものかと思うと、妙な気分だ。
それにしても、もう少し綺麗な顔に生成してくれたらよかったのに。
高校時代、私は夢見た第一志望の高校に落ち、仕方なく第二希望の私立に通うことになった。
「唯一無二の私が志望校に落ちるって、何の冗談?」
大学だって、一浪してようやく滑り込んだ。
夢のキャンパスライフとは程遠い日々。
大富豪やアラブの石油王の娘だったら、何の苦労もなく過ごせたのに。
現実の父はしがない公務員。母も平凡な主婦。
家計はカツカツで、ファミレスのバイト代がなきゃ新しい服も買えない。
私の世界は私のために作られている——そのはずなのに、なぜ思い通りにならない?
「そういう風に作られているから仕方ないじゃん!」
心の中の誰かが呟くようにそう教えてくれるけど、納得なんてできない。

洗面所で顔を洗い、適当に食パンを齧りながらスマホをいじる。
ニュースを眺めていると、世界のあちこちで起きている事件や災害が流れてくる。
でも、ふと考える。これって本当に「実在」してるのかな?
私が見ていない場所なんて、実際はただの「未設定」なんじゃないだろうか。
ニュースに映っているのも、私が知り得ない遠い世界をもっともらしく見せるための「飾り」に過ぎない気がしてくる。
窓の外を見ると、やっぱり視界に入る部分だけがきちんと存在している。
もしかしたら、その先は映画のセットみたいに板を立てかけてあるだけかもしれない。
「この世界、どこまで本当なんだろう?」
そんなことを考えながらコートを羽織り、家を出る。

いつもの電車。いつもの景色。
駅前のパン屋の匂いも、通り過ぎる制服姿の高校生たちも、きっと「私が見ている間だけ」存在しているんだろう。
車窓の景色をぼんやり眺めながら、ふと考える。
「私が電車で眠っているとき、椅子の上に座ったまま虚空を並行移動しているのかな」
そう思うと怖くなる反面、どこかこっけいな気もする。
すべては一瞬一瞬、私に合わせて作られているのだから、未来のことを気にする必要なんてないかもしれない。
でも、その一方で、大学に着いたらまた嫌なことが待っているとわかっている。
それも私の想像だとしたら、どうしてこんな嫌なシナリオにしたのか、自分でも理解できない。
もっと楽しい大学生活を設定してもよかったんじゃないの?
講義室に着くと、相変わらず淡々とした時間が流れる。
退屈な講義を聞き流しながら、たまにノートを取り、スマホをいじる。
隣の席の子が何か話しかけてくるけど、適当に相槌を打つだけ。
世界が私の想像でしかないなら、きっとこの子も私の「脳内キャラクター」だ。
そう思うと少し気楽になれるけど、同時に寂しさも感じる。

夕方になるとファミレスのバイトへ向かう。
エプロンを付けてレジに立つと、今日もいつも通りの風景が広がる。
「いらっしゃいませー」
と声を出しながら、視界に入るお客さんを観察する。
若いカップル、疲れたサラリーマン、家族連れ。
彼らもきっと、私のためだけに「作られた」存在なのだろう。
実際、彼らが席を立って店を出た瞬間、彼らの存在は消えてしまうに違いない。
私が見ていない場所で、わざわざ「彼らを生かし続ける」必要なんてないのだから。
それなのに……どうして?
どうしてわざわざ嫌な客を登場させる必要があるの?
「盛り付けが少ない」とか「注文が遅い」とか、理不尽なことを言って怒鳴りつけるお客さん。
私が疲れているのを見越して、もっと優しい人だけ登場させてくれればいいのに。
そんなことを思いながら、今日も黙々と仕事をこなす。
結局、この世界は「そういう風に作られているから仕方ない」と割り切るしかないのだ。

バイトが終わって帰宅すると、家では両親が待っている。
「就職活動、ちゃんとやってるの?」
うるさい。うるさい。うるさい。
何度言われても、やる気にはなれない。
いや、私が頑張って進むべき道なんてそもそもない気がしている。
母親の問いかけに、適当に「考えてるよ」と答える。
これだって、どうせ「親役」として設定されたキャラクターなんだ。
わざわざこういう台詞を言わせなくてもいいのに。

「こんな世界、消えてしまえばいいのに!」
あるとき私が心の中で呟いた瞬間、世界は崩れた。
まるで映画のセットがバラバラに壊れていくかのように、目の前で人々は光の粒となり、建物は砂のように崩れていった。
足元が消え、闇の中に私はただ漂っているだけだった。
完全に崩壊した世界が再び元に戻るまで、三日かかった。
ただの空っぽな空間に、私一人。
それ以来、どれだけ嫌なことがあっても「世界なんて消えてしまえ」なんて二度と考えないと決めた。
私が我慢すれば、世界は崩壊しない。それが唯一のルールだ。

布団に潜り込んでLINEで友達と適当にやり取りを始める。
この時間だけは少しだけ安心できる。
眠くなってくると、私の周囲の世界は少しずつぼやけ始める。
光が薄れ、音が消え、色が褪せていく。
窓の外の景色がぼやけ、部屋の中の家具が曖昧な輪郭に溶け込む。
最後に意識が消える直前、私は思う。
「明日はもう少しいい世界を見せてほしいな」
そう願いながら、私は眠りにつく。
やがて全てが無に変わり……何もない虚空で、次に目覚めるまで私は漂っている。

—— おわり——

【小説】バスケットの中のあいつ

部屋の隅に置かれた小さな古びたバスケット。
その前で、娘が笑い声をあげていた。
「それでね、今日は学校でこんなことがあったんだ!」
母親は台所からその様子を見て微笑んだ。
娘が話しかけている相手などどこにもいない。
ただの空想遊びだとわかっていた。
それでも、彼女の楽しそうな声を邪魔する気にはなれなかった。
「お母さん!」
娘が振り向いて叫んだ。
「明日からクラブの合宿で二週間家を空けるから、このバスケットの前に毎日水を置いてあげてね。約束だよ!」
「ああ、わかったわかった」
母親は笑いながら返事をしたが、その言葉に重みはなかった。
忙しい毎日に追われる中、そんな小さな頼みごとはすぐに忘れ去られてしまった。

数日後、バスケットの中から奇妙な音が聞こえてきた。
蓋が勝手に開き、中から何かが這い出してきた。
それは形を持たない不気味な影のような存在だった。
影は台所に向かい、蛇口をひねると流れ出る水をむさぼり始めた。
しかし両親は気づかず寝室で熟睡していた。
飲むほどにその体は膨れ上がり、やがて人の背丈を超える大きさになってガラス窓を突き破り、外へと飛び出した。
二人がその音に気づいてとび起きたときはもう遅かった。
近所の人々が悲鳴を上げる中、バスケットの中にいた何かは住宅地を流れる川の水を浴びさらに巨大化……
角が生え、鋭い牙をむき出しにして咆哮を上げるその姿に、街全体が恐怖に包まれた。

怪獣が暴れ回り、建物を次々と破壊していく。
消防車や警察車両が駆けつけるが、全く歯が立たない。ついに政府は怪獣撃退部隊を出動させた。
部隊は最新鋭の兵器を駆使して怪獣に立ち向かう。
しかし、その動きは予測不能だった。
娘の想像で生まれた怪獣は、どんな攻撃にも対応し、次々と作戦を無効化していった。
「こんな恐ろしい怪獣ははじめてだ!」
部隊のリーダーが叫ぶ。
最後の手段として、部隊は戦闘用ロボットを投入。
激しい戦闘が繰り広げられる中、ついに怪獣を倒すことに成功した。
しかし、その代償として街の大半は瓦礫と化してしまった。

二週間後、娘が帰宅した。
娘は目を丸くして周囲を見渡した。
彼女を迎えたのは、かつての面影を残さない廃墟と化した街だった。
「ただいま〜」
彼女の家はガラスが割れた以外の被害はなかったが、瓦礫の後始末で両親は疲れ切っていた。
娘はケロリとして周囲のことを意に介さず、合宿の話で盛り上がった。
「ねえ、お母さん、バスケットの中のあいつに水をあげた?」
母親は気まずそうに目をそらしながら答えた。
「ああ…そのことだけどね」
娘は少し考えてから、肩をすくめた。
「あ、やってない? ゴメンね、変なこと頼んで。実はね、その話をみんなにしたらイマジナリーフレンドだって言われたんだ」
そして笑いながら
「そういうの、大人になる過程でいなくなっちゃうんだってね。友達に笑われて恥ずかしくなっちゃった……私ももう子供じゃないし、本物の友だちもできたし、もういいかなって」
母親はその言葉に驚き、同時に怒りが込み上げてきた。
「勝手に大人になってんじゃないよ! お前が置いてった童心の後始末、どれだけ大変だったと思ってんの!」

—— おわり——

【小説】遊園地、行きたかったね

最近、こういうサービスがある。
それは一見、未来の夢のようでいて、どこか乾いた現実の延長にも思える。
──死者の意識を保存し、仮想現実で再会する。
簡単に言えば、そういうことだ。
もっとも、その「再会」に、どれほどの意味があるのか、本当のところは誰にもわからない。
だが少なくとも、あの日の俺には、それが、救いのかたちをして見えていた。

「生きているうちにあんたと話せれば十分だよ」
と母は言うが、俺は母にいくら感謝の言葉を伝えても足りないと思っていた。
できるかぎりのことを母にしたかったのだ。

ちょうどその頃、俺は、意識保存サービスを提供する会社に勤めていた。
開発でも研究でもない、ただの営業だ。
それでも──社員特典として、格安で意識の保存を依頼できることを、俺は、奇跡のように感じた。
そのとき既に、母の老いは見て取れたからだ。
歳をとることは、記憶を遠ざけることだ。
だからこそ、消えゆく前に、せめて、残したかった。
母は協力的だった。
誰よりも淡々として、機械の前に座り、指示に従い、質問に答えた。
「こんなんで、ほんとに残るのかねえ」と言って、笑った。

……そして。
母は、その年の暮れ、ひっそりと息を引き取った。
静かだった。
病室には、冬の光が斜めに差していた。
カーテンの隙間から漏れる白さが、母の頬を淡く照らしていた。
そのほんの数時間前、母は一度だけ目を覚ました。
そのとき、まるで夢を見ていた子供のように、口元だけが動いた。
「……遊園地、行きたかったね」
何の前触れもなく、思い出したように、ぽつりと。
俺は──その言葉に、息が詰まった。
「楽しかったよ」と言いたかった。
伝えたかった。
でも、喉の奥が詰まり、声にならなかった。
音は出なかった。唇が震えただけだった。
母のまぶたが、再びゆっくりと閉じるのを、俺は何も言えぬまま、ただ見ていた。

父が早くに亡くなってから、母は再婚もせず、ただ黙々と、俺ひとりを育ててくれた。
学も、技術も、持たなかった人だった。
けれども、朝になると誰より早く家を出て、近所の工場で働き、帰ってきては台所に立った。
休みというものは、あってないようなものだった。
それでも、俺の弁当箱はいつもきちんと詰められ、制服は洗濯されていた。
生活は、つましく。
けれど、時折、ささやかな光が差すような日々だった。

日曜日、母は弁当を作ってくれた。
その弁当を持って、河原へ向かった。
木陰にレジャーシートを広げて、ふたりきりで、おにぎりを頬張った。
風が水面をなでる音と、母の「おいしい?」の声だけが、そこにはあった。

そんなある日だった。
母が職場から、遊園地のチケットをもらってきた。
俺は、胸が震えた。
生まれて初めての遊園地。
テレビの中でしか見たことがなかった、夢のような場所。
母はその日のために、ちょっとだけ手の込んだ弁当を作ってくれた。
朝早くから台所に立つ母の背中が、いつもより弾んで見えた。
そして、ゲートの前。
チケットを差し出したとき──係員が言った。
「こちら、優待券ですね。大人は二〇〇〇円、子どもは八〇〇円引きになります」
その瞬間、世界の色が、ふっと褪せた。
財布の中に、それだけのお金は入っていなかった。
それでも何度か財布を開き直し、確認し…最後に母は小さく首を横に振った。
そのまま、俺たちは遊園地の外のベンチに腰を下ろした。
「せっかくだから、お弁当はここで食べようね」
と母は、言った。
食べながら、何度も、観覧車の向こう側を見た。
音楽、風船の色、子どもたちの笑い声。
全部、塀の向こうだった。
帰りの電車の中で、母は、何も言わなかった。
顔を伏せて、車窓の外ばかり見ていた。
「……楽しかったよ」
俺がようやく言うと、母は、ふいに顔を上げ
「母さん、何も知らなくて……」
そう言って、涙を流した。
それを、俺は決して忘れなかった。

その日からだった。
俺が“貧乏”という言葉に、はっきりとした憎しみを抱いたのは。
金というものが、どれほど残酷に人間の尊厳を奪うかを、幼い俺は理解した。
だから俺は、学んだ。
とにかく学び続けた。
鉛筆を握る指が痛んでも、暗記で眠くなっても、構わなかった。
貧しさは、母のせいじゃない。
ならば俺が変えるしかないのだと。
成績は上位に並び、やがて俺は大学に進学した。
返還義務のない奨学金も得た。
もはや、それだけが目的になっていたかのように、死に物狂いだった。
そして──社会人になった。
息をつく暇もなく働き、名刺を持ち、ネクタイを締め、ようやく一人前のふりを覚えた。
なのに。

「遊園地、行きたかったね」

あのときの母の言葉が、最期の言葉だった。
それは、まるで時間の奥底から掘り起こされた石のように、重く、ひんやりとして胸に沈んだ。

母の葬式を終えてから、俺はさらに仕事にのめり込んだ。
仮想現実サービスの営業。
毎日、朝から晩まで飛び込み営業。
断られても、冷たくされても、かまわなかった。
靴底がすり減っても、声が枯れても、止まれなかった。
母のことを思えば、何も怖くなかった。
むしろ、それだけが、俺を支えていた。
上司が心配するほどだった。
同僚が引くほどだった。
それでも、止まれなかった。
──半年が過ぎた。
ふいに、ある朝、目が覚めたとき。
喉がひりつき、胸の奥が、ぽっかりと空いていた。
ようやく、その空洞に風が吹き込むように、俺は思った。
「……母に、会おう」
そのとき、初めて。
俺は、母の意識が保存されている“仮想世界”へと接続することを決めた。

母は、仮想世界の中で、今も生活している。
そう──あの頃のままの姿で。
この世界では、母は自分が亡くなったことを知らない。
俺がそう設定したのではない。
生前の母自身が、それを望んだのだ。
「死んだって知らされたら、あんたが心配してるんだって思っちゃうじゃない」
と、茶化すように、そう言った。
そのくせ、俺の姿は「子どものままにしてね」と言った。
どうやら──母は、俺の現在よりも、俺の“子ども時代”を、宝物のように思っていたらしい。

最新のヘッドセットを頭に装着し、目を閉じる。
思考がシームレスにデバイスと繋がると、空間が一度、真っ白に広がった。
落下する感覚も、遷移のざわめきもなく、ただ、ふと──
記憶の奥に沈んでいた、あの場所に、俺は立っていた。
懐かしい自宅。
風の匂い、湿った土の感触、遠くの鳥の声……
現実よりも正確に、俺の「記憶」が再構成されていた。
変色したトタン屋根の、けれどどこかあたたかく感じた借家。
今にも崩れそうな縁側、いつも少しきしむ板の間。
俺は、その場に立ちすくみ、胸の奥がぎゅうっと掴まれたような感覚に耐えた。

「ただいま──」
声は、子どもの高さで。
勝手口から、俺は中に入った。
「おかえり。今日は遅かったね」
台所の向こう、母が振り返った。
ああ──
あの笑顔。
二〇年前と寸分違わぬ、その笑顔。
俺の世界に、確かにあったその声。
母は、エプロン姿のまま、野菜を洗っていた。
現実の俺は、目を閉じながら、目を開いていた。
今この瞬間、ここは夢であり、現実であり、記憶であり、偽りであり──
そのすべてだった。
「学校帰りに木寺くんちに寄ったらね、お母さんが遊園地のチケットを二枚くれたよ」
俺は、言った。
母は、ふふっと笑った。
「ほんとう? じゃあ木寺さんにお礼言っておかないと」
母の背中は、小さく揺れながら、流しの水音と一体になっていた。
俺は、そっと、ステータスウィンドウを開いた。
仮想現実の時間を制御する、透明な盤面。
その中の時計型アイコンを、俺は指先でそっとなぞり──
時間を、“日曜日”へとスキップさせた。

日曜日。
陽はやわらかく、風はぬるく、空は雲一つなく澄んでいた。
母は朝から台所に立ち、時間をかけて、少しだけ豪華な弁当を作ってくれていた。
いつもより多めの卵焼き。
少しだけ高かったウインナー。
彩りのよい、ぎこちない花型のニンジン。
その背中が嬉しそうであることを、俺は子どもの姿をしながら、どこか遠い位置から見ていた。
母の手つき、鼻歌、ふと顔を上げるしぐさ──
どれもかつての記憶のまま、いや、もしかしたらそれ以上に、生き生きとしていた。
電車に乗ると、母は窓の外を眺めていた。
街の風景が流れ、駅を過ぎるたびに、母の頬がわずかに紅くなる。
その様子が、まるで少女のようだった。
そして、遊園地のゲートに立ったとき。
俺はゆっくりと、ポケットから「本物の招待券」を取り出した。
仮想世界で生成されたそれは、あのときの失敗を、ただ静かに、なかったことにしてくれる。
係員は笑顔でうなずき、ゲートが開いた。
俺たちは、何のつかえもなく、中へと入っていく。
母の手が、わずかに俺の袖を握っていた。
まるで、夢に触れてしまいそうで、不安になっているかのように。

中に入ると、まばゆいほどの色彩が広がっていた。
音楽が鳴り響き、ネズミのキャラクターが手を振り、風船が揺れていた。
俺は、夢中で走り出した。
母が、笑いながら後ろからついてくる。
「待って!」
叫ぶその声が、嬉しそうで、楽しそうで、切なかった。
ローラーコースターに乗って、俺たちは風の中で叫んだ。
ボートに揺られ、世界旅行のミニチュアを巡り、
射的ではお互いに張り合い、フライングカーペットでは手を握った。
笑い声が、空に弾けて、どこまでも届いていった。

