【小説】指圧の彼方に

新宿の裏通りは、表の喧騒が嘘のように音を落としていた。
曲がりくねった細い路地の奥に、指圧マッサージ店がひっそりと佇んでいる。
扉を押し開けると、かすかにお香の香りが漂ってきた。
カウンターの向こうから、小柄で白髪混じりの指圧師が現れた。
「肩がこってまして」
と僕が言うと、指圧師は黙って頷き、ベッドを指差した。
横になると、指圧師は肩ではなく、その下のツボを押した。
その瞬間——
遠く、整骨院の窓際に置かれた花瓶の花が、ポン!と開いた。

「お客さん、珍しい体質ですね」
指圧師は満足そうに頷く。
「ツボっていうのはね、東洋医学でいう気の流れに関係しているんですけど……あなたの場合、その流れが身体から外に広がっているみたいです」
「見えるの?」
「触れればわかりますよ。流れが皮膚の外に漏れている」
そう言うやいなや、指圧師は僕の足の裏をぎゅっと押した。
その瞬間、窓の外の雲が裂け、太陽の光がまっすぐ店内に差し込んだ。
「ほらね」
「ちょっと待てよ。遊ばないでくれ」
しかし、指圧師は冷静な顔でツボを押し続ける。
無表情ながらもどこか鋭い眼差しをしている。
遠くのビルの窓がガタリと開き、看板の電飾がチカチカと点滅し、道端のマンホールから湯気が勢いよく噴き出した。
「ここがあれに繋がっているということは……」
指圧師がさらに実験を始める。
至るところへ波紋が広がった。

京都で千年の時を超え、朽ちかけた寺の鐘が突如鳴り響く。
富士山の火口から白い光が漏れ、眩く輝く光の塊が八つの頭を持つヤマタノオロチの姿となり、首を揺らしている。
ナスカの地上絵が動き出し、鳥がアニメーションのように踊り出す。
万里の長城がうねりながら巨大な龍へと変貌する。
世界各地で、常識を超えた現象が次々と発生する。
そして——
テレビのニュースが緊急速報を伝えている。
「速報です!モスクワ赤の広場で異変が発生しました……!」
カメラが映し出したのは、白い鳩の群れ。
広場に降り立ち、空に「мир(平和)」の文字を描く。
観衆が息を呑む中、クレムリンの時計塔が静かに時を告げる。
「ロシアが戦争を……」

画像
「もういいだろ」
僕は疲れ果てて呟いた。
指圧師は肩をすくめた。
「逆に、世界を旅していろんな場所を押したほうが、お客さんの疲れにはいいかもしれませんね」
疲れを取るための指圧マッサージだったはずなのに、僕自身の疲れは残ったまま、別の話になってしまった。
——なんてこった。
次の旅行先を考えながら、僕は重い身体を引きずって店を出た。

—— おわり——