月別アーカイブ: 2026年2月

【小説】俺の読書癖が世界を支配する

甘志(あまし)と酢吉郎(すきちろう)は、近所のカフェの隅の席が定位置になっていた。今日もそこに腰を下ろし、取りとめのない話を始めている。
甘志は、手に触れた本はとりあえず最後まで読み切らないと気がすまない読書家だった。
酢吉郎は、その逆側にいる。
「活字を見ると眠くなるんだよね」
と笑う酢吉郎に、甘志は今日も本について語りかける。
「本ってさ、何冊読んだかじゃないんだ。同じ一冊を飽きるまで読み返すと、ある瞬間から物語が違って見えてくるんだよ」
甘志の言葉に、酢吉郎は目を細めた。
「それは何かの比喩か?」
「いや、比喩じゃない。本当に変わるんだ」
「どういうこと?」
「例えばさ、スタージョンの『夢見る宝石』って小説があるんだけど、紙が擦り切れるくらい読んでるやつ」
甘志はバッグからよく読み込まれた本を取り出した。
「本当なら途中で死ぬはずのハバナがさ、一回だけ、最後まで生き延びていたことがある」
酢吉郎は思わず笑った。
「ただ読み間違えたとかじゃなくて?」
「そうじゃない。何百回も読んで確認したんだ。ときどき、登場人物の運命が変わる」
「違う話になるじゃん!」
「そう、違う話になるんだよ」
「桃太郎だって読んでたら一度、鬼と仲良くなったことだってあるぜ」
甘志の真剣な表情に、酢吉郎は驚いた。
いつもの冗談ではなさそうだ。
こいつ、ちょっとおかしくなった?

「俺は歴史小説も好きなんだけど〜」
甘志が続けると、
「それも変わるのか?」
「その通り!」
甘志は、待ってましたとばかりにカバンから別の文庫本を取り出した。司馬遼太郎『国盗物語』だ。
「例えば、この本を何度も何度も読む。数百回も繰り返していると、あるとき内容が変わることがある。織田信長が明智光秀に裏切られる展開になっていたことだってある」
酢吉郎は半信半疑の顔をしながらも少し興味が湧いてきた。
「それで?」
「まあ、それだけだけど」
「それってさ、本の中だけじゃ済まないだろ。歴史そのものが変わるってことになる」
酢吉郎は口先を尖らせた。
「そう。歴史そのものが書き換わる。けどさ、最初からその世界にいる人間には、まずわからない。今だって、そうかもしれない」
甘志が窓の外を指す。酢吉郎は首をふる。
「変わってるようには見えないけどなあ」
「俺は何百度も読んで、違和感に幾度となく襲われたから世界はきっと随分と書き換えられているのさ」
「う〜ん、誰かが読むたびに世界が……」
と、甘志はニヤリと笑った。
「どうだい? そんな事を考えながら本を読むのも悪くないだろ?」
甘志は微笑みながらコーヒーを飲んだ。酢吉郎は少し考え込みながら言った。
「まあ、たまには読んでみてもいいかもな」

「で、織田信長が明智光秀に裏切られる世界線ってどうなんだろうな」
「俺が読んだときは、部下の羽柴秀吉が天下を統一する展開だった」
「いやそれはないだろ、信長だって跡継ぎがいるんだし……」

実際、ここは織田信長が明智光秀に裏切られず、そのまま日本を越えてユーラシアを統一した世界線だった。
カフェの外では、玉ねぎ形の屋根を載せた派手なロシア風建築が通りを挟んで並び、そのあいだを、刺繍入りの衣服や毛皮の帽子を身に着けた人々が行き交っている。
世界の方が何度も書き換えられていることに気づかないまま、二人はいつものようにコーヒーを前におしゃべりを続けていた。

—— おわり——

【小説】記憶の虫食い

二〇二五年度末、大阪の実家に僕は帰郷した。
年末年始も外出することがあるので、念のため、休み前三〇日の昼過ぎ、銀行に向かった。
ATMでお金を下ろす。
見回すと、駅前繁華街もすっかり変わった。
二五歳まで住んでいた高槻は、大阪と京都のちょうど中間にある。
中心部は高層マンションが立ち並ぶ都会だが、少し足を伸ばすと、山が広がっている。
僕の実家は山の麓にあるが、駅にも近い。
利便性が高いうえ、緑あふれるいい場所だ。