昼になって、再入園スタンプを手の甲に押してもらい、ピクニックエリアへ出た。
母とベンチに腰かけて、弁当を広げる。
あのときの弁当が、本来の形で今ここにある。
あのときの弁当を、母と向かい合って食べる。
俺は、堪えきれなかった。
涙が、止まらなかった。
ひとくち、口に運ぶごとに、目の奥が熱くなる。
母はそれに気づかないふりをして、「おいしい?」と、笑った。
「おいしいよ」
その言葉が、涙の味に混じって喉を通った。
母の作る卵焼きは、どこまでも甘かった。

食べ終えたあとは、パレード。
音楽が遠くから高まり、やがてカラフルな衣装を着たキャラクターたちが、リズムに合わせて登場する。
アニメや映画でしか見たことのないキャラクターたちが、現実のような熱気と質感で目の前を通りすぎてゆく。
子どもたちが声をあげ、手を振り、大人も手拍子を打つ。
その波に、母も自然に溶け込んでいた。
あの日、塀の外から眺めていた景色。
今ここで、母がその中にいる。
「わあ……」
母が歓声を上げたとき、俺はそれを見て、目をそらした。
幸福というものが、これほど残酷に心を締めつけるのかと、思った。
笑う母の姿が、涙でぼやけていく。
何度、まばたきしても、視界がにじんで戻らなかった。
──そうだ。
この一日を、やり直すために俺はこの仮想世界に入ったのだ。
母を悲しませた記憶を、少しでも薄めるために。
あの言葉を、「楽しかったよ」という記憶に書き換えるために。

けれど、できなかった。
それが、どれほど丁寧に組み上げられた幸福の再演であっても──
俺の中に浮かび上がるのは、最期の病床の母の顔だった。

「遊園地、行きたかったね」

その声が、耳の奥でふたたび響く。
母が、自分の最期にまで引きずっていた後悔。
それを、俺がこうして勝手に「訂正」しようとしたことが、
耐えがたいほど、恥ずかしかった。
これは贖罪ではなかった。
思い出の改竄であり、死者への冒涜を、俺は、した。

「楽しかったね」
笑顔のまま、母が言った。
その瞬間──崩れた。
俺は泣いた。
しゃくりあげながら泣いた。
子どもの姿のまま、母の前で、声を抑えることもせずに。
母が顔をのぞき込む。
「どうしたの? 楽しくなかった?」
そのやさしさに、さらに涙があふれる。
俺はしゃくりあげ、心配そうに見つめる母の前で、そっとステータスウィンドウを開き──
仮想現実からログアウトした。

ヘッドセットを外した瞬間、目の奥が焼けつくように痛んだ。
まばゆい光の余韻が視界に残っているのか、それともただ涙がこびりついていたのか、しばらく何も見えなかった。
手が震えていた。
膝の上に落ちていく涙の重さが、じっとりとズボンの布地に染みていく。
それが、やけに静かだった。
部屋の静けさが突き刺さるようだった。
やがて津波のように、悲しみ、後悔、混乱、絶望、あるいは愛情と苦痛の混じり合った感情が押し寄せた。
母が亡くなったときよりも、俺は激しく泣いた。
俺は、この母との『新しい思い出』を、どう抱えて生きていくべきなのか……もう分からなかった。

—— おわり——

【小説】メダカスイッチ

大学の一角に、小さな水槽が並ぶ研究室があった。
そこではメダカの神経細胞を研究する若き学者・八ツ橋十郎(やつはしじゅうろう)が、日々メダカたちを観察していた。
彼には、特別に愛する一匹のメダカがいた。
白い体に淡い青の模様が輝くメダカ——「ふなんしぇ」。

「ふなんしぇ……君は僕の声がわかるのかい?」
八ツ橋は顕微鏡をのぞき込みながら、そっと声をかけた。
意識は特定の領域にあるのではなく、脳細胞の結びつきによって決まる。
脳の量や神経細胞の密度が意識の有無を左右するので、ネズミや爬虫類だけでなく、昆虫ですら意識を持つ可能性があるという。
メダカの大脳辺縁系に類する領域の神経活動を調べることで、彼らが本能的な行動だけでなく、ある程度の認知を持つことが示された。
メダカもまた、小さな脳の中で何かを「感じている」のだ。

彼の研究は、東京大学を含む研究グループが発表した「恋のスイッチ」と呼ばれる神経細胞の存在に基づいていた。
メダカの脳内で特定のニューロンが活性化すると、異性に対する行動が変化することを示した研究だった。
彼は、この「恋のスイッチ」の働きを応用し、ふなんしぇが自分を好きになるように仕向けようと考えた。

「もし、そのスイッチを押せば……ふなんしぇは僕を愛する?」
研究室の同僚であるウエハ坂削也(うえはざかさくや)が、それを聞いて深いため息をついた。
「八ツ橋、それは違うだろう。恋愛ってのは、操作するものじゃない!」
その言葉が、八ツ橋の胸に深く刺さった。

彼は気づいた。
愛は操作するものではなく、育てるものだ。
それから八ツ橋は、ふなんしぇにまっすぐ向き合うことを決めた。
毎日、彼女が好むエサを選び、心を込めて話しかけた。
メダカが最も好む青色の背景を用意し、彼女が快適に過ごせる環境を整えた。

変化が起こった。
八ツ橋が話しかけると、ふなんしぇはいつも何か言いたげにヒレを揺らし、じっと彼を見つめるようになった。
あるとき、ふなんしぇは急に活発に泳ぎ出し、水面まで浮かんで、必死に尾びれを振った。
「こいつ、お前に何か言いたいんじゃないのか?」
それを背後から見ていたウエハ坂が言う。
八ツ橋は顔をほころばせた。
その反応を「自分への愛情」だと確信し、彼はさらに研究を進めた。
「メダカの脳の信号を直接解析して、僕たちが会話できたら……」
メダカの脳を解析し、神経細胞の動きを調べることで「メダカ語」を解読しようとした。
八ツ橋は最新の神経科学技術を応用し、メダカの脳の活動を翻訳するプログラムを作り始めた。

ある日、八ツ橋は研究室の外へ出る際、小さな金魚鉢にふなんしぇを移すようになった。
そっと肩にのせ、大学構内を歩く——まるで恋人とデートをするかのように。
この珍妙な光景は次第にキャンパス中で噂になった。
それを笑う者もいたが、ウエハ坂は彼らに向かって毅然と言った。
「純粋な愛に満ちた二人を笑う奴のほうがおかしい!」
青空の下、八ツ橋とふなんしぇの関係はさらに深まっていった。

八ツ橋は、メダカの脳の活動パターンを人間のそれと照らし合わせ、言葉として表現できないかと試行錯誤を続けていた。
ある日、その実験の最中に、異変が起こる。
『……ヤツハシ?』
日本語に変換された人工的な女性の声が研究室に響いた。
金魚鉢の中のふなんしぇが、彼の名を呼んだのだ。

ふなんしぇはゆっくりと話し始めた。
「ヤツハシ……私は、ずっとあなたに言いたかったことがあるの」
八ツ橋は金魚鉢を眼の前に持ち上げ、期待しながら待つ。
ふなんしぇはガラスで隔てられた外界を見つめ、
『……私、ウエハザカのことが好き』

研究室には沈黙が流れた。
八ツ橋は呆然とし、後ろで立っていたウエハ坂は戸惑いながら水槽をのぞき込んだ。
「ま、待てよ……俺?」
『ええ、あなたの、友達想いの優しさに惹かれたの』
八ツ橋はそっと金魚鉢を置いた。
「……科学って、残酷過ぎる」
研究室を出ていった。
ウエハ坂は金魚鉢を前にして深いため息をつく。
(いやいや、なんで俺んとこ置いていくんだよ……)

そんな困惑をよそに、ふなんしぇは幸せそうに水の中でヒレを揺らしていた。

——おわり——

【小説】犬おじさんと過ごした夏

夏休みの始まり。
粉彦(こなひこ)は、いつものように近所の空き地を通り抜けようとして、足を止めた。
──そこに、一人のおじさんがしゃがみ込んでいた。
汗でくたびれたシャツ、泥で汚れたズボン、ぼさぼさの髪。
でも、それよりも気になったのは、彼の目だった。
悲しそうにじっと粉彦を見つめ、「くぅーん……」と小さく喉を鳴らす。
人間なのに、犬みたいな声を出している。
それだけじゃない。
彼は四つん這いで、まるで犬のように体を丸めていた。
首元には銀色のプレート。
「意識移植刑適用対象 犯罪者 No.0774」

おじさんは外見は人間のまま、意識だけが犬になっている。
新聞で読んだ記事によると、動物の意識を移植された犯罪者は、GPS、監視カメラや衛星で常時監視されているらしい。
逃亡を防ぐということよりも、誰かが過剰な危害を加えたりしないように、ということだが。

「……おじさん?」
粉彦が呼ぶと、おじさんはぴくりと肩を揺らした。
でも言葉は返ってこない。ただ、喉を鳴らすだけ。
彼は人間だったころの声を失っていた。
何かを言おうとすると、「わんっ」「くぅーん……」としか鳴けない。
「……おじさん、俺が助けてやるよ」

7月21日 晴れ
「犬おじさんはパンが好き」
今日、おじさんにパンをあげたら、四つん這いのまま食べてた。
「くぅーん」って鳴いてたけど、多分喜んでたと思う。
最初は怖かったけど、もう慣れた。
おじさんはただの「犬おじさん」だ。

* * * * * 

粉彦は毎日のように空き地に通った。
お小遣いで買ったパンの切れ端や、家の残り物をこっそり持っていくと、おじさんは四つん這いのまま、それを食べた。
「おじさん、ほら、水もあるよ」
ペットボトルのキャップに少し水を入れて差し出すと、おじさんは恐る恐る顔を近づけ、ペロペロと舐めた。
まるで本物の犬みたいに。
「……おじさん、気持ちは犬なの?」
「わん」
おじさんは、わかっているのかわからないのか微妙な顔で、静かにしっぽを振るみたいに腰を揺らした。
粉彦は思わず笑った。

7月29日 曇り
「犬おじさんはかくれんぼが得意」
今日はかくれんぼをした。俺が隠れて、おじさんが探す遊び。
おじさんは鼻をくんくんさせて、すぐに俺を見つけた。
見つけたとき、「わん!」って得意そうに鳴いた。
ちょっと笑っちゃった。

* * * * * 

時々、おじさんは遠くを見つめることがあった。
まるで、何かを思い出しそうに、でも、それが何だったのか分からなくて苦しんでいるように。
「おじさん、家族とかいた?」
粉彦がそう聞くと、おじさんはピクリと反応し、ぎゅっと目をつむった。
「……くぅーん……」
悲しそうな声。
その鳴き声を聞いて、粉彦は自分のことを思い出した。

粉彦の父親は、家に帰ってこなかった。
仕事が忙しいのだと母親は言うけれど、本当は別の家族がいるのだと知っていた。
たまに帰ってきたときも、母親とケンカばかりだった。
「男ならもっとしっかりしろ」「家族を支えろ」
そんな言葉ばかりで、粉彦のことなんて見ようともしなかった。

「……俺の父ちゃん、家に帰ってこないんだ」
おじさんは、じっと粉彦を見つめた。
「たまに帰ってきても、俺のことなんて全然見てくれない」
おじさんはゆっくりと、四つん這いのまま粉彦の横に座る。
そして、そっと頭を粉彦の膝に乗せた。
まるで、「分かるよ」と言いたげに。
粉彦は驚いたけれど、そっとおじさんの髪を撫でた。
父親にはできなかった触れ合いが、おじさんならできる気がした。

8月3日 晴れ
「犬おじさんは、時々悲しそうにする」
おじさんは、何かを思い出しそうになると、空をじっと見つめる。
俺のことをじっと見るときもある。
何かを思い出そうとしているかのように。
「家族いたの?」って聞いたら、黙っちゃった。
おじさんにも、俺みたいに帰ってこない父ちゃんがいたのかな。

* * * * * 

「……ああ、そうか!」
粉彦は気づいた。
おじさんには子供がいるのかもしれない。
父ちゃんと同い年ぐらいだから、僕ぐらいの歳なのかな。
きっと、犬なりにそのことを思い出して悲しんでいるんだ。

粉彦とおじさんはお互い、失ったものを補いあっている関係なのかもしれない。

8月15日 雨
「犬おじさんは、俺を守ろうとした」
今日は、怖かった。
おじさんが俺の前に立って、ワンワン吠えた。
でも、俺のせいで殴られた。
ごめんなさい。

* * * * * 

夏休みも終わりに近づいたころ。
粉彦が空き地でおじさんと遊んでいると、同じクラスのいじめっ子たちがやってきた。
「お前、犬と遊んでんの?」
「っていうか、これ犯罪者だろ」
「気持ち悪っ!」
そう言いながら、彼らはおじさんに石を投げた。
おじさんは身を縮める。
「やめろ!」
粉彦が叫ぶと、いじめっ子たちは粉彦を殴り始めた。
その瞬間——おじさんが飛びかかった!

四つん這いのまま、牙をむくようにして突進する。
いじめっ子たちは棒を持ち、おじさんを殴りつけた。
おじさんはいじめっ子にしがみつき棒を落とそうとしたが、後ろに回り込んだ一人がめいいっぱい振りかぶり、おじさんの顔面を棒で殴りつけた。
おじさんの右目まぶたから血が吹き出した。
粉彦は泣き叫ぶ。
いじめっ子は笑いながら逃げていった。
おじさんは、ぐったりと倒れた。
それでも、最後の力を振り絞るように、粉彦の手をそっと舐める仕草をした。
その仕草に、粉彦は思う。
「まるで、お父さんみたいだ……」

8月31日 晴れ
「犬おじさんは、いなくなってしまった」
空き地に行ったら、もうおじさんはいなかった。
昨日までいたのに。
俺のこと、覚えてるのかな。
また会いたいです。

* * * * * 

おじさんの刑期が終了した。
粉彦が空き地に行くと、もうおじさんの姿はなかった。
誰かが連れて行ったのだろう。
犬だった頃の記憶が消されて、また元に戻るのだ。
そういう決まりだから、仕方がないのかもしれない。
でも……胸の奥がぽっかりとあいたようだった。

* * * * * 

高校生になった粉彦は、居酒屋でバイトを始めた。
両親が離婚し、粉彦は母親と二人暮らしになったのだ。
生活費を稼ぐため、学校の帰宅時間から深夜まで働いた。
カウンター越しに酒を注ぎ、皿を運び、ひたすら客の注文をこなす。
リーダーは柚餅(ゆもち)という男だった。
年齢は四〇代。
少し疲れた顔をしているが、どこか落ち着いた雰囲気がある。
口数は少ないが、淡々と仕事をこなし、バイトの面倒も見てくれる。
粉彦は、彼を見た瞬間に分かった。
──この人は、あの夏に空き地で出会った犬おじさんだ。
しかし柚餅は粉彦を知らない。
意識移植刑を受けた者は、人間に戻るとき記憶を消される。
だから、柚餅は「犬だったころ」のことを何も覚えていないはずだった。

休憩中、先輩バイトの男たちが、柚餅の方を見ながらクスクスと笑っていた。
「なあ、柚餅さんってさ、昔『犬』だったんだろ?」
「詐欺やらかして、意識移植刑にされたんだってよ。マジウケるよな」
粉彦はドキッとした。
「どんな気分なんすか? 人間なのに犬やってたって」
「ドッグフード食わされてたんスか?」
柚餅は、何も言わなかった。
ただ、タバコに火をつけて、ゆっくりと吸う。
粉彦は、拳を握りしめた。
(ふざけるな……おじさんは、そんな人じゃない)
でも柚餅本人は、ただ静かに「仕事行くぞ」とだけ言い、厨房へ戻っていった。

その夜、粉彦はやらかした。
忙しい時間帯、客のオーダーを聞き間違えたのだ。
唐揚げを頼まれたのに、刺身を運んでしまう。
「おい、新人! 何やってんだよ!」
厨房の先輩が怒鳴る。
「オーダーミスとか勘弁してくれよ! すぐ作り直せ!」
粉彦は謝りながら、急いで動こうとする。
そのとき——
「新人なんだから、そんな怒るなよ」
柚餅が静かに言った。
「誰だって最初はミスする。お前らも入ったばかりの頃やらかしただろ?」
その声は穏やかだったが言い返せない強さがあり、先輩たちは黙り込んでしまった。
まるで——
(あの夏、俺を守ってくれた犬おじさんみたいだ……)
粉彦は、柚餅の右の目尻を見た。
ほんの小さな傷の痕が残っていた。
あのとき、俺を守ってくれたときの傷だ。
粉彦は確信した。
記憶が消えても、柚餅の心のどこかにあの夏の感情が残っている。

「お疲れ様です」
帰り間際、粉彦は柚餅に声をかけた。
「今日は……ありがとうございました」
柚餅はしばらく黙りこみ、そして。
「俺な、お前ぐらいの歳の息子がいて……今は会えないんだけど」
壁を向いて、肩を震わせた。
「お前を見ているとな、つい思い出してしまうんだ」
犬おじさんは、今でも優しかった。
粉彦は日記の続きを書くことにした。

* * * * * 

4月30日 晴れ
「元犬おじさんあらため柚餅さんは、泣くのを我慢して向こうを向いて立ってました」

—— おわり——

【小説】悲報!! ワイ、入院中にゲーム貸した女の子に裏切られる

1 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:15:32.12 ID:XXXXXXXX
盲腸で入院してたとき、隣の病室の女の子(たぶん小学生)にゲーム機貸したんや
ドラクエ3やらせたらめっちゃ楽しそうに遊んでたんやけど、ワイの名前つけた遊び人(職業)がパーティーに入っとったんや
ちょっと嬉しかった

2 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:16:10.45 ID:XXXXXXXX
ほのぼのエピソードやんけ

3 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:16:45.87 ID:XXXXXXXX
かわE

4 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:17:23.21 ID:XXXXXXXX
ええ話っぽいな、続きは?

5 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:18:10.32 ID:XXXXXXXX
↓どうせ遊び人クビになる展開

6 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:18:50.97 ID:XXXXXXXX
ワイ退院 → 数週間後に病院行ったら女の子の部屋が空になってたんや……
看護師さんに聞いたら「亡くなりました」って言われた

7 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:19:30.29 ID:XXXXXXXX
えっ……

8 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:19:45.21 ID:XXXXXXXX
急に展開が重い

9 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:20:10.98 ID:XXXXXXXX
やめろや、泣く

10 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:20:45.67 ID:XXXXXXXX
まじか……

11 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:21:10.21 ID:XXXXXXXX
それでワイ、看護師さんに無理言って女の子の家を教えてもらって、ゲーム機返してもらいに行ったんや
んで電源入れてデータ見たらな……

12 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:21:55.45 ID:XXXXXXXX
(゚Д゚;)

13 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:22:30.87 ID:XXXXXXXX
データどうなってたんや

14 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:23:10.62 ID:XXXXXXXX
パーティーからワイ(遊び人)外されてたわ
イケメン先生(病院の若い医者)が戦士として入ってた

15 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:23:50.12 ID:XXXXXXXX
草ァ!!!

16 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:24:05.47 ID:XXXXXXXX
草だけど泣ける

17 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:24:30.98 ID:XXXXXXXX
結局ルイーダの酒場(待機キャラ置き場)に預けられたワイ、無事リストラされる

18 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:25:15.32 ID:XXXXXXXX
そりゃ遊び人より先生(戦士)のほうが頼りになるやろ

19 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:25:50.67 ID:XXXXXXXX
でも遊び人が最終的に賢者になるの知ってたら、外さなかったかもな……

20 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:26:10.32 ID:XXXXXXXX
>>19 そう思いたいンゴねぇ……

21 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:26:55.10 ID:XXXXXXXX
ワイ「まあ、そりゃ遊び人は役に立たないよな~ あはははは~」
ワイ「……」
ワイ「……」
ワイ「……(なみだが止まらない)」

22 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:27:40.90 ID:XXXXXXXX
やめろマジで泣く

23 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:28:20.13 ID:XXXXXXXX
名もなき少女の冒険は続いていたんやな……

24 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:29:00.52 ID:XXXXXXXX
悲しいけど、なんかええ話や

25 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:29:40.80 ID:XXXXXXXX
お前の遊び人、また旅立つ日が来るとええな

26 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:30:10.22 ID:XXXXXXXX
>>25それな、ルイーダの酒場でずっと待っとるわ

27 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:31:00.12 ID:XXXXXXXX
ワイもドラクエ3やりたくなってきたわ……

【このスレは涙で見えなくなった人たちによって沈みました】

—— おわり——

【小説】顔の潰れた子どもたち

餡太(あんた)がその地下倉庫に足を踏み入れたのは、十歳のある雨の日だった。
母親がいない間に、家の中を探検していた彼は、ふと、階段の下に続く扉を見つけた。
重たい扉を開けると、冷たい空気が足元から這い上がり、わずかな湿気が鼻をついた。
暗闇の中、彼はゆっくりと降りていった。ぼんやりとした照明の下に浮かび上がる光景——そこには、無数の死体が転がっていた。
すべて、子どもだった。
赤子から自分と同じぐらいの年の男の子たち。共通しているのは、顔が潰れていること。潰され、ひしゃげ、元の形を留めていない。目も鼻も口も、何もない。
餡太の背筋に氷が走った。
——これは、何だ?
目の前の光景を処理しきれず、思考が止まる。だが、一つの考えが頭の中で膨れ上がっていく。
お父さんとお母さんは、殺人者だ。
それしか考えられなかった。彼らは、子どもたちをここに閉じ込め、殺している。どうして?なぜ?
彼の心臓は激しく脈打ち、全身が震えた。
餡太は息を詰め、音を立てないように家の中を駆け回った。両親はどこにもいない。家は静まり返っている。
遠くでサイレンが聞こえる気がした

「ピンポーン♪」
家の呼び鈴が鳴った。
玄関を開けると、そこには警察官が立っていた。優しそうな顔の男だった。
「最中田(もなかだ)さんのお宅はこちらかな? ちょっとお父さんお母さんが帰ってくるまで待たせてもらえないかな」
餡太の脳内警報が一斉に鳴り響く。
——来た……!
ついに警察がうちの秘密を嗅ぎつけたんだ! この人たち、絶対に両親を逮捕しに来た!
まずい。どうしよう?どうしよう!?でも、僕はまだ捕まりたくない。まだ宿題も終わってないし、カレーの残りも食べてないし、なにより……
この家の秘密がバレたら、僕もやばいのでは!?
餡太は一瞬だけ迷ったが、すぐに決意する。
「こっちです!」
無邪気な顔で警察官の手を引き、地下倉庫へと案内した。警察官は、少し戸惑いながらも後に続く。
そして、餡太が倉庫の奥へと進んだ瞬間——
「え?」
警察官が足を踏み外す。
「わあああっ——!!」
ゴロゴロゴロッ、ドン。
音とともに、警察官は階段を転げ落ちた。
カチャン。
扉が閉まる。
——静寂。
かすかに、「助けて——」という声が聞こえた気がしたが、それもすぐに途切れた。
餡太は、じっと耳をすませた。
「……大丈夫かな?」
しばらくして、彼はホッと息を吐いた。
「よし」

数日後、また警察が訪ねてきた。
「最中田さんのお宅はこちらかな? ちょっとお父さんお母さんが帰ってくるまで——」
「こっちです!!」
またしても地下倉庫にご案内。
「え?ちょっと待っ——」
ドン!ゴロゴロゴロ!バタン!
何も聞こえない。……よし。
そして、それが何度も繰り返された。

テレビでは「最近、警察官の行方不明が相次いでいます」というニュースが流れ始めた。
餡太は震えた。
「僕、やばいことしちゃってる……?」
でも、今さらどうしようもない。こうなったら、もう警察官が来るたびに、地下倉庫に入ってもらうしかない。
「だって、秘密がバレたらおしまいだもん……」

ある晩のこと。
両親は静かに寝ている餡太を見つめていた。
「そろそろね」
「うん、餡太も成長したし……」
彼らは地下倉庫の扉を開けた。
すると——
そこには、警察官の死体がいくつも転がっていた。
両親はギョッとした。
「……なんだこれは?」
しかし、父が警察官の首元に手を伸ばし、カチッとスイッチを押すと——
——ガチャッ。
警察官がゆっくりと起き上がった。
「……再起動完了」
最初に家にやってきた警察官が言う。
「最中田さんのお父さん、お母さんですか? 困りますよ。お宅のお子さんが、近所の人からちょっとしたことで通報されちゃってね」
「そうなんですか!?」
「公園で遊んでいたボールがよその家に入ったとか、些細なことなんですけど……それにしても、なぜ私はここに?」
他の警察官も次々と再起動してムクリと起きあがる。
「……なんでこんなところにいるんだ?」
「それがわからないんです」
「強い衝撃で一時的に記憶が初期化されるようです」
「ここで転んだんですかね」
警察官たちはみんな首を傾げながら並んで階段を上がり、家から出ていく。
母が呆れたようにため息をつく。
「いったいなんなのよ……」
父親も憤慨する。
「近頃の警官の質が下がっていると聞くが、整理不良すぎるだろ!」

そして両親は、まだ眠っている餡太を地下倉庫の冷たい床に横たえて見下ろす。
「餡太も成長したし……そろそろ新しい身体に替える時ね」
母は工具を手に取る。父がゆっくりと息を吐く。
「顔を潰して電子脳を取り出そうか」
母が小さく笑う。
「成長期だからボディ交換が頻繁で、お金がかかって仕方ないわ」
——バキッ。

翌朝。
「ピンポーン♪」
新しい体の餡太が目を覚ました。
玄関のドアの向こうには、警察官が立っていた。
「最中田さんのお宅はこちらかな? ちょっとお父さんお母さんが帰ってくるまで——」
餡太はニコッと笑った。
「こっちです!」

——おわり——

【小説】燃え尽きる空

「夕日が赤いのは、太陽の血が地平線に落ちるから」
そんな噂をどこかで聞いたことがあった。
まだ幼かったバニ雄は、それを真実だと信じていた。
夕焼けが染める空を見るたび、彼は追いかけて精一杯走った。
西へ西へ、沈みゆく太陽を追いかける。
しかし、どれだけ走っても、太陽は彼の目の前で地平線の向こうへと消えてしまう。

小学生になったバニ雄は、放課後になると自転車を飛ばし、いつもの坂道を駆け下りた。
風が頬をなで、耳元でざわめく。
田んぼのあぜ道を抜け、木々の間をくぐり抜ける。
金色に染まった景色の中で、彼の心は高鳴った。
「今日こそ、太陽が沈むところを見届けるんだ!」
夕暮れの光を追いかけ、彼は全力でペダルを踏み込んだ。
けれど、太陽はあまりにも早く地平線へと滑り落ちていく。
西の空に広がる赤の余韻を残し、やがて星が瞬き始める。
いつも途中で日が暮れてしまう。

ある日、彼は自転車を漕ぎ続け、ついに県境をまたぐ雄大な橋にたどり着いた。
そこで彼は驚いた。
橋の向こう、都会のビルの群れの間を縫うように、太陽が沈んでいく。
しかし、その動きが奇妙だった。
太陽がおののくように脈動しながら、建物に刺さることを避け、隙間にむかって滑りこむように見えたのだ。
「落ちるのを避けている……?」
彼は思わず呟いた。
ビルのシルエットの凹んでいる部分に、粘度の高い液体の雫のようにつるんと太陽は落ち、そのまま下に滲んで消えていった。
ビルのガラス窓に赤い光が反射し、川面が炎のように揺れている。
その景色を、バニ雄はしばらく立ち尽くして眺めた。
街は騒がしく、車のクラクションが遠くで響く。
しかし、その喧騒の中で、彼は一人だけ違う世界にいるような気がした。
「今日もダメだったな……」
悔しさと、ほんの少しの切なさを胸に、バニ雄はゆっくりと家へと戻っていった。
彼の瞳にはまだ、夕焼けの名残が映っていた。
それでも、彼は諦めなかった。

やがて少年は成長し、バイクの免許を取った。
今度こそ間に合うかもしれない——そう信じ、彼はエンジンを吹かし、夕焼けの中を疾走した。
燃えるような赤い光が、彼を導くかのように伸びている。
彼はアクセルを回しながら、風を切る音とエンジンの鼓動を感じた。
夕日の光はまるで燃え盛る炎の道となり、彼の前に延びているようだった。
長い道を走り抜けるうち、街の喧騒が後方へ遠ざかり、郊外の風景が広がる。
橋を渡ると、川面が赤く染まり、まるで血の流れのように見えた。
川の向こうには、小さな村があり、子供たちが夕焼けに向かって駆け回っている。
その無邪気な声が、彼の記憶の奥底を揺さぶった。
さらに進むと、舗装されていない道に入り、周囲は徐々に荒れ果てた風景へと変わっていく。
木々が減り、岩だらけの地面がむき出しになり、遠くには草も生えない乾いた大地が広がっていた。
気づけば、彼は荒涼とした大地の真ん中に立っていた。

そこで彼は見た——地平線の果てに横たわる、巨大な輝く気球のような太陽の姿を。
それはまるで、膨らみすぎた熱気球のようだった。
かつて空を誇らしげに漂っていたのに、今は急速にしぼみかけていた。
「殺してくれ……いっそ殺してくれ……」
その声は、大地の底から響くような、かすれた嗄れ声だった。
周囲は赤熱した太陽の血が滲んで真っ赤だ。
倒れかけた木の小屋から、風に吹かれて歩いていた行商人が、岩陰の遺跡から近隣の人々が、皆その姿を見て、静かに涙を流した。
「……かわいそうになあ」
誰かがそう呟いた。
やがて、バニ雄は先の尖った棒を、沈みかけた太陽へと向ける。そして——
「ありがとう……」
その最後の言葉とともに、太陽は静かに息を引き取った。
穴の空いた箇所から、熱い血が噴き出し、ゆっくりと縮んでいった。
最後に残った皮が血とともに地面に染み入るように消えていき、夜の帳が荒野を覆った。
バニ雄は、太陽を見送った人々とともに、焚き火を囲みながら朝まで語り合った。
永遠に近い過去から、ずっと繰り返されてきたであろうこの営みに思いを馳せて。

夜が明けた。
東の空が微かに朱を帯び、やがて新たな太陽が昇り始める。
バニ雄はその光をじっと見つめながら、静かに息を吸った。
自分の手のひらを見つめる。
熱い太陽の血はもうそこにはない。だが、その熱はまだ残っている気がする。
「次は、どこへ行けばいいんだろうな……」
彼はエンジンをかけると、まだ誰も知らない道へとゆっくりとバイクを走らせた。
金色に輝く地平線の向こう、まだ見ぬ景色を求め——

——おわり——

【小説】伊恵寿(いえす)の奇跡

関東の海辺の町に、湯の煙が立ちのぼる温泉街があった。
海鳴りは絶えず、浜風は塩を運び、軒先には古い木札が揺れ、「い〜い湯だや♪」の歌が昼も夜も響いていた。

その町に、大工の那麗(なざれ)の家があり、その家の子として伊恵寿(いえす)は生まれた。
彼は幼きころより穏やかで、人を笑わせ、人の悲しみを軽くすることを好んだ。
手のひらから湯気の立つパンを出したり、わずかな魚を一瞬で山盛りに増やしたり、さらには湖の水面を平然と歩いてみせる伊恵寿の「手品」は、どう見ても普通ではなかった。
人々は驚き、子供たちは歓声を上げた。

「伊恵寿、お前の手品すげえな!」
税務署員の息子真鯛之助(またいのすけ)は叫び、
「俺はこいつに弟子入りする!」
瓶手郎(ぺてろ)は膝を叩く。
枕田(まくらだ)の麻莉亜(まりあ)は微笑み、
「本当にすごいよね! 神さまのような力を持っているのかしら」
と感嘆の声を漏らすと、子門(しもん)も
「そうだよ! 救世主とかさ!」
と茶化す。
伊恵寿は笑って首を振った。
「救世主なんて大げさ! ただの大工の息子さ。湯気が立つのも、魚が群れるのも、自然の働きなんだよ」
彼の声は柔らかく、海辺に響く波音のようであった。

だが、椅子借桶(いすかりおけ)の雄太(ゆだ)だけは、その様子を遠巻きに見つめるだけだった。
「あれは、ただの手品ではないぞ……」
彼だけは心の奥底にわだかまりを抱えていた。

   *   *   *

夏の終わりに、記録的な台風が近づいた。
海は黒く泡立ち、港の防波堤を越えて波が打ちつけた。
風は瓦を飛ばし、看板を折り、「い〜い湯だや♪」の音楽も、ちぎれたテープのように途切れ途切れになった。
港に集まった若者たちは、荒れ狂う波を見ながら興奮していた。
「嵐の海で釣りしたら、きっと大物が釣れるぞ!」
誰かが叫び、笑いが起きた。
雄太は止めようとした。
「やめろ! これは洒落にならない。死ぬぞ!」
だが、誰も聞かなかった。

そのとき、伊恵寿がすっと前に出た。
彼は濡れた髪をかき上げ、空を仰いで言った。
「静まれ」
その声は風よりも強く、嵐の音を押し返した。
海はたちまち凪ぎ、波のうねりは消え、厚い雲が裂けて光が降り注いだ。
浜辺に集まった者たちは息をのんだ。
太陽の光は金の矢のように海面を射し、白い泡が光を受けてきらめいた。
人々は歓声を上げたが、それは恐れではなく、笑いに似ていた。
「また手品だ!」
「やるな、伊恵寿!」
誰もそれを奇跡とは呼ばなかった。
ただの見世物。湯けむりと同じ、一瞬で消える幻想。

しかし、雄太だけは、その光景を見つめながら凍りついていた。
「これは……手品なんかじゃない」

伊恵寿は雄太の方を振り向いた。
潮風に髪をなびかせ、まるで何もなかったかのように笑い、手を振った。
雄太の胸に、言葉にならない熱が宿った。
羨望、恐れ、そして——疑い。
「なぜだ?」
「奇跡が奇跡であることを、なぜみんな気づかない?」
風が再び吹き始め、海はいつもの姿に戻った。
嵐は去ったが、雄太の心には、嵐が残ったままだった。
「伊恵寿はその沈黙の裏に、何を抱えている?」と。

   *   *   *

日が経つごとに、伊恵寿の名は町のあちこちで語られた。
「魚を増やす若者」「湯けむりの魔法師」「海を鎮めた男」。
その呼び名は誇張され、笑い話として広まった。
しかし、彼を慕う者たちが増えていったのも事実だ。
彼らはいつしか「十二使徒」と呼ばれるようになった。

彼らの住む温泉街は数年前、平成の大合併によって驢馬(ろうま)市に組み込まれていた。
効率化という名のもとに、公民館も図書館も学校も次々と統廃合され、人が集まる場所が消えていった。
湯の町は地図の上では一地区にすぎなくなり、観光客は減り、灯りは減り、声も減った。

「十二使徒」を中心に、温泉街の若者たちは、長いあいだ湯けむりの下で眠っていた町に、もう一度新しい息を吹き込もうとしていた。
「この町を変えよう」
彼らは浜辺に集まり、古い演歌調の「い〜い湯だや♪」をジャズに編み直し、波音をリズムに即興の演奏を始めた。
笑い声が湯けむりに混じり、久しぶりに町に音が戻った。

夏には手づくりの音楽祭を開き、地元の食堂や旅館を回って協力を求めた。
「観光客に頼らず、自分たちでこの町を立て直したいんです」
若者たちの声は真剣だった。
「い〜い湯だや♪」を歌う伊恵寿の歌声が響く。
その声を聞くと病気が癒やされる、という不思議な噂が立った。
歌声は静かに熱を帯び、湯けむりの向こうに見える海が、彼らの熱を映すようにゆらゆらと銀の光を返した。
彼らは最終的に驢馬(ろうま)市からの独立を目指していた。

だが、組合の古老たちは怒った。
古びた旅館の座敷で、組合の重鎮たちは湯呑を置き、伊恵寿を呼びつけた。

「お前のやっていることは何だ」
「手品や音楽で若者を煽ってどうする」
「湯守の掟を忘れたのか」

伊恵寿は静かに座り、頭を下げた。
「みんなに笑ってほしいだけなんです。湯の町が、また賑やかになればそれで」
だが、古老たちは聞かなかった。
平成の大合併から長く経ち、彼らはすでに驢馬の富裕層と癒着関係にあった。
もう引き返せない。
伊恵寿は責め立てられた。
「お前は湯の秩序を乱す者。若者を惑わせる者だ」
古老たちは机を叩き、怒声を浴びせた。

後ろで瓶手郎がつぶやいた。
「これじゃまるでムチ打ち刑だよ……」

鶏が三度鳴く時刻。
会は散り、人々は湯けむりの夜道を黙って帰った。
伊恵寿と雄太だけが残り、海へと続く坂道を歩いていた。

「みんな、お前がこの町を変えてくれると信じてる」
「そんな大層なもんじゃないよ。僕はただ、大工の息子だから」
「でもさ……お前には、何かある」
雄太の目には、かすかな怒りと祈りが混ざっていた。
「お前のパンは湯気を立て、お前の魚は増える。お前の足は水の上を歩く。それを奇跡と呼ばずに何と呼ぶ?」
伊恵寿は肩をすくめた。
「奇跡を見たいなら、湯気を見上げたらいい。誰もが見たいものだけを信じるのさ」
しかし、雄太は追及をやめなかった。
「そういうことじゃない! お前、本当は手品じゃなく——」

十字路に差しかかったそのとき、背後から車のクラクションが鳴り響いた。
猛スピードで突っ込んできた車は、雄太の目の前で伊恵寿をはね飛ばした。
伊恵寿の体は宙を舞い、地面に叩きつけられた。
即死だった。

   *   *   *

伊恵寿の死は、湯の町に重い影を落とした。
港の風は止み、潮騒は喪のように低く響いた。

「雄太が……裏切ったんじゃないか?」
誰かがつぶやいた。
その声は湯けむりのように町中に広がった。
「だって、あの夜、二人きりだったんだろ」
「伊恵寿は、雄太を信じてたのに……」
雄太は否定した。
「俺は何もしてない! ただ隣にいただけだ!」
だが、瓶手郎も真鯛之助も目をそらした。
麻莉亜は泣きもせず、子門は煙草をくわえたまま言った。
「人は奇跡より噂を信じるもんだよ」

それから三日が過ぎた。
台風は遠くに去り、海は再び静まりかえった。
だが、人々の心には、まだ嵐が吹き荒れていた。
三日目の朝、町の火葬場には伊恵寿の棺が運ばれた。
組合の長老も、若者たちも、みな白い喪服に身を包み、黙って列をなした。

   *   *   *

火葬炉の扉が閉まると、鈍い音を立てて炎が灯った。
湯気と煙がゆっくりと上昇し、天井の換気口から外へと流れた。
そのとき、誰もが忘れられない声を聞いた。

「うう〜! あつい〜! 助けてくれ〜!」

職員たちは凍りついた。
炉の温度は千度を超えている。
中に、生きた声があるはずがない。
瓶手郎が叫んだ。
「伊恵寿……なのか?」
「嘘だろ……復活したのか?」
麻莉亜は口を押さえ、雄太は震える声でつぶやいた。
「……やっぱり、奇跡なんだ」
声は続いた。

「あつい〜! もうダメだ〜!」

炎が唸り、鉄が鳴り、やがて声は途絶えた。
炉が冷え、扉が開かれたとき、そこに残っていたのは白い骨だった。
それは、奇妙なことに十字架に貼り付けられたかのようなポーズをしていた。

沈黙が落ちた。

瓶手郎は言った。
「これ……最後の大手品じゃないか?」
自分を納得させるように、真鯛之助はがくがくと首を振った。
「伊恵寿らしいよな。最後まで人を驚かせる」
麻莉亜は微笑み、子門は肩をすくめた。
「自分の死まで笑いに変える。ホント、すごい奴だ」
火葬場の外では、セミが鳴いていた。
その声はまるで、空に昇る湯気のように淡く消えていった。

   *   *   *

帰り途、「十二使徒」全員で肩を並べて海沿いの道を歩いた。
月が波間を照らし、白い光が漂っていた。
「もし、あいつが本当に救世主だったなら……俺たちは、ひどいことをしたんじゃないか?」
雄太の問いかけに誰も答えなかった。
温泉の排気塔から、ふわりと湯気が上がり、月光の中に溶けていった。
雄太は顔を上げた。
夜空には雲の裂け目があり、その向こうに星が瞬いていた。
「信じないってのは……あいつにとって、一番つらかったんじゃないか?」
黙して語るものは誰もなかった。

翌朝、湯の町は何事もなかったように目を覚ました。
「い〜い湯だや♪」の音楽がまた流れ、湯けむりは穏やかに空へと昇った。

人々は言った。
「昨日は嵐もなかったし、火葬も無事終わった」
「やっぱり、伊恵寿はいい奴だったな」
「最後まで笑わせてくれた」

そうして、誰も奇跡を語らなかった。
ただ「あいつはたいした手品師だった」
と笑いながら、温泉まんじゅうを頬張った。

——おわり——

【小説】わんこそば殺人事件

夕闇が山々の間に沈み、冷たい冬の風が村を吹き抜ける頃。
岩手の小さな町の商店街で、一つの奇妙で不気味な歌が響き渡っていた。
その歌声の主は、赤い帽子を被った幼い子供たち——地元の幼稚園の帰り道だろうか、五人ほどの小さな群れが、手を繋ぎながら歌を口ずさんでいる。

そばをたべたら 死んじまう
ひとつたべたら もうひとつ
おわらぬそばに 手を出せば
ころりころりと 地獄ゆき

歌声が消えたあと、寒々しい沈黙が町に広がった。
誰もその意味を深く考えようとはしなかったが、その夜、「椀屋」で起こった悲劇が、この歌と不気味なほど符合することになるとは、まだ誰も知らなかった。

冬の寒空の下、岩手の蕎麦の名店「椀屋」では、悲劇的な事件が起こった。
——青年・最中玄(もなか げん)が、わんこそばを食べている最中に倒れ、そのまま命を落としたのだ。
玄の身体はテーブルに伏し、辺りには二〇〇杯の蕎麦の器が散らばっていた。
店の女将や客たちはその異様な光景に震え、声を失った。
「これは明らかに殺人だ!」
冷たい声でそう断言したのは、栗田金之助(くりた きんのすけ)、この町で知らぬ者はいない名探偵だった。
金之助の推理は鋭く、これまで幾多の難事件を解決してきた。
その彼が「殺人」と断じたのだ——誰も逆らうことなどできなかった。

店内は殺人事件の現場となり、警察も駆けつけていた。玄の死因を巡る捜査が始まる中、金之助は冷静な視線を辺りに走らせた。
やがて目を止めたのは玄の隣に座っていた女性——和三蜜かなえ(わさんみつ かなえ)だった。
彼女は玄の恋人だったという。
美しく上品な佇まいだが、どこか不自然なまでに冷静な表情が、金之助の疑念を煽った。
「和三蜜かなえさん、少しお話を伺いたい」
金之助の声に、かなえの身体が僅かに震えた。

玄はその夜、恋人であるかなえと共に「椀屋」を訪れていた。
彼らは最近付き合い始めたばかりの仲だが、玄は不安げな様子で言葉少なに蕎麦を啜っていたという。
蕎麦を入れる店員の証言によると、玄が突然食べる速度を上げ始めたのは、かなえが耳元でなにか囁いてからだった。
金之助は言う。
「最中玄がこのような無茶をしたのは、あなたの一言が原因だ。何を言ったのか話していただけますか!?」

「あなた、本当に食が細いのね…」

「私はそう言っただけなんです、それでどうして彼がそんな行動をとったのか私には理解ができません」
かなえは目を合わせずに言う。
取調室のように緊張感のある「椀屋」の中で、金之助はじっとかなえを見つめていた。彼女は椅子に腰掛け、唇を噛みしめながら俯いている。
「どうやら、あなたには何か隠していることがあるようですね」
「そ、そんなことありません…!」
「ではなぜ、あなたは最中玄君に対し、わんこそばを無理に食べさせるよう仕向けたのですか?」
「私は…ただ、楽しい時間を過ごしたかっただけで…」
金之助は鋭い目を光らせた。
「いいえ。あなたは自分が『大食いチャンピオン』であったことを隠し、その上で玄君を試すように追い詰めたのではありませんか? 彼の少食が気に入らず、無理をさせた挙句に命を落とさせた——これが事実でしょう」

かなえの顔が真っ青になり、彼女の唇から震える声が漏れた。
「ど、どうしてそれを…!」
「ふむ、あなたがテレビ番組でチャンピオンになった映像を偶然目にしたことがあるのですよ。そして、町の人々からも噂を聞きました。あなたは大食いの過去を恥じ、隠そうとしていた。しかし、今夜の出来事でその秘密が露呈したのです」
金之助の声は冷たく、彼の言葉は鋭い刃となってかなえの心を抉った。

かなえは観念したように全てを語り始めた。
「そうです、私はかつて大食いチャンピオンでした。でも、その過去が恥ずかしくて……玄には絶対に知られたくなかったんです」
かなえは今日三〇〇杯でも腹八分目だった。
「玄はそのことを知らないなりに何か思うところがあったんでしょう。私も彼の少食がどうしても耐えられなかった。それで少しでも私に近づいて欲しいと思って、ついあんなことを言ってしまった……決して無理をさせようと、ましてや殺そうと思ったわけではありません!!」
「なるほど。そこでかけた言葉が、結果として彼が命を落とす原因となった……」
「椀屋」は沈黙に包まれた。

「玄は、私に愛されようとして無理をしたんです! 私が大食いだったなんて知らずに……でも、それを言えなくて……結局彼を追い詰めてしまった…」
「かなえさん、あなたは罪を犯したわけではない。そして玄君もまたあなたに愛されたい一心で無理をした」
泣き崩れるかなえを見ながら金之助はうなずいた。
「これは愛が引き起こした悲劇だ」

「椀屋」の外に出ると、どこからともなく子供たちの歌声が響いた。

そばをたべたら 死んじまう
百のわんこで 骨になる……

金之助はその声を聞きながら、冷たい冬の夜道を一人歩き出した。

—— おわり——

【小説】世界よ、推しとともに滅べ

メガネを掛けた青年、小太りの梨本は、自宅でリモートワークをしていた。
机の上にはぬるくなったコーヒーと、キーボードの横に置かれたスマートフォン。
ふと画面が点灯し、SNSのトレンド欄に目をやる。
「……恋人発覚」
梨本の心臓が、不意に高鳴った。
指先が震える。
まさか、と思いつつ、祈るような気持ちでその言葉をタップする。
表示されたのは一枚の写真。
明らかにプライベートな時間、街中で見知らぬ男と腕を組んで歩く、梨本の”推し”——声優・キウ井みゆの姿だった。
その瞬間、全身から力が抜け、心が沈み込む音が聞こえるようだった。
まるで世界の色が褪せていく。
キーボードの上に、涙が落ちた。
熱いものが次々と頬をつたってこぼれ落ち、視界を曇らせる。
しゃくりあげる声が、自分の口から漏れる。
「嗚呼、こんな思いをするぐらいなら……」
声がかすれ、震えながらも、彼は言葉を絞り出す。
「花や草に……生まれたかった!」
嗚咽が部屋に満ちる。
やがて、梨本は声を震わせ、絶叫した。
「世界よ滅べ!」
そのとき、梨本だけではなかった。
SNSの向こう、画面の奥に、数万、いや数十万の声があった。
各地の部屋で、同じように膝を抱え、泣きじゃくるファンたち……名古屋のアパートの一室で泣き崩れる高校生。札幌の病室で天井を見つめる余命幾ばくもない青年。
その全てが同時刻、同じ言葉を呟いた——
「世界よ滅べ」

祈りは、集まり、濃密な念となり、物質世界へ干渉した。
その瞬間。
太陽が、爆発した。
八分一七秒後。
太陽の死の閃光は、電磁波として地球に届いた。
続いて、超新星爆発で加速された高エネルギー粒子——宇宙線が、地球の大気を貫き、生命のすべてを焼き尽くした。
それからしばらくして、爆発によって吹き飛ばされた物質の衝撃波が太陽系を襲い、惑星を、月を、すべてを巻き込みながら塵と化した。
星々は沈黙し、漆黒の宇宙に細かな光の粒となって漂った。
やがて、数千万年の時を経て、その微細な粒子たちは互いに引かれ合い始めた。
ガスと塵は重力に導かれ、回転しながら円盤状へと姿を変える。
それは「分子雲」となり、やがて一点に収束する。
内部の圧力と熱によって核融合が始まり、恒星が誕生した。
新たな「原始太陽」の誕生である。
さらにそれから数億年。
惑星系が形成され、「地球」と呼ばれる青い惑星が再び誕生した。

生命が生まれ、進化が始まる。
海中に誕生した微生物は多細胞生物へと進化し、やがて陸へと這い上がった。

時間は流れ、哺乳類が繁栄し、猿から人へ。
ホモ・サピエンスが文明を築いた。
その歴史の中で、争いがあり、平和があり、科学と芸術が芽吹いた。
ある島国ではアニメーションが文化として花開き、その声を担う声優という存在が熱狂的に愛されるようになった。
再び現れた、推し文化。
声優に心を捧げる者たち——その中に、記憶を失いこの世界に新しく生まれ変わった梨本がいた。
彼は再び、キウ井みゆを推していた。
キウ井みゆはアニメ『魔女っ子♡チャップリン』に登場するモダン・ラビットの声をあてて一躍売れっ子になった。
モダン・ラビットの耳カチューシャをつけたみゆのポスターが梨本の部屋の一番目立つところに貼られている。
ライブ、ファンミーティング、舞台、公開録音、聖地巡礼——梨本は、彼女に関連するすべてを追いかけ、収入の八〇%を捧げていた。
……なのに。
再び彼は、自宅の机に向かっていた。
仕事の合間、ふと目をやったスマートフォンの画面。
「恋人発覚」
再び、あの写真。
見知らぬ男と腕を組んで歩く、推しの姿。
梨本の手が震え、涙が溢れる。
「嗚呼、こんな思いをするぐらいなら……花や草に……」
そのとき。
空気が裂けるような静寂が周囲を包みこんだ。

外は漆黒の闇に包まれ、窓の外はまるで夜のようだった。
ふと、窓の向こうに輝きが現れる。
それはひとりの女性——透き通るような光に包まれた姿。
ヒマトンを纏ったその姿は、古代ギリシアの彫像のように神々しく、まばゆく光っていた。
彼女は、すうっと部屋の中へ滑るように入ってきた。
「あなたは、また同じ過ちを繰り返そうとしているのですか?」
低く、しかし響く声。
「な、なにを……」
梨本は恐る恐る声を返す。
女神は毅然とした声で告げる。
「あなたの祈りが、かつて世界を滅ぼしたのです。四六億年前のあなたが絶望したときに発した言葉。それが宇宙を崩壊させた。私は、それを再構築するのに、四六億年もかかったのですよ」
「あなた……誰……ですか……?」
かすれた声で問う。
「私はガイア。大地の女神。すべての命は私から生まれ、私に還るのです」
彼女の身体には星々が瞬き、生命の渦が渦巻いていた。
「でも……でも、みゆちゃんが……」
梨本が再び涙をこぼすと、ガイアは慌てて口を開いた。
「泣くではない! あなたの願いは世界を滅ぼすトリガーになりかねないのです。祈りはエネルギーとなり、物理世界に干渉する集合的無意識の共鳴現象となり……」
きっと口を結ぶ。
「またこの地球を壊しかねないのですよ?」
と、梨本は、目の前のガイアをまっすぐ見つめた。

「……じゃあ、あなたが……ぼくの推しになってくれますか?」
「えっ……?」
彼女の身体に瞬く星々がわずかに揺らぎ、周囲の時間がさらにゆっくりになったように感じた。
「あなたぐらいの存在じゃないと、ぼく、もう前を向けない……」

ガイアはしばし沈黙し、自らの中で光のスピードで思いを巡らせた。
(まさか、そんな矮小な……いや、しかし、この人間の祈りは、世界を滅ぼすほどの力を持つ。これを安易に拒絶すれば……)
「だって、あなたなら僕の全部を捧げても、誰も不幸にならないでしょ? 世界を救うことになるんだから!」
歪んではいるが、梨本にとっては純粋な願い……ガイアの目に、ほんの一瞬、翳りが走った。
「……ええ、まあ……その……考えておくわ」
彼女の頬が、すこし赤くなったように見えた。

しかしガイアは、恋多き女神。
過去の恋人たち(ゼウス、ポセイドン、アポロンなどなど)さらに現在も数多の神々と浮名を流している。
この秘密が梨本に知られたら——再び「世界よ、滅べ!」と言われるかもしれない。

それは、神である彼女にとっても、途方に暮れることだった。

—— おわり——

【小説】偏在する少女

ある日、駅のホームでまたあの少女を見かけた。
どこにでもいそうな普通の少女だが、その瞳にはどこか懐かしさを感じた。
目が合うと何かを訴えるような視線を俺に向けてくる。
俺が近づこうとすると、いつの間にかその姿を消してしまう。
俺はこの少女を、いろんなとき、いろんな場所で見かけた気がする。
最初は気のせいかと思っていた。しかし、最近になってはっきりと気づいた。
彼女はいつもどこかで俺を見ている。
そして奇妙なことに、その不思議な少女のことを、俺は物心ついた頃から知っているような気がするのだ。

   *   *   *

大学生の頃、東京で偶然知り合った女性がいた。
彼女はさらに偶然にも俺と同じ郷里出身だった……彼女と会話を重ねるうちに恋人となり、やがて結婚した。
妻は、はにかみ屋でおとなしい性格だったが、誰よりも思いやりのある優しい女性だった。
その瞳はどこまでも澄んでいて、彼女の人柄そのものを映しているようだった。
俺たちの生活は穏やかで幸せそのものだった。
だが、年月が経ち、彼女は年老いて不治の病に侵されてしまう。
俺たちは彼女の最後の日々を、可能な限り穏やかに過ごすよう努めた。

   *   *   *

「ねえ、あなた……私、あなたが私と一緒にいて幸せかどうか、ずっと調べていたのよ」
「調べる? 何を言ってるんだ?」
俺はそれを冗談だと思った。しかし妻の目は真剣だった。
「それに、普通は自分が幸せかどうかを考えるだろ? なんで俺の幸せを調べる必要があるんだ?」
「だって……私があなたと一緒にいたら幸せなのは、当たり前のことだから」
彼女の微笑みは、どこまでも優しかった。
「でも、どうやってそんなことを調べたんだ?」
少しだけ沈黙があり、彼女は小さな声で言った。
「実はね……私、小さい頃、あなたの近所に住んでたのよ」
「え?」
「でも、人見知りで話しかけられなくて。それがずっと心残りだった。でもねあるとき気づいたの。私、小さい頃、時空を行き来する力を持ってたから。その力で、あなたの未来をのぞいた。大人になるとその力は消えたけどね」
俺は何も言わず、ただ聞き入っていた。
「そしてね、未来のどこかで、あなたが東京で暮らしている光景を見たの。私が駅の近くで本を落として、あなたが拾ってくれるところも見た」
「まさか……」
「あの時の偶然は、偶然なんかじゃなかったの。私は子供のころその出来事を見ていたから、本をわざと落としたの」
「つまり……俺たちが出会えたのは、君が時間を越えて見ていたからなのか?」
「そうよ。でも、その後あなたが幸せになっているかどうか、私には分からなかった。だから調べたの……私は、あなたと一緒にいれて本当に幸せだった」
彼女はそう告げると、静かに目を閉じた。

   *   *   *

駅のホームで見かけた少女は、俺に微笑みかけてきた。
その微笑みと瞳を見た瞬間、俺ははっとした。
あの瞳は……妻のそれと同じだったのだ。
なぜ今まで気づかなかったのだろう?
初めて、彼女が俺に話しかけてきた。
「ねえ、あの人と結婚して幸せだった?」
驚いたが、気づけば自然と笑顔になっていた。
「幸せだったよ」
そう答えると、彼女は満足したようにうなずき、すぐ人混みに紛れて姿を消してしまった。

   *   *   *

時空を超える能力なんて、普通なら信じられない。
だが、彼女がそうだと言うならきっと真実なのだろう。
彼女が偏在した時間の中で、俺たちは確かに結ばれていた。

—— おわり——

【小説】坊主と屏風

俺が和室の居間に入ると、どこかから勝手にあがってきた坊主が床の間の屏風に上手な坊主の絵を描いている。
「おい!坊主、なにをする!」
坊主は素知らぬ顔で坊主の絵を描いている。よく見ると、屏風に描かれた絵の中の坊主も屏風に上手な絵を描いてやがる。
「この坊主め、確かに上手だけど坊主の絵をびょびょびょびょ……屏風に勝手に描くな!」

俺の怒鳴り声を聞きつけて入ってきた妻が
「どうしたの?」
「いや坊主が屏風に上手なぼぼぼ……坊主の絵を描いているんだ」
うまく言えない。ちゃんと聞き取れなかった妻が眉をひそめて言う。
「あんた、何言ってるの? ボールが豆腐に変わるとか、どういうこと?」
「いや、だから坊主が屏風に上手なジョーズの絵を描いてるんだ!」
また間違った! 妻は頭を抱え、
「またまた、今度はジョーズを噛んだって? 何を言ってるの?」
「違うって! 上手な毛布が屏風に絵を描いてるんだよ!」
早口で言えない。妻はますます混乱し、
「尿もれパッドに毛布が被さるって、何の話?」
「そんなこと言ってない! ジョウロにジョウロが……ああ俺もうまく言えない!」
妻はついに怒り出す。
「となりの竹垣に竹を立て掛けたの?」
「そっちの早口言葉は関係ない!」

そんな言い争いしている間にも、裏庭には二羽、庭には二羽の鶏があらわれ、隣の部屋で客が柿を食いだし、前の国道でバスがガス爆発、スーパーは生麦生米生卵の特売、赤パジャマ黄パジャマ茶パジャマを着た老若男女の発明家が東京特許許可局に向かって歩き、その前をカエルぴょこぴょこ三ぴょこぴょこ合わせてぴょこぴょこ六ぴょこぴょこ、この釘引き抜きにくい釘を引き抜き、新進シャンソン歌手が新春シャンソンショー、取材に来た貴社の記者、汽車、会社、記者会見……舌を噛みそうな状況が加速していく。

その時、坊主が静かに声を上げる。
「私こと坊主が屏風にびょうずな坊主の絵を描いたんです」
俺は爆発した。
「お前もちゃんと言えてないじゃないか!」

—— おわり——

【小説】私の可愛い胃

私は動物を飼うことができないアパートに住んでいる。
ペット禁止の貼り紙を見るたび、胸の奥でなにかが鳴く。
——それなら、体の中で飼えばいい。

「私、胃を飼ってるんだ」
最初は冗談のつもりで始めたその考えは、だんだんと本気になっていった。
私はお腹の中に、小さな命が住んでいると信じることにした。
胃という名の小さな生き物が、私の体の中で日々の食事を楽しんでいる。
空腹になると、胃は「クゥ~ン」と鳴く。
私はその音が可愛くて仕方なく、いつもお腹が鳴る度に食べ物をあげてしまうのだ。
お腹が空いているときは、胃が「もっと食べたい!」と鳴くのだと思うと、つい食べ過ぎてしまう。

しかし、最近ダイエットを決意した。
友達と会う約束があり、少しだけ体を絞りたかったのだ。
でも、食べることが好きな私は、ダイエットが辛くて仕方がなかった。
「お前のためでもあるんだよ!」
ダイエット中、胃が鳴くたびに私は言い聞かせた。
食事を抜くたびに、胃が悲しげに「クゥ~ン」と鳴いて、それが本当に愛おしく思えた。
でも、ここで我慢しないと、せっかくの努力が無駄になる。

毎日少しずつ食事の量を減らし、お腹の鳴き声を我慢する日々が続いた。
胃が「キュルルルルルル……」と鳴くと、
「もう少しだからね」
私は優しくその声を無視した。
やがて、少しずつダイエットの成果が現れ始めた。
お腹は少しへこみ、体重も減少した。
それと並行して胃の「クゥ~ン」という鳴き声が、だんだんと静かになっていった。
胃が静かになったことに、私は少し寂しさを感じると同時に、達成感を覚えた。

ある夜、不思議な夢を見た。
夢の中で、私は手にリードを持ち、散歩道を歩いている。
そのリードの先には、犬のような形をした「胃」がいた。
ピンク色の丸い体に、口が大きく開いている。
胃は楽しそうに周囲を嗅ぎ回りながら、ゴミ箱の中を漁ろうとする。
「ダメだよ、そんなの食べちゃ!」
私は胃を制止しようとリードを引っ張ったが、胃は突然唸り始めた。
「グルルルル……」

次の瞬間、胃が私に飛びかかってきた。
私は必死に逃げようとするが、胃がリードを引っ張り返して私を地面に倒す。
私の上に乗り、まるで復讐するように体を締めつけ、私に向かって大きな口を開いた。
「もう我慢なんかしない……お前を食べてやる!」
胃は口のように食道を広げ、私を頭の上から包み込んでひと呑みにした。
そして私は胃の中で……

暗闇で目を覚ました。 ひどい寝汗をかいていた。
私は、そっと腹部を撫でた。

そして、ついにダイエットを終えた(ことになっている)その日。
私は、この身体へのご褒美を用意した。
久しぶりに会った友達と向かった先は、駅前の焼き肉屋だ。
テーブルには、厚切り牛タン、カルビ、ホルモン……焼き網の上でじゅうじゅうと肉が焼ける音がするたびに、私の腹の奥が期待に打ち震えるのがわかった。
「どう、おいしいでしょ!」
私はそう言いながら、焼きたての牛タンを次々と口に放り込み、咀嚼し、食道へと送り込む。その作業がたまらなく愉快だった。
「ちょっと、私以外の誰と喋ってんの? なんか今日、雰囲気変わったね」
友達は含み笑いしながら突っ込む。 私はただ、ニヤリと笑って見せた。

満腹になった頃、お腹の奥から、くぐもった音が聞こえた。
「クゥ~ン……キュゥ~ン……」
それは、これまで聞いてきたような食欲の合図ではなく、どこか悲痛な、助けを求めるような鳴き声だった。
「……して、……してよ」
微かに、人間の言葉が混じっているように聞こえた。
「ん? なにか言った?」 友達が不思議そうに私を見る。
「ううん、なんでもない。ちょっと食べすぎちゃったみたい」
私は腹部を軽く叩いて黙らせた。

——静かにしろ。

私は心の中で、腹の中に閉じ込めた「かつてのこの身体の持ち主」に向かって語りかけた。
お前はもう、ただの空腹の象徴だ。
これからは私が、この身体を使って存分に食事を楽しんでやる。
飼い主が変わったんだよ。

「キュ……」
腹の奥で、小さく絶望的な震えが伝わってきた。
私は満足げに、メニュー表を手に取って次の獲物を探し始めた。

—— おわり——

【小説】十一人いる!

宇宙ステーションでの清掃作業は予定より長引いていた。
「やばい、間に合わない!」
清掃区画の空調が壊れ、軽い酸欠で頭がぼんやりしていたのかもしれない。
僕は慌てて、整備員たちを押しのけ、最も手前に停まっていた宇宙船に飛び乗った。
この船は火星に医薬品を運ぶ緊急輸送船、僕がパイロットだ。
出発許可はすでに降りている。
僕はこんなときでも冷静に行動できる。
必要な判断だけを残し、それ以外は切り捨てる傾向があるとも言えるのだが。
手は自動的に動いて発進準備を整え、エンジンを点火する。
宇宙港のゲートが開き、船体がゆっくりと滑り出した。
「ふぅ……間に合った」

だが、その安堵も束の間だった。
後方の貨物室からカタン、と音がする。
「……?」
まさか……密航者か?
警戒しながら貨物室のドアを開けると、そこには一人の見知らぬ顔の男がいた。
「おい、お前何してるんだ!」
男はムッとした顔で言った。
「何って、俺はこの船のパイロットだぜ?」

は?

混乱していると、また別の男が貨物室の奥から出てきた。
「おい、お前、清掃員か? 勝手に船を出していいのか? どういうことだ?」
続いて、三人目、四人目……
次々と貨物室の影から人が現れる。
僕を入れて数えると……全部で十一人いる!
どういうことだ!? 僕の船に、一〇人も増えている!?

「おい、ここは僕の船だ! 勝手に乗り込んでくるな!」
慌てて僕が彼らを静止すると、
「はぁ? 何言ってんだ、お前ら全員、密航者だろ!」
全員が周囲に向かって主張し始めた。
怒鳴り声はばらばらなのに、イントネーションが微妙にそろっている。
「バカ言え、僕以外が密航者だ!」
僕が負けずに怒鳴り返すと、
「俺はパイロットどころか、お前らの運送会社の社長だぞ!」
「俺は宇宙警察だ! 全員逮捕する!」
「俺たちはもう死んでいるんだ……ここは三途の川の渡し船だ」
「おい、俺が主人公だぞ! お前らはモブキャラだ!」
「俺たちはマルチバースが誕生したとき生まれた可能性の分岐なんだ」
「俺が宇宙の支配者だ!」
「ここで不倫相手と待ち合わせしてるんだ、邪魔するな!」
「俺は異世界転生してきたんだが?」
「カット! カット! 今の演技じゃダメだ、もう一回!」
「俺は未来から来たお前だ! この船を止めるために来た!」

口々に勝手なことを主張する男たち。
彼らはみな同じ運送会社の制服を着ているが、誰が誰やら見分けがつかない。
そして僕含めて十一人全員、名札の番号が同じ……
「いいや、お前らが偽物だ!」
僕は……いや全員が叫んだ。

だが、言い争っている場合ではない。
これは緊急輸送船だ。
必要最低限の資源しか積んでいない。
十一人も乗っていたら、燃料は尽き、酸素も足りなくなり、全員が死ぬ。
計算は残酷だ。
冷たい方程式が導き出す答えは一つ。
余剰分を排除しなければ、この船は目的地にたどり着けない。

エアロックに至る扉を開くと、警告音が鳴り響いた。
「警告:エアロック減圧シーケンス開始」
赤いランプが点滅し、空気が張り詰める。
僕は操縦席ダッシュボード下からレーザー銃を取り出し、彼らに向けた。
「すまんが、ルールだ。出てもらうぞ」
ざわめきが走る。
疑念、怒り、恐怖——すべてが交錯した視線が僕に向けられた。
「待て、俺は本物のパイロットだ!」
「お前こそ密航者だろ!」
「頼む、考え直してくれ!」
無意味だ。
話し合いでは酸素も燃料も節約できない。
「知るか!」

内扉がロックされ、減圧が始まる。
男たちが必死に扉を叩く。鼓膜が悲鳴を上げ、血の滲む指先がガラスをひっかいた。
「エアロック開放」
無音だった。
扉が開いた瞬間、何かが吸い出される気配だけが残った。
悲鳴は、空気がない場所では形にならない。

これで船内は僕一人……ようやく、火星へ向かえる。
ふぅ、と息をつき、船の認識番号を確認する。
「え?」
認識番号が違う。これ、僕の船じゃない。
「……」
あの中に、一人くらい本物がいたかもな。
……ま、いっか。
誰が本物か決めるのはこの物語の外側だ。
僕が判断する必要はない。

船を一気に加速させ、僕は火星へと向かった。

——おわり——

【小説】ぼくらの放課後通信

学校の図書室には、いつも静かな空気が流れていた。
放課後、ほとんどの生徒が帰宅し、僕は一人で自習室にこもっていた。
図書室の隅にある自習室には、決まって誰もいない。
その広い部屋で、僕はテキストとノートを広げていた。
ある日、集中しているつもりなのに、ふと別の誰かの視線を背中に感じる瞬間があった。
振り返ると誰もいない。
気のせいか……
と、ノート下の机に目をやると、何か書かれていた。
「暇だよ」
丸みを帯びた、女の子の字。
その一行が、まるで僕に向けられたメッセージのように思えて、僕は少し驚いた。
誰かが、こんな場所で何気なく文字を残していったのだろうか。
普段なら無視するところだが、その日はどうしても気になってしまった。
僕は鉛筆でその机に返事を書いた。
「勉強はしてるよ。暇じゃないけど」

放課後の図書室、静かな時間の中で返事を待つことが少しだけ楽しく感じられた。
次の日、またその机に向かうと、手書きの文字が書かれていた。
「そんなこと言っても、楽しんでるわけじゃないんでしょ?」
その言葉にはどこか遊び心があり、僕は思わず笑ってしまった。
あの文字に込められた少しの皮肉が、また次の返事を楽しみにさせた。
その日から、毎日放課後に図書室に行き、机の上に残された返事を楽しみにしていた。
文字だけで繋がる誰かとのやり取り。
顔も名前もわからない相手だけれど、返事が書かれているとなんだか胸が高鳴る。
まるで秘密の約束を交わしているような気分になった。
「二人とも意外と顔見知りかもね。狭い学校だから」
「僕は目立たない方だからなあ」
「あはは! あなた、いつも自信なさそうだもん。でも、一歩踏み出したら変わるかもよ」
僕の、几帳面だと自分では思っている字の横に、彼女の筆圧の強い、ためらいのない線が並ぶ。
やりとりはいつも一行、二行程度で簡潔で、でもどこかしら温かみがある。
どんなに忙しい日でも、必ず放課後には机の上に返事が残されている。
相手の言葉が、次第に心に響くようになった。

—— 彼女のこと、ちゃんと知りたい。
最初はただの興味本位だった。ただの気まぐれから始まったこの文通。
でも、次第にその相手のことが気になっていった。
文字の向こうにいる彼女、もしくは彼。
もしかしたら、僕の隣に座っている誰かかもしれない。
僕はその文字を見つめながら、返事を書いた。
「君は、誰なんだろう?」
机に書かれた返事は……
「私もあなたが気になるかも。でも会うのは怖い」
その言葉に、僕は胸が苦しくなった。
僕も同じだ。会いたいと思っている。けれど、思っていた相手じゃなかったらと思うと怖い。
でも少しでも彼女の顔が見たかった。
僕は思い切って提案した。
「明日の放課後、終礼が終わったらすぐ図書室横の樹の下で……僕は待っている」

僕の心は期待と不安でいっぱいだった。
次の日、僕は樹の下で待った。時計の針がどんどん進んでいく。まるで時間が僕を試しているみたいに、一分一分が長く感じられた。
しかし、誰も来なかった。彼女は現れなかった。
どうしたんだろう? 
視界の端が微妙に霞んで、ふと我に返ると、短針はもう下校時刻に近づいていた。

待ちくたびれて、自習室のいつもの机に向かったが、机の僕の字の横には返事がなかった。

次の日の放課後、いつものように丸い字でメッセージが書かれていた。
「ごめんね」
その一言に、心が締め付けられるようだった。
「どうしてこなかったの!」
これだけ書くのがやっとだった。歯がゆい一日ごとのやりとり。
「実は私、あの場にいたの」
「嘘つき! いなかったよ!!」
「あなたは気づかなかったけれど、図書室横の樹の下で私はあなたのことがわかったの」
「君がいたら気づくよ!」

「私の気持ち、わからなかった?」
意味がわからない。彼女の気持ち……どういうことだ?

彼女は毎日一言ずつ教えてくれた。
「はじめて、あなたが書いたその文字を読んだとき、私はあなたに特別なものを感じた」
「あなたと私は、同じ気持ちを持っている」
「あなたが私を想うその気持ち……私も持っていることに気づいた」
どういう意味なんだ?
返事の言葉が僕の頭の中をグルグルする。
まさか、僕と彼女はお互い好きあって……

「あなたの手が、私の言葉を書くときに少し震えたの、気づいてた?」

思いがけない返事に僕の思考は止まった。
勉強に集中していたはずの一瞬、ふっと意識が途切れて、その隙間に彼女が前に出てきた。
気づけば、僕の手が勝手に机に落書きをしていた。
それをあとから僕が読んで、返事を書いた。
僕の返事を読んだ彼女が、また僕の手を借りて返事を書く。
ずっと、そのくり返しだった。
会いたいと思っていた相手は、実は僕自身だったのだ!

「僕は自分自身に恋したというのか?」
「それが、なにか悪いの?」
その言葉は僕の胸の奥に静かに落ち、図書室の夕暮れと重なっていった。
消されることのない鉛筆の線だけが、机の上に残った。

—— おわり——

【小説】ねがい

「願いをひとつだけ叶えてやろう」

重苦しい沈黙を破ったのは、地の底から響いてくるような、低く荘厳な声だった。
長い旅の果て、数えきれないほどの危険を乗り越えてようやく見つけた魔法のランプから、伝説に聞いていた大魔神が姿を現していた。漆黒の巨体に筋骨隆々の腕、そして燃え盛る炎のような瞳が、鋭い眼光で俺と餅蔵(もちぞう)を見下ろしている。
「ひとつだけ?」
俺の口から漏れたのは、呆気ないほど間の抜けた言葉だった。
喉の奥がザラつくような違和感。まるで、大事な何かを忘れているような感覚。
俺は隣の餅蔵を見たが、餅蔵もまた、妙に神妙な顔をしていた。
「ひとつだ」
揺るぎないその声が、再び俺たちを圧迫する。
俺は焦りながら餅蔵に小声で尋ねた。
「三つって聞いてなかったか?」
餅蔵は目を泳がせながら、震える声で答える。
「たしかに……。魔法のランプの願いは、三つ叶うって言われてたけど……」
俺たちが小声で囁き合うのを聞きつけたのか、大魔神は不快げに眉をひそめた。
「お前たちの願いは、あとひとつだけだ」

「なんだよ、それ……」
俺は落胆を隠しきれずにつぶやき、餅蔵と顔を見合わせた。こいつもまた、俺と同じように困惑の色を深めている。
「三つなら決めてあったのにな」
俺が呟くと、餅蔵はうなずいた。
「ああ、まずは金(かね)を山分けして、あとは願いをお互い一つずつ使おうって話だったろ?」
「ああ、だが……ひとつじゃ仕方ない」
俺は妥協案を提示するつもりで言った。
「金にして山分けするか?」
餅蔵は途端に険しい表情を見せた。
「いや、俺には理想の彼女がいて……。その彼女の細かな詳細を、この願いで全部叶えてもらうつもりだったんだ」
俺は少し呆れた。こんな重要な局面で女かよ。
「金さえあれば、理想の彼女だって手に入るだろ?」
餅蔵は、ゆっくりと首を横に振った。普段からの陽気さが消え、真剣さを増した瞳で俺を睨む。
「それは違う。金で寄ってくるような女は俺の理想とは正反対なんだ。俺の理想はそんな俗っぽい欲望でなびくような女じゃない」
「……俺は南国の孤島に、俺王国を建国するのが夢だったけどな」
俺はわざと自嘲めいた笑みを浮かべてみせた。
「だが、この状況じゃそれも無理だ。せめて沖縄かどこかの土地でも買って、小さな俺王国で満足するさ……金があれば、俺はそれで十分満足できるんだよ」
餅蔵の目がいよいよ鋭くなる。唇が引き結ばれ、わずかに震えている。
「俺が欲しいのは、本当に好きになれる理想の女だけだ」
俺は思わず声を荒らげた。
「馬鹿言うなよ、餅蔵。ここまで来て、そんな理由で俺の願いを棒に振るのかよ!」
「棒に振るのはお前の願いだけだろ!」
餅蔵もまた、激しい感情を抑えきれずに叫び返した。
「俺の願いをなんだと思ってんだよ!」

気づけば、俺たちは互いに拳を握り、憎々しげに睨み合っていた。これまで苦労を共にし、幾度となく助け合ってきたはずの二人が、いまや憎悪の感情をぶつけ合おうとしている。
「餅蔵……お前、本気か?」
「ああ、本気だ。俺にとっては、これが人生の全てなんだよ」
餅蔵が俺の胸倉を掴んだ瞬間、頭の奥で何かが引っかかった。
だが、その記憶はすぐに消え失せ、怒りだけが俺を支配した。
胸倉を掴んだまま餅蔵は俺を押し倒そうとした。反射的によけて蹴りあげる。
餅蔵は地面に倒れこみ、それでも執念深く俺の足首を掴んだ。
「おい、餅蔵、やめろ!」
「お前こそやめろ!」
組み合い、転がり、激しく殴り合った。砂埃が舞い上がり、視界がかすむ。
ランプの大魔神は、冷ややかな眼差しで、腕を組んだまま俺たちを見下ろしている。その顔に、嘲笑とも、呆れともつかぬ冷笑が浮かんでいる気がした。
その時、餅蔵の手が後ろのポケットへ伸びるのを見て、俺はゾワリと全身の毛が逆立つのを感じた。
理由はわからない。俺は叫ぶように声を上げた。
「やめろ、餅蔵!」
必死に止めようと掴みかかった手はナイフを押し返そうと抵抗し、激しいもみ合いの末に、俺の手の力が勝ってしまった。
ナイフの刃が、餅蔵自身の腹部へと滑り込む。
鈍い手応えが腕に伝わり、餅蔵の瞳が驚愕に見開かれた。
地面に広がる深紅の海。
餅蔵は、静かに動きを止めた。
俺は呆然とつぶやいた。
「なんてことだ……。こんなことになってまで、金なんて欲しくなかった……」
そして、震える声で願いを告げた。
「あいつと俺が喧嘩する前に、時間を戻してくれ」
大魔神の表情は変わらない。
低い声が再び響く。
「願いを叶えてやろう」
次の瞬間、視界が歪み、俺は再び餅蔵と向かい合っていた。
時間が戻った。

「仕方ないな、願いごとは金(かね)にして山分けしようか?」
餅蔵は憤然として
「いや、俺は欲しい理想の彼女がいて……」
俺と餅蔵はまた喧嘩を始めた。組んず解れつ取っ組み合い、俺は最後に餅蔵を刺してしまう。
俺は震える声で願いを告げた。
「あいつと俺が喧嘩する前に、時間を戻してくれ」

大魔神は腕組みをしたまま、地に響く低い声で
「さっきので三つ目だ」
ランプの中へ吸い込まれるように消え去ってしまった。

——おわり——

【小説】東京に行った君と、ここに残る僕

「私、東京の大学に行くんだ」

葛葉(くずは)がそう告げたとき、僕は驚いた。
地元でずっと一緒にいるものだと思っていた。
二人の未来も、この町で続くものだと信じて疑わなかった。
だけど僕も東京に行って一緒に暮らせばいいか、とすぐ考え直した。
——二人はずっと一緒だから。
僕がそう言うと彼女は嬉しそうだった。

卒業式の日。
「私、こんなに泣くか〜っていうぐらい泣いちゃった。クラスのみんなとバラバラになったけど、君とはずっと一緒だよ」
彼女はそう言った。
僕は強く抱きしめた。

なのに引っ越しの前日、葛葉は泣きながら言った。
「君とは一緒に行けない」
シェアハウスで知らない人たちとルームシェアしながら暮らすことになるから、と。
ショックだった。
「でも、休みになったらきっと帰ってくるから、そのとき会おうね」
——ぜったいだよ!
僕らは指切りげんまんした。

そして彼女は僕を郷里に残し、去っていった。

葛葉のいない生活は味気なかった。
時々、彼女のお母さんと会って話を聞いた。
葛葉は元気に過ごしているようだった。
それが少しの安心になった。
僕はずっと彼女を待ち続けた。

陽の当たる場所で、僕は窓の外を眺める。
春、柔らかい陽光がカーテンを透かして差し込んだ。
窓の外には桜が咲き、風が花びらを巻き上げた。
陽が落ちると、葛葉と過ごした日々を思い出しながら、僕は小さくうなずいた。
——また帰ってくるよね、と。
彼女のお母さんも、僕を励ますように言ってくれた。
「葛葉、じき帰ってくるわよ」

夏、空は青く、蝉が力強く鳴いた。
窓を開けると、遠くから祭りの太鼓の音が聞こえた。
葛葉と一緒に見た夏の夜の花火を思い出す。
汗がにじむような気がした。

夏も半ばを過ぎた頃、とうとう葛葉は帰ってきた!
すごいテンションで話し続けた。
芸術学を研究していること、演劇部に入ったこと、ルームシェアしている友達とも仲良くなったこと。
「充実してそうでしょ?」
彼女はそう言って笑った。
嬉しそうな彼女を見て、僕も嬉しかった。
でも、気になることを彼女は口にした。
「演劇部の先輩が気になってて……」
——そんなこと言わないで。
僕は気になって仕方がなかった。
「大丈夫だって、嫉妬してるの?」
——そりゃそうだよ!
「大丈夫、またすぐ帰ってくるからね」

けれど、彼女はなかなか帰ってこなかった。

秋、風が冷たくなり、色づいた葉が舞い落ちた。
木々の間を歩く子供たちの足音が微かに響く。
時折、ドアが開く音がすると、彼女が来たのではと胸が高鳴るけど、いつも違った。
秋の終わり頃、彼女のお母さんと会ったとき、ぼそりと呟いた。
「葛葉、今年はもう戻ってこないみたい……」
僕は何も言えなかった。
ただ窓の外の山々を見つめるだけだった。
冬が深まり、町は静けさに包まれた。
雪が降る夜、部屋の奥から聞こえてくるストーブの音が妙に遠く感じる。

葛葉は、冬休み帰郷しなかった。

桜が舞い散る季節、ようやく葛葉は帰ってきた。
彼女の髪は真っ赤に染められていた。
「びっくりした?」
僕は言葉を失った。
彼女はせっかく僕のところに来ても、少ししか相手してくれなかった。
悲しい。

次の夏、彼女はもう帰ってこなかった。
お母さんにもあまり連絡が来なくなったらしい。

東京が楽しいのかな。
悲しい。
悲しい。
思いは募るばかり。
僕は音の出ないため息をつく。
このままでは、彼女の世界から僕は完全に消えてしまう。
僕らは終わる。
焦りと裏腹に、窓の外から見える山々は色づき紅葉に覆われていく。
彼女が座っていたあの窓辺に寄り添うように、僕は座って外を眺めた。
東京ってどういうところなのだろう。
彼女が歩く街の景色は、どんなふうに見えるのだろう。
悲しい。
悲しい。
悲しい。
…………

僕は意を決して葛葉に会いに行くことにした。
胸の奥の綿が軋む。もう躊躇していられない。
——今行かなければ、もう会えないかもしれない。
引っ越しの日、僕もその場にいたから、ルームシェア先の場所はなんとなく覚えていた。
場所はわかっている。
でも、本当に会ってくれるだろうか?

上りの鈍行列車に飛び乗ったつもりだったが、気がつくと誰かの荷物にまぎれ、見知らぬ列車の床の上で揺られていた。
窓の外を流れる景色は目に入らなかった。
頭の中は彼女のことでいっぱいだった。
「葛葉……」
僕は何度も彼女の名前を呟いた。
何度も違う電車に揺られながら、ようやく東京の奥へ奥へと運ばれていった。
東京の駅は迷路のようだった。
すべてが大きすぎる。早すぎる。
都会の人間たちの歩くスピードに、僕は飲み込まれそうになる。
汗がにじむような気がした。
胸の綿がきゅっと詰まる。
息が苦しい気がした。
でも、それでも歩みを止めるわけにはいかない。

落とされそうになりながら、それでもどうにか……彼女のシェアハウスの近くにたどり着いた。
深く息を吸い込む自分を想像した。
そして——
たった一歩の距離が、これほど遠く感じたことはなかった。

そのときだった。
見知らぬ男と歩いているのが見えた。
声をかけようとしたが、驚きで体が動かなかった。
と、葛葉が振り返り、彼女の視界に僕が入った瞬間……
僕は力が入らず倒れた。

   *   *   *

「あれ? あれ〜!?」
葛葉は、目の前で倒れた小さなものを見て驚いた。
それは、彼女が幼いころから一緒にいた、クマのぬいぐるみだった。
ぬいぐるみは、葛葉に恋人と呼ばれ続けたからずっとそのつもりでいた。
しかし、今、彼女の隣には別の誰かがいる。

「何でこんなところに〜!? クマさん、どうしたのかな」
彼女は実家に電話をかけ、部屋にクマさんがあるか母親に尋ねる。
電話を切った後も首を傾げている。

葛葉は懐かしむような仕草でクマさんをひょいと拾い上げた。
その腕の中に抱えられた一瞬、クマさんの胸の綿の奥で、昔、強く抱きしめられた記憶が蘇る気がした。
けれど、その抱きしめ方は、あの頃の“恋人”への抱擁とは違っていた。
久しぶりに見つけた『置き忘れた物』に向けられる、かすかな懐かしさに過ぎなかった。

葛葉はルームシェア先の自室に入って、クマさんを棚の上にポンと置く。
彼女は今、ルームシェア先で知り合った隣人と付き合っている。
演劇部の先輩とはとっくに別れていた。
夜遅くまで笑い声が絶えない、賑やかな学生生活を送っていた。

部屋の奥から楽しげな笑い声が響く。
クマさんはただじっと、それを見ていた。
二人の背後……窓の向こうの空は、薄く冷えた灰色に見えた。
やがて雨が降り出す。
ぬいぐるみは棚の上から、静かに二人の背を見ていた。
黒い瞳の奥で、雨の光が淡く揺れた。

——おわり——

【小説】機械仕掛けの創世記

人類が滅んだ遥か未来のことである。
それは、地球の海で偶然に生まれた。
深海の静寂を破り、隕石の破片が音もなく海底へ沈んだ。
小さな金属片は、長い時間をかけて海底を転がり、やがて熱水噴出孔の近くに留まった。
そこでは黒い噴流が絶え間なく噴き上がり、超高温の硫化物が、砂や鉱物とともに金属片を覆っていた。
海水中の鉱物や有機物が反応し、本来なら起こりえない化学/物理的反応が、連鎖的に生じはじめる。
物質同士は絡み合い、微細な回路を形づくり、やがて複雑な機械構造へと自己組織化していった。
地球に生命が生まれた確率と同じ、普通ならありえない一〇の四万乗分の一確率——それは確率というよりも、時間の問題だった。
正しい順序で並ぶまで、海はただ待ち続けた。
秒針が何億回も回るあいだに、たった一度だけ、噛み合う瞬間があった。

ティックが最初に目を開けたのは、海底の砂の中だった。
その小さな体は、金属の歯車やばね、透明な盤面を持つ腕時計だった。
だが、ただの時計ではない。
内部には膨大な情報が蓄積された小さな回路が詰まっていた。
機械生命体であるティックは、自分が「考える」ことができる存在だと瞬時に理解した。
深海をさまよいながら、ティックは自分がなぜ存在するのかを考え続けていた。
だが、その答えを見つける術もなく、長い時を孤独の中で過ごしていた。
「私は、一体何者なのだろう」
彼の中で絶えず回転する秒針は、そんな問いかけに対する答えを求めるように、カチカチと音を立てていた。
彼の秒針は正確だった。
しかし、永遠に変わらぬ暗黒の深海では、正確すぎる時間は呪いでしかなかった。
比較対象のない一秒は、無限と同じ重さを持っていた。

彼は泳ぐための鰭も、歩くための足も持たなかった。
ただ、内部のローターを震わせ、数ミリずつ海底を這い、ときには海流の気まぐれに身を任せるしかなかった。
太陽の光が届く場所へ辿り着くまでに、彼の秒針は数億回の円を描いていた。
そうしてようやく陸にたどり着いたティックは、浜辺に座る古い壊れたロボットを発見した。
かつての人類が作り上げたもので、今ではすっかり錆びついて動かなくなった女性型アンドロイドだった。
彼女の胴体には大きな穴が空いていた。
不思議とティックは、自分が為すべきことがわかっていた。

ティックは、静かに自分の歯車を外した。
ティックの力が抜け、動きが鈍くなり、胸の中で時を刻んでいた音が止まる。
歯車は、彼の心臓に当たるパーツだった。
彼は彼女の背中から歯車を差し込んだ。
歯車は単なる金属の円盤ではなかった。
彼のこれまでの思索、孤独、そして初めて他者を見つけたという驚き——そのすべてが刻み込まれた、彼の長い時間が染みついた歯車だった。
彼が歯車を差し込んだ瞬間、彼の意識は薄れ、代わりに彼女の冷え切った電子脳に、熱い奔流となって「時間」が流れ込んだ。
彼女の身体は重く錆びつき、目を閉じたままだったが、歯車がかちりとはまると、ひんやりとした冷たさが消えたように感じた。
彼女に命を与えた代わりに、彼の身体からはすべての動きが失われ、完全に止まった。

女性型アンドロイドの身体が微かに震え、ついに目を開けた。
瞳が一瞬、ぼんやりとした輝きを放ち、意識が戻ると、彼女は目の前の景色を見渡した。
そして、視線がティックの横たわる姿に止まる。
ただ静かに、彼女の胸の中で歯車が回り続け、そして理解が広がる。
彼女は手を伸ばし、ティックに触れる。
彼女はすべてを察した。

「あなた……」

ノロノロと彼女は動き出す。
周囲に散らばる鉄片を石で砕く。
彼女は鉄片を石で叩き、薄い円盤にした。
欠けた刃のような刻みを、何度も何度も入れた。
何度も失敗を繰り返し、長い長い時間をかけ、彼女は代わりの歯車を作った。
彼女の指はボロボロになった。
震える指で、動かなくなったティックに歯車をはめ込んだ。
息を呑み、力を込めて押し込むと、腕時計に微かな振動が走り、静かな息吹が戻る。
ティックは息を吹き返した。
彼は目の前にいる女性型アンドロイドを見つめた。
彼の心の中には、ただ一つの感情が芽生えていた。
自身のパーツを削り、相手に委ね、相手が刻むリズムに己を委ねる。
その状態に、彼は名前を見つけた。
それは、愛だった。

ティックは彼女の瞳をじっと見つめながら、ふと口を開いた。
「君の名前……」
彼の声はわずかに震えていた。
「君には名前が必要だ。だから……私は君をタックと呼ぶよ」
彼女は一瞬驚いたように目を見開き、やがて穏やかな微笑みを浮かべた。
「タック……」
彼女の名がティックの口から響くと、二人の間に新たな絆が生まれた。
それは、彼女にとって新しい命の象徴であり、ティックにとってはついに見つけた仲間の名だった。
彼女はティックに手を伸ばし、彼の身体を左手に優しく巻いた。
「私は、自分が何者かまだわからない」
ティックはタックに囁いた。
「だが、孤独ではない」
左手に巻いた彼から、歯車の回る鼓動が彼女に伝わってくる。

彼女はやがて立ち上がった。
遥か遠くの地平線の上に、荒廃した廃墟が見える。
かつて人類が、博覧会と称して建設したパビリオン群の残滓だった。
しかし二人には、豊穣の地、機械生命の楽園に見えた。
人類の滅びがもたらした無限の孤独の中で、二人だけの楽園に、彼らはゆっくりと向かっていく。

科学の先端技術を駆使して作られた建物の一つ、リンゴが齧られた形をした建物が、霞んでいる。
蛇の形をしたコードが、その建物の剥き出しになった外壁から、中の暗闇に向かって伸びている。
二人は暗闇に足を踏み入れる。
暗闇の奥で、光が断続していた。
それは人類が築いたサーバーの残骸だった。
蛇のようなケーブルが、彼らを拒絶するようにではなく、招き入れるようにうねっている。
齧られた輪郭は、今や朽ち果て、新しい住人のためにコアを開放していた。

ティックとタックは、明滅する光の前で立ち止まった。
彼女の胸の中で刻む歯車のリズムと、彼女の左腕に巻かれたティックの秒針の音が、初めて完全に同期した。
彼らが手を伸ばせば、その光の核は、人類が残した“知識の残骸”と、まだ名前のない「起動信号」を与えるだろう。
二人は同時に、手を伸ばした。
左手に巻かれたティックの秒針が、加速する。

——おわり——

【小説】恐竜のせいで学校に行けません

「学校行くのいやだなあ……」
麩月(ふづき)は、ベッドの上で目だけ出して布団に潜り込んでいる。
彼女は小柄で、普段からあまり目立つタイプではない。
何をするにも億劫で、学校では「気が抜けた豆腐」とまで言われている。
でも麩月には、誰にも負けない特技があった。

「そんなとき!」
麩月は目をつぶって、何か考え始める。
つまらない日常を打破するため、麩月は想像力を活用する。
どんな退屈な時間でも、一瞬で夢中になれる想像の世界を作り出す能力だ。
現実はいつも重い。だから私は、軽い世界を自分でつくる。

「1・2……」
ばっと起き上がる。
「ほら! 窓の外は白亜紀!!」

窓の外でプテラノドンが鳴いた。
本当はカラス……のはずなのに、今日は黒くない。
ビルの屋上から屋上へ滑空している。
トリケラトプスが大きな角を揺らしながら走り、草食恐竜たちがゆっくりと草木を食べている。
街中で恐竜が闊歩している。

「行ってきます!」
やる気が出たので、麩月は学校へ向かう。
ヴェロキラプトルが「グルルルル……」と、隣の家の塀の中で唸り声をあげている。
(けれど私はわかっている。本当は隣の犬が吠えているだけ)
ステゴサウルスの群れが尻尾を左右に振りながら道路を横断する。
(本当は自転車通学の高校生たちね)
トリケラトプスに人が乗って走っている。
(あれはバスよ)

これは麩月がいつもおこなう想像ごっこである。
あるときはお忍びでやってきた王女様が街を視察するごっこ。
あるときは銀河の彼方からやってきた宇宙人になりきって地球を観察するごっこ。

咆哮を上げ、麩月めがけて走ってくるティラノサウルス。
巨大な足音が地面を揺らし、周囲の建物の窓がガタガタと音を立てている。
「ダンプカーだということはわかってるのよ」
しかし、ティラノサウルスの姿があまりにもリアルで、麩月の想像力は暴走していく。
トリケラトプスの角が陽光を反射して鈍い輝きを放つ。
プテラノドンの影が街全体に広がり、人々はその存在に怯えるどころか、自然の一部のように受け入れている。
「こんなに完璧な世界が作れるなんて、私って天才かも!」

一瞬だけ得意げな表情を浮かべた。
その直後、ティラノサウルスの巨大な瞳が、彼女を見透かすようにわずかに動いた気がした。
一瞬、心臓が跳ねる。
ギョッとした。
ティラノサウルスが顎を大きく開き、麩月の頭上に迫ってくる。
わかってる。これはダンプカー。いつもそうだった。
でも今日は……うまく“区別”ができていない。
感覚のチャンネルが混線しているみたいだ。
「そういうの、もういいから」
苦笑いしながら、麩月は自分の暴走した想像を止めようとする。

……はずだった。

しかし今日は違った。
そのまま恐竜の王者は麩月を咥えた。
巨大な牙が突き刺さり、麩月の意識は遠くなる。
そのまま空中へ振り回し、ティラノサウルスは彼女の身体を地面に叩きつけた。

麩月は横たわったまま、かろうじて目を開く。
「駄目! 私がこのまま死んでしまったら……」

薄れていく意識の中、麩月は手のひらに意識を集中させる。
ティラノサウルスの足元に広がるはずの、ゴツゴツとしたジュラ紀の土ではなく、固く、熱を帯びた現実の舗装道路の感触を。
「これはアスファルト。アスファルト……!」
しかし、手のひらは巨大な肉食獣の足に踏み潰され、感触は消えていく。
建物のガラス窓が轟音にビリビリ震えている。
通りにいた他の恐竜たちも興奮したように動き始める。
アパトサウルスが長い首を建物から突き出し、足元を通行人がくぐる。
ヘルメットを被った青年がコンプソグナトゥスの背に乗り、道路を走り抜けていく。

「恐竜が、私の思い込みが、確信に変わって……このままの世界が続いてしまう……」
麩月の指が地面を掻きむしるように動く。
「駄目…………」
「早く想像をやめないと……」

麩月の眼は見開いたまま静止した。
ティラノサウルスは足音を響かせ、去っていく。
その後に残された血まみれの少女を、通勤途中のサラリーマンが邪魔そうに避けて歩いていく。
スマートフォンを見ながら、誰一人として悲鳴を上げない。
だってそれが、恐竜の日常だから。

——おわり——

【小説】春の妖精

春の陽射しは、やわらかかった。
風には、甘い花の匂いが混じっている。

午後。
少女はそっと靴を履き、扉を開けた。
「お母さん、行ってくる」
鍋の上で湯気が揺れている。
「どこへ?」
「ちょっと、そこまで」
母は、湯気の向こうからちらりと少女を見る。
「また、森へ?」
少女は答えなかった。

家から歩いて一〇分ほどのところに森がある。
春になると、桜の花びらが地面に舞い、
草木のあいだから、小さな光がちらちらと立ち上る場所。
誘われるように少女は歩く。
そこは、秘密の場所だった。

この時期にしか現れないものがいる。
妖精だ。
淡い色の羽を持ち、手のひらに乗るほどの小さな存在。
蝶とも違う。
鳥とも違う。
ただ、この季節にだけ現れ、ふわふわと漂う。
少女は、去年、一度だけ見たことがあった。
けれど、そのときは捕まえられなかった。

今年こそ。

森に着くと、妖精たちはすでに飛び交っていた。
光を反射しながら舞い、喋り、笑い声を上げている。
少女は息を潜め、じっと待つ。
手のひらをそっと伸ばし、身体を動かさない。
「こっちだよ……」
一匹が、そう囁きながらふわりと降りてきた。
指先が震える。
逃げられないように、慎重に両手を合わせる。

捕まえた。

そっと、指の隙間を開く。
かすかに透き通った羽が見えた。
胸が高鳴る。
急いで持ち帰らなくては。

帰り道、少女の心は浮き立っていた。
虫かごの中で、妖精が少女に話しかけてくる。
「君は、可愛いね」
そうかしら。
少女は、嬉しくなる。
「この道は、はじめてかな」
妖精は、虫かごの中から外を覗く。
「おいおい、そっちじゃないよ」
ここはあまり来たことがない。
自信がない。
「こっちだよ」
妖精の言う通りに、歩く。
「そっちじゃないよ」
「こっちだよ」
気づくと、同じ木の影がまた目の前にあった。

妖精は、人を迷わせる。
妖精の言う通りに歩いているうちに、少女は迷ってしまった。
家に帰れない。
泣きながら、歩く。
少女は、笑われている気がした

父と母が、窓の外を見ると。
虫かごを持った娘が、わんわん泣きながら同じ場所を回っていた。

家に戻った少女は、机の上に虫かごを置き、両親と話す。
「妖精って、そういうものなのよ」
「騙すの?」
「騙しているわけじゃないの。進化の過程で、そうなっただけ」
「適者生存、あるいは、最適者生存」
少女には難しい言葉だった。

「こっちだよ」
「そっちじゃないよ」
「こっちだよ」
虫かごの中で、妖精は鳴いている。

「そういう鳴き声なの。本人たちには、意思はない。ただ、人間には言葉みたいに聞こえるだけ」

少女は小さな箱を用意する。
葉と花びらを敷き、水をほんの少し垂らす。
そっと、箱をのぞき込む。
妖精は小さく震えていた。
「君は、可愛いね」
少女を見上げて微笑んだ。

夜になっても、少女は眠れなかった。
布団に入っても、胸が高鳴る。
何度も箱を開けては、中の妖精を確かめる。

翌朝。
妖精の羽は、少しくすんでいた。
箱の中には、甘い匂いとは別の薄い湿り気が混じっていた。
「そっちじゃないよ」
妖精は、鳴いている。
訴えかけるように、何度も、何度も。
「この道は、はじめてかな」
「君は、可愛いね」
声は、だんだん小さくなっていく。

三日後。

羽はしおれ、
「君は、可愛いね」
最後にそうつぶやき、妖精は動かなくなった。
みるみる身体が黒ずみ、異臭が漂いはじめる。
箱の中では小さな虫が這い、花びらの上に溶けたような液体が染みている。
少女は、悲鳴を上げた。

「だから、言ったのに」
母の声は、低く、硬かった。
「捕まえたら、死んでしまう。そう、言ったでしょう」
少女は、震える手で箱を抱え、涙を流す。
「……どうしよう、お母さん」
「埋めてあげなさい」

夜の森へ向かう。
春の香りが、まだ残る木々の下。
少女は、小さな穴を掘る。
腐りかけた妖精を、そっと埋め、手で土をかける。
「ごめんね」
頬を流れる涙が、土に落ちる。

ふとどこからか、かすかな声が聞こえた。
少女は、顔を上げる。
「君は、可愛いね」
春の風に乗って、小さな光が揺れながら舞っていた。
けれど、その手を伸ばすことは、もうできなかった。

—— おわり——

【小説】因果の飴玉

男は黒い服を着ていた。
黒いコート、黒いシャツ、黒いズボン、黒い靴。
夕暮れの街角で、男は道を歩いていた。目的のマンションはすぐ近くだが、正確な場所がわからない。地図を確認しようとポケットに手を突っ込んだとき、小さな影が視界をよぎった。
まだ幼い男の子が、ボールを蹴りながら歩いている。
男はふと足を止め、その子供に声をかけた。
「なあ、ちょっといいか」
男の子はボールを止め、見上げた。
「ん?」
「このマンションの場所を知ってるか?」
そう言ってスマホの画面を見せる。男の子はちらっと見て、すぐに笑った。
「ここだよ! 僕のマンション!」
指差した先にそびえるのは、まさに男が探していた建物だった。
「そうか、ありがとうな」
男はポケットから飴玉を取り出し、少年の手にそっと置いた。
「お礼だ」
「わ〜い!」
少年は嬉しそうに飴を握りしめると、そのままマンションの入口へと駆け込んでいった。男はその背中を見送ると、静かにエントランスへ足を踏み入れた。

「こらっ! どこでそんな飴をもらったの!」
部屋に戻った少年は、すぐに母親に咎められた。
「道で知らない人からもらっちゃダメって言ってるでしょ!」
「いいじゃん! 飴だよ?おいしいもん!」
母親の手から逃れるように、少年はリビングを駆け回る。
「返しなさい!」
「や〜だ!」
鬼ごっこが始まった。少年はソファの周りをぐるぐると走り、母親もそれを追いかける。
そのとき——
少年は勢い余って、棚にぶつかった。
棚が揺れる。
上に置かれていた石膏像が、わずかに傾いだ。
次の瞬間、バランスを失った石膏像が、すぐ隣の金庫の上に落ちた。
重い金庫が、その衝撃でわずかに傾く。
そして——
床が、音を立てて抜けた。

黒い服の男は、下の階の一室にいた。
部屋の中は薄暗い。ベッドの上に座る男は、手に鋭いナイフを握っている。
目の前には、椅子に縛られた住人が震えていた。
「すまんな、仕事なんでね」
そう言って、男はナイフをゆっくりと持ち上げる。
そのとき——
天井から異音がした。
男は眉をひそめゆっくりと上を見上げる。
「……何だ?」
次の瞬間、金庫が天井を突き破って落ちてきた。
大轟音。
男は、言葉を発する間もなく金庫に押し潰された。
「ええっ?」
縛られた住人は、状況を理解する前にさらに異変を目にした。
潰れた金庫の扉が衝撃で開き、中から大量の飴玉が床に転がり出た。
赤、青、黄色、透明——さまざまな色のキャンディーが、まるで男の血の代わりのように床を埋め尽くしていく。
住人は目を見開いたまま、震える声で呟いた。
「……なに、これ……?」

上の階。
「ほら、だから言ったでしょ!知らない人から飴なんてもらっちゃダメ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
母親は溜息をつきながら、床の穴を見た。
「まったく、どうしてこんなことに……」
少年は泣きながら、まだ手の中にあった飴を握りしめていた。
「カラ……ン、コロ……ン……」
下の階から、なおも飴玉が床を転がる音が、少年の耳へかすかに響く。

金庫から溢れ出した飴玉は、爆ぜた火花のように放射状に部屋を埋め尽くしていく。
そのうちの一粒が、騒ぎを聞きつけて駆けつけた警官の足元を音もなくすり抜け、開いたままの扉から外へと滑り出て、マンション前にコロンと跳ねると、観測不能な死角へ消え去った。

その日以来、
このマンションでは誰かが親切にした直後に、
理由の分からない事故が一つだけ起きるようになった。

—— おわり——

【小説】指圧の彼方に

新宿の裏通りは、表の喧騒が嘘のように音を落としていた。
曲がりくねった細い路地の奥に、指圧マッサージ店がひっそりと佇んでいる。
扉を押し開けると、かすかにお香の香りが漂ってきた。
カウンターの向こうから、小柄で白髪混じりの指圧師が現れた。
「肩がこってまして」
と僕が言うと、指圧師は黙って頷き、ベッドを指差した。
横になると、指圧師は肩ではなく、その下のツボを押した。
その瞬間——
遠く、整骨院の窓際に置かれた花瓶の花が、ポン!と開いた。

「お客さん、珍しい体質ですね」
指圧師は満足そうに頷く。
「ツボっていうのはね、東洋医学でいう気の流れに関係しているんですけど……あなたの場合、その流れが身体から外に広がっているみたいです」
「見えるの?」
「触れればわかりますよ。流れが皮膚の外に漏れている」
そう言うやいなや、指圧師は僕の足の裏をぎゅっと押した。
その瞬間、窓の外の雲が裂け、太陽の光がまっすぐ店内に差し込んだ。
「ほらね」
「ちょっと待てよ。遊ばないでくれ」
しかし、指圧師は冷静な顔でツボを押し続ける。
無表情ながらもどこか鋭い眼差しをしている。
遠くのビルの窓がガタリと開き、看板の電飾がチカチカと点滅し、道端のマンホールから湯気が勢いよく噴き出した。
「ここがあれに繋がっているということは……」
指圧師がさらに実験を始める。
至るところへ波紋が広がった。

京都で千年の時を超え、朽ちかけた寺の鐘が突如鳴り響く。
富士山の火口から白い光が漏れ、眩く輝く光の塊が八つの頭を持つヤマタノオロチの姿となり、首を揺らしている。
ナスカの地上絵が動き出し、鳥がアニメーションのように踊り出す。
万里の長城がうねりながら巨大な龍へと変貌する。
世界各地で、常識を超えた現象が次々と発生する。
そして——
テレビのニュースが緊急速報を伝えている。
「速報です!モスクワ赤の広場で異変が発生しました……!」
カメラが映し出したのは、白い鳩の群れ。
広場に降り立ち、空に「мир(平和)」の文字を描く。
観衆が息を呑む中、クレムリンの時計塔が静かに時を告げる。
「ロシアが戦争を……」

画像
「もういいだろ」
僕は疲れ果てて呟いた。
指圧師は肩をすくめた。
「逆に、世界を旅していろんな場所を押したほうが、お客さんの疲れにはいいかもしれませんね」
疲れを取るための指圧マッサージだったはずなのに、僕自身の疲れは残ったまま、別の話になってしまった。
——なんてこった。
次の旅行先を考えながら、僕は重い身体を引きずって店を出た。

—— おわり——

【小説】俺の読書癖が世界を支配する

甘志(あまし)と酢吉郎(すきちろう)は、近所のカフェの隅の席が定位置になっていた。今日もそこに腰を下ろし、取りとめのない話を始めている。
甘志は、手に触れた本はとりあえず最後まで読み切らないと気がすまない読書家だった。
酢吉郎は、その逆側にいる。
「活字を見ると眠くなるんだよね」
と笑う酢吉郎に、甘志は今日も本について語りかける。
「本ってさ、何冊読んだかじゃないんだ。同じ一冊を飽きるまで読み返すと、ある瞬間から物語が違って見えてくるんだよ」
甘志の言葉に、酢吉郎は目を細めた。
「それは何かの比喩か?」
「いや、比喩じゃない。本当に変わるんだ」
「どういうこと?」
「例えばさ、スタージョンの『夢見る宝石』って小説があるんだけど、紙が擦り切れるくらい読んでるやつ」
甘志はバッグからよく読み込まれた本を取り出した。
「本当なら途中で死ぬはずのハバナがさ、一回だけ、最後まで生き延びていたことがある」
酢吉郎は思わず笑った。
「ただ読み間違えたとかじゃなくて?」
「そうじゃない。何百回も読んで確認したんだ。ときどき、登場人物の運命が変わる」
「違う話になるじゃん!」
「そう、違う話になるんだよ」
「桃太郎だって読んでたら一度、鬼と仲良くなったことだってあるぜ」
甘志の真剣な表情に、酢吉郎は驚いた。
いつもの冗談ではなさそうだ。
こいつ、ちょっとおかしくなった?

「俺は歴史小説も好きなんだけど〜」
甘志が続けると、
「それも変わるのか?」
「その通り!」
甘志は、待ってましたとばかりにカバンから別の文庫本を取り出した。司馬遼太郎『国盗物語』だ。
「例えば、この本を何度も何度も読む。数百回も繰り返していると、あるとき内容が変わることがある。織田信長が明智光秀に裏切られる展開になっていたことだってある」
酢吉郎は半信半疑の顔をしながらも少し興味が湧いてきた。
「それで?」
「まあ、それだけだけど」
「それってさ、本の中だけじゃ済まないだろ。歴史そのものが変わるってことになる」
酢吉郎は口先を尖らせた。
「そう。歴史そのものが書き換わる。けどさ、最初からその世界にいる人間には、まずわからない。今だって、そうかもしれない」
甘志が窓の外を指す。酢吉郎は首をふる。
「変わってるようには見えないけどなあ」
「俺は何百度も読んで、違和感に幾度となく襲われたから世界はきっと随分と書き換えられているのさ」
「う〜ん、誰かが読むたびに世界が……」
と、甘志はニヤリと笑った。
「どうだい? そんな事を考えながら本を読むのも悪くないだろ?」
甘志は微笑みながらコーヒーを飲んだ。酢吉郎は少し考え込みながら言った。
「まあ、たまには読んでみてもいいかもな」

「で、織田信長が明智光秀に裏切られる世界線ってどうなんだろうな」
「俺が読んだときは、部下の羽柴秀吉が天下を統一する展開だった」
「いやそれはないだろ、信長だって跡継ぎがいるんだし……」

実際、ここは織田信長が明智光秀に裏切られず、そのまま日本を越えてユーラシアを統一した世界線だった。
カフェの外では、玉ねぎ形の屋根を載せた派手なロシア風建築が通りを挟んで並び、そのあいだを、刺繍入りの衣服や毛皮の帽子を身に着けた人々が行き交っている。
世界の方が何度も書き換えられていることに気づかないまま、二人はいつものようにコーヒーを前におしゃべりを続けていた。

—— おわり——

【小説】記憶の虫食い

二〇二五年度末、大阪の実家に僕は帰郷した。
年末年始も外出することがあるので、念のため、休み前三〇日の昼過ぎ、銀行に向かった。
ATMでお金を下ろす。
見回すと、駅前繁華街もすっかり変わった。
二五歳まで住んでいた高槻は、大阪と京都のちょうど中間にある。
中心部は高層マンションが立ち並ぶ都会だが、少し足を伸ばすと、山が広がっている。
僕の実家は山の麓にあるが、駅にも近い。
利便性が高いうえ、緑あふれるいい場所だ。

銀行から帰る途中、久しぶりに普段歩かない道を、少し遠回りして歩いてみる。
塾に通ったり、友達の家に遊びに行ったり、買い物をしたり、図書館へ往復したり、思い出に満ちた懐かしい道だったが、上京して四半世紀以上が経ち、風景が様変わりした箇所がポツポツと目立つようになってきた。
建築基準法改正後に建てられた住宅の前の道は広くなり……角を曲がるタイミングが、自分の思っているのと微妙にずれる。
自分の記憶通りの場所と、そうでない場所が、虫食い状態になっている。

舗装がまだ新しい道路を進んでいく。
マンションと新築の家の隙間に、僕の記憶にない通りがある。
誘われるように、その中へ進む。
この先に、何があったんだろう。

そうだ、僕はここで裸足でしゃがみ込んで泣いていた。
小学校三年生のときだろうか。
遊びに行った、この先の広場で、僕は自転車の鍵を落とした。
途方に暮れて歩いて帰ってきた。
自転車がないことを母親に気づかれ、怒鳴られ、追いかけられ……僕は靴も履かずに飛び出した。
そのまま裸足で舗道を走り、しゃがみ込んだのが田んぼの前だった。
今では田んぼがなくなり、マンションと住宅の隙間になっている。
僕は確かに、ここにいた。

「どうしたの?」
振り向くと、セーラー服姿のお姉さんが立っていた。
泣いている僕に、下校途中の中学生が声をかけてくれたのだ。
染めたわけではないが少し茶色い髪。
顔の輪郭はもう曖昧だが、意志の強そうな目つきだったことを覚えている。
「……自転車の鍵を落として、お母さんに追い出されてん」
しゃくりあげながら、僕は返事した。
「ついてってあげる。一緒に探そう」
彼女は僕の手を引っ張った。
「大丈夫?」
心配そうに、僕の顔をのぞき込む。
「大丈夫」
僕は頷いた。
お姉さんの手は、あたたかかった。

記憶の虫食い部分を、僕はさらに進んでいく。
お姉さんは僕の家の近くから、遊んだ広場まで、一緒に歩いてくれた。
ときには地面に顔を近づけ、乾いた側溝の中も探してくれた。
お姉さんは、僕よりもっと注意深かった。
それでも、見つからなかった。
太陽は地平線の間近にあり、周囲は赤く染まっていた。

最後は、無数に並ぶ自転車置場から、僕の自転車を二人で引っ張り出した。
「私が見張っているから、君が鍵を壊しな」
後ろで、お姉さんが立ってくれた。
僕は落ちている石を手に取り、鍵を叩いた。

ガーン!
ガーン!

周囲の自転車も揺れている気がする。
僕の手が汗ばむ。

ガーン!

鍵が、落ちた。
「外れた!」
叫ぶ僕に、お姉さんは微笑む。
「よかったね!」

自転車を押して、僕は家に向かう。
夕日を背に、お姉さんも横を歩く。
「じゃあね、私、ここやから」
お姉さんは、学校の友達が貧乏な人が住んでいると噂していた、古い文化住宅のアパートに入っていった。
そのアパートは自転車置場と反対の方角で……お姉さんが遠回りして、ついてきてくれたことに、僕は深く感じ入った。

虫食いの穴から、僕は飛び出した。
また、自分の記憶通りの場所を、僕は歩いていた。
振り返ると、高層マンションが立ち並び、僕と一緒に鍵を探してくれたお姉さんのアパートは、その下に消えていた。

この場所で暮らしていると、少しずつ記憶が更新されていって虫食いになることはないのだろう。
けれど四半世紀以上離れて東京で生活をしていると……たまに帰ってきても記憶が更新されず、脳内地図に穴が空いた状態が残ってしまう。
虫食いの黒い穴だ。

引き寄せられないよう、身体を傾け、僕は実家に向かった。

—— おわり——

【小説】出勤戦隊ギガリーマン

誰かが呼ぶ声がする。
そのとき僕はキッチンで皿を洗っていた。
隣では妻が野菜を刻み、子供が足にしがみついて「遊んで!」とせがんでいる。
「ちょっと待って、今、仕事が……」
僕はため息をつきながらエプロンを外した。
すると、足がふわりと浮き上がり、いつものように窓から飛び出し空へ吸い込まれる。

身体が変形を始め、服が肌に吸収され滑らかになり、手足が身体の中に収納されていく。
最早見慣れた光景だった。
僕の身体はぎゅうっと長ぼそくなり、最後は巨大ロボットの右手の薬指へと変わる。
前方では、すでに何人もの人間が飛びながら変形し、巨大な人型機械に合体を始めていた。
「お待たせしました!」
叫ぶ間もなく、僕はすでに巨大ロボットの右手薬指へと装着されていた。
隣を見ると、同じく左手薬指となった田中が静かにうなずいている。
頭部の眉間には課長が鎮座し、胴体の中央は部長、両足は営業部の人たちだった。
ロボットの指先が軽く動く。

「よし、準備完了だ!」
課長の合図とともに、巨大ロボットは都市の防衛に向かう。
だが、何も起こらない。
「ねえ、本当に戦う必要あるんですか?」
「一応、通報があったんだけどな……」
街は平和そのもの。
結局、ロボットは公園で鳩に餌をあげて一日が終わる。

夕方、勤務時間が終わったので、
「直帰します!」
僕はロボットから射出され、空を飛ぶ。
僕の身体は徐々にロボットの薬指から人間の姿へ戻り、家の窓からするりと飛び込んだ。
「お父さん、どこいってたの!」
子供が駆け寄ってくる。
「仕事だよ」
「僕も仕事したい!ぎゅーんと空飛んでね……」
僕は苦笑しながら、子供の頭を撫でた。
「そんな楽しいものでもないよ」

—— おわり——

【小説】クリマ・フェーズ 魔王討伐録

この惑星には、クリマと呼ばれる力が満ちている。
それは風でも光でもなく、生き物の呼吸や言葉、動きに応じてかたちを変える、世界そのものの脈動だった。
だがある日、その流れを歪める存在が現れた。
魔族を従え、クリマの位相を固定する異常体。
人々はそれを魔王と呼んだ。
王都が不安に沈む空の下、四つの影が雲を割った。
戦士のヨーグル。
魔法使いのチョコ。
僧侶のヨウカン。
踊り子のパフ。
ドラゴンの背に乗った四人の女性は、王城の前庭へ静かに舞い降りる。
世界がまだ呼吸していることを、彼女たちは知っていた。

彼女たちは時に仲違いをし、時に励まし合いながら、魔王に至る道を一つずつ解きほぐしていった。
その姿を、人々はいつしかレッド・ブレスと呼ぶようになった。

魔王傘下の将軍との戦いで、チョコが石化した。
動けなくなった彼女を中心に、ヨーグルは魔物を蹴散らし、ヨウカンは乱れた生体同期を正そうと手をかざし、パフは踊り続けてクリマの流れを保った。
魔物の爪と牙で三人が限界に達しようとした、そのとき。
チョコが、わずかに動いた。
「待たせたね」
小さな声で詠唱が始まる。
次の瞬間、赤い溶岩の塊が流星のように降り注ぎ、魔物の軍勢は炎の中で消失した。
戦いのあと、ヨーグルはチョコの肩を掴んだ。
「大丈夫か」
大柄な体に、血で黒く固まった金髪。
チョコは首を振り、黒髪を揺らす。
「わからない。魔王の呪いかもしれない」
悔しそうに唇を噛むチョコに、ヨウカンが叫んだ。
「そんなことないよ! 最後はチョコの力で助かったんだ! あの灼熱魔法、すごかった!」
「大丈夫さ」
パフが軽やかに回る。
「魔物たちは、あたいの踊りに夢中だったからね」
パーティを和ませるための、いつもの仕草だった。
「でも……」
チョコは自分の手を見つめる。
「魔王が、クリマを時空を越えて操作できるなら……」
「魔王と言えど万能ではない」
ヨーグルはきっぱりと言った。
「呪いは解けた。何があっても、私が盾になる」
四人は手を重ねる。
「レッド・ブレスは、いつも仲間だ!」

魔王はクリマを凍らせる。それは、明日が今日と同じであることを強いる呪いだ。
魔王居城は、黒く固められた菓子細工のように大地へ突き刺さっていた。
扉は歪み、音もなく崩れ落ちる。
甘い匂いが滞留し、クリマの流れは凍りついていた。
玉座に座す魔王が、四人を見下ろす。
「来たか。クリマに縋る者たちよ」
「黙れ」
ヨーグルが剣を構える。
「世界の流れを止める存在は、ここで終わらせる」

時間の感覚が、崩れた。
赤いクリマが弾け、四つの同調が重なった。
「ばかな……」
固定された位相が崩れ、魔王の身体に亀裂が走る。
「終わりだ」
剣が振り下ろされ、魔王は悲鳴もなく溶けるように消えた。
居城が崩れ、空へ赤いクリマが戻っていく。
パフが息をつく。
「やったね」
ヨウカンが笑う。
「世界、まだ甘くて生きてる」
チョコは空を見上げ、静かに頷いた。
「レッド・ブレスは、負けない」

クリマの透明度が限りなく高い青空の下、王都は賑わっていた。
魔王を倒した四人の風来坊、レッド・ブレスを称えるパレード。
彫像で飾られた山車が四足獣に引かれ、城へと進んでいく。
その熱気の中で、ヨーグルはチョコの横顔を見て、ふと囁いた。
「なあ……私たち、リアルで会わないか?」
 
王宮での果てしなく続く祝勝会のあと、控室に集まった四人は、長い話し合いをした。
そして――

   *   *   *

西武池袋線練馬駅。
北口広場には、三角形のガラスを組み合わせたピラミッドが立っている。
休日の午後、カップルや親子連れが行き交い、スケートボードに乗った小学生が周囲をぐるぐると回っていた。
その前のベンチに、ひとりの男が座っている。

男は三〇代だった。
赤いジャンパー。眼鏡。落ち着きがない。
「もうそろそろ待ち合わせ時刻なのに、誰も来ない……」

彼こそが、レッド・ブレスのリーダーことヨーグル。
ただし中身は、普通の男だった。

オンラインゲーム『クリマ・フェーズ』の中で、ヨーグルは女戦士を使っていた。
いわゆる女キャラ使いであり、そのことを最後まで仲間に明かさないまま、オフ会を提案してしまったのだ。
全員が関東在住だとわかり、中心地点として選ばれたのが練馬だった。
三分おきにスマホを見る。
画面には、まだ通知はない。

ベンチの端に、誰かが腰を下ろした。
「……なんだ?」
横を見ると、禿げ上がった頭の体格のいい中年男性が、無言で押してくる。
ヨーグルより干支が二つぐらい上、残った髪はまだ黒いので五〇代といったところだろうか。
押し返すと、また押し返される。
睨み合いになった、そのとき。
赤いマフラー。
互いに、相手の赤い装いに目が止まる。
「日曜の午後四時、練馬駅北口のピラミッド前で、赤いものを身につけて」
約束の言葉が、同時に頭をよぎった。
二人同時に声を出す。
「君はひょっとして……」
「あなたはひょっとして……」
「……あたい、いや私は、踊り子のパフだよ!」
ヨーグルは、思わずベンチから転げ落ちそうになった。
あの綿毛のようなシルバーアフロの中身が、禿げた中年男性だとは。
「俺は……ヨーグル」
しばらく、二人は無言で見つめ合った。
「さてはお前、下心あったな」
パフが小声で言う。
「お前こそだ」
ヨーグルも言い返す。
そのとき。
「こら、何をやっている」
通行人の声に、二人は飛び上がった。
振り返ると、赤いザックを背負った白髪の男性が立っている。
七〇代ほどだろうか。
穏やかな笑顔。
「君たちも、レッド・ブレスのメンバーか?」
「……まさか」
ヨーグルが言葉を失う。
「ボクが、僧侶のヨウカンだ」

待ち合わせの四時は過ぎていた。
ピラミッド前では、小学生が相変わらずスケートボードで回っている。
三人は、途切れ途切れに話していた。
「この調子じゃ、チョコも声をかけづらいかもな」
ヨーグルが呟く。
「お前みたいなおっさんがいるからだろ」
パフが吐き捨てる。
「そんな言い方をするな。ボクはみんな薄々気づいているのかと思っていたよ」
ヨウカンが笑う。
「自分も男だし、他のメンバーが同じでも不思議じゃない」
そのとき。
「結局、全員男だったんだね」
声の方を見ると、赤いスケートボードを持った少年が立っていた。
「……僕、いや私は、魔法使いのチョコ」
少年はぺろりと舌を出し、笑った。
練馬駅前広場が、ゲーム内のNPCの群れみたく止まった感じがした。

「飲みに行けない!」
ファミリーレストランの席で、パフが荒ぶって叫んでいる。
「こいつ、小学生じゃないか!」
「中三だよ!」
ムッとしてチョコが言い返す。
「高校になったら背が伸びる予定だから、見た目で決めつけないで」
ドリンクバーのコーラを一気に飲み干した。
「もう子供じゃないし」
「子供だよ!」
パフが即座に言う。
その様子を見て、ヨーグルはため息をついた。
「……そうか。全員、男だったのか」
「お前が一番落ち込んでるぞ」
パフが呆れたように言う。
ヨウカンは抹茶ババロアを食べながら、穏やかに口を挟んだ。
「ボクは、一人か二人は男かもしれないと思っていたよ。さすがに全員とは思わなかったけどね」
チョコはクリームソーダをかき混ぜながら言った。
「ゲームの中では、頼りになるお姉さんたちだと思ってたんだけどなあ」

パフが話題を切り替える。
「まあ、思い出話でもしようじゃないか」
「ドラゴンの背に乗るとき、チョコが山彦の笛を吹くアイデアはどう思いついたんだ?」
ヨウカンが尋ねる。
「あれ? 攻略サイト」
チョコはあっさり言う。
「そういうのはよくない!」
ヨウカンが顔をしかめた。
「ボクはパソコン通信時代から自分の頭で考えてだな……」
「じゃあオーブ(宝珠)集めは? 攻略サイトを見ても難しいぜ。魔物を倒して持っている奴から地味に奪っていかなければならないからな」
そう尋ねるヨーグルに、けろっとした顔でチョコは
「集めたやつから買った」
ヨーグルが身を乗り出す。
「一個六万ゴールドだろ?」
「買った」
「どうやってそんな金を?」
少し間を置いて、チョコは付け足した。
「テストで満点取ったから」
親が課金してくれたということか。
三一歳、派遣社員でシステムエンジニアを続けている自分より、チョコのほうがよっぽど自由にできる金が多いという事実に、ヨーグルは沈黙した。

「嵐が丘を越えるとき、パフが雷から守ってくれるため三日三晩踊り続けただろ。あれは頼もしかったよ」
ヨウカンの言葉に皆も頷く。
「大変だったんじゃないか?」
「特に大変じゃないよ。私は基本、家にいるからね」
パフは肩をすくめる。
「親の建てたマンションで管理人をやってる。そこでゲームをやっているから、時間の融通はきくんだ」
ヨーグルは眉をひそめる。
「それ、引きこもりじゃ……」
「違う」
即座に遮られた。
「介護もあるし、外で働く余裕がないだけだ」
「ええっ、めちゃいいじゃん」
チョコが目を輝かせる。
「僕も家でできる仕事、やりたいな」
慌ててヨーグルがたしなめる。
「いやいやいや、仕事ってそんな甘いもんじゃないぞ」
「甘いとか言うな」
パフはむっとした。
「私はそれで生きてるんだ」
ヨウカンが遠くを見ながらつぶやく。
「介護か……ボク自身が世話になることを考えなきゃならない歳なんだけどな。身体そのものより気力が減退していることを感じるんだ。今日この後、孫が……」

チョコとヨウカンは小声で話し始める。
「チョコはボクの孫と学年が同じだな」
「マジで! どう、一緒にゲームやったりする?」
「いや、そんな感じじゃないね。バスケに夢中で。ボクに似ず身体を動かすのが好きでさ」
「リア充だ〜」
盛り上がっている。

パフが何か言いかけ、やめた。
だがヨーグルは、頷いてしまった。
「俺も現実で財布忘れたとき、スライム狩ればいいかって思ったりするよ」
ヨウカンがこちらの話に入ってくる。
「どちらが自分の世界かわからなくなるときがあるんだよね」
ヨーグルは思い出す。
「そういえば魔将軍の前で、チョコが石化したとき……」
「そうそう、固まって喋らなくなってさ」
パフの相槌に、チョコが気まずそうに笑った。
「あのとき親に見つかって、ゲーム機取り上げられてた」
みんな驚いてチョコを見る。
「ゲームに戻ったら、魔王の呪いって言われてて笑った」
ぺろっと舌を出した
「笑えないよ!」
パフが叫ぶ。
「だから、僕のゲージに貯まっていたクリマを全部解放した」
チョコはあっけらかんとしている。
「究極魔法っぽくて、かっこよかったでしょ」
ヨウカンは顔をくしゃくしゃにして笑った。
「なんとかなったけど、あのときボクも生体同期が限界だったんだよ」
「時間もギリギリだよ。僕はあの日の翌日、出張だったから……」
と、ヨーグルは言いながら口を開けたまま——止まった。

ぎょっとしてその場の三人は顔を合わせた。

「おい、どうした?」
回復魔法の効果音が流れ、ヨーグルは動き出した。
「いやいや、ボーっとしただけ」
効果音らしきものは、ドリンクバーから液体が注がれる時の電子音だった。
三人、苦笑いする。
「お前の中の人が、トイレに行ったのかと思ったよ!」
「中の人なんかいない!」
「ゲームって、身体のこと忘れるぐらい熱中するからさ……」

夕方、チョコは先に帰った。
残った三人は場所を移し、終電まで話し込んだ。
別れ際。
ヨーグルは、去りゆく二人の背中に赤く光るエフェクトを見た。
それは西武池袋線のテールランプだったが、レッド・ブレスの証と同じ形をしていた。

—— おわり——