銀行から帰る途中、久しぶりに普段歩かない道を、少し遠回りして歩いてみる。
塾に通ったり、友達の家に遊びに行ったり、買い物をしたり、図書館へ往復したり、思い出に満ちた懐かしい道だったが、上京して四半世紀以上が経ち、風景が様変わりした箇所がポツポツと目立つようになってきた。
建築基準法改正後に建てられた住宅の前の道は広くなり……角を曲がるタイミングが、自分の思っているのと微妙にずれる。
自分の記憶通りの場所と、そうでない場所が、虫食い状態になっている。

舗装がまだ新しい道路を進んでいく。
マンションと新築の家の隙間に、僕の記憶にない通りがある。
誘われるように、その中へ進む。
この先に、何があったんだろう。

そうだ、僕はここで裸足でしゃがみ込んで泣いていた。
小学校三年生のときだろうか。
遊びに行った、この先の広場で、僕は自転車の鍵を落とした。
途方に暮れて歩いて帰ってきた。
自転車がないことを母親に気づかれ、怒鳴られ、追いかけられ……僕は靴も履かずに飛び出した。
そのまま裸足で舗道を走り、しゃがみ込んだのが田んぼの前だった。
今では田んぼがなくなり、マンションと住宅の隙間になっている。
僕は確かに、ここにいた。

「どうしたの?」
振り向くと、セーラー服姿のお姉さんが立っていた。
泣いている僕に、下校途中の中学生が声をかけてくれたのだ。
染めたわけではないが少し茶色い髪。
顔の輪郭はもう曖昧だが、意志の強そうな目つきだったことを覚えている。
「……自転車の鍵を落として、お母さんに追い出されてん」
しゃくりあげながら、僕は返事した。
「ついてってあげる。一緒に探そう」
彼女は僕の手を引っ張った。
「大丈夫?」
心配そうに、僕の顔をのぞき込む。
「大丈夫」
僕は頷いた。
お姉さんの手は、あたたかかった。

記憶の虫食い部分を、僕はさらに進んでいく。
お姉さんは僕の家の近くから、遊んだ広場まで、一緒に歩いてくれた。
ときには地面に顔を近づけ、乾いた側溝の中も探してくれた。
お姉さんは、僕よりもっと注意深かった。
それでも、見つからなかった。
太陽は地平線の間近にあり、周囲は赤く染まっていた。

最後は、無数に並ぶ自転車置場から、僕の自転車を二人で引っ張り出した。
「私が見張っているから、君が鍵を壊しな」
後ろで、お姉さんが立ってくれた。
僕は落ちている石を手に取り、鍵を叩いた。

ガーン!
ガーン!

周囲の自転車も揺れている気がする。
僕の手が汗ばむ。

ガーン!

鍵が、落ちた。
「外れた!」
叫ぶ僕に、お姉さんは微笑む。
「よかったね!」

自転車を押して、僕は家に向かう。
夕日を背に、お姉さんも横を歩く。
「じゃあね、私、ここやから」
お姉さんは、学校の友達が貧乏な人が住んでいると噂していた、古い文化住宅のアパートに入っていった。
そのアパートは自転車置場と反対の方角で……お姉さんが遠回りして、ついてきてくれたことに、僕は深く感じ入った。

虫食いの穴から、僕は飛び出した。
また、自分の記憶通りの場所を、僕は歩いていた。
振り返ると、高層マンションが立ち並び、僕と一緒に鍵を探してくれたお姉さんのアパートは、その下に消えていた。

この場所で暮らしていると、少しずつ記憶が更新されていって虫食いになることはないのだろう。
けれど四半世紀以上離れて東京で生活をしていると……たまに帰ってきても記憶が更新されず、脳内地図に穴が空いた状態が残ってしまう。
虫食いの黒い穴だ。

引き寄せられないよう、身体を傾け、僕は実家に向かった。

—— おわり——

【小説】出勤戦隊ギガリーマン

誰かが呼ぶ声がする。
そのとき僕はキッチンで皿を洗っていた。
隣では妻が野菜を刻み、子供が足にしがみついて「遊んで!」とせがんでいる。
「ちょっと待って、今、仕事が……」
僕はため息をつきながらエプロンを外した。
すると、足がふわりと浮き上がり、いつものように窓から飛び出し空へ吸い込まれる。

身体が変形を始め、服が肌に吸収され滑らかになり、手足が身体の中に収納されていく。
最早見慣れた光景だった。
僕の身体はぎゅうっと長ぼそくなり、最後は巨大ロボットの右手の薬指へと変わる。
前方では、すでに何人もの人間が飛びながら変形し、巨大な人型機械に合体を始めていた。
「お待たせしました!」
叫ぶ間もなく、僕はすでに巨大ロボットの右手薬指へと装着されていた。
隣を見ると、同じく左手薬指となった田中が静かにうなずいている。
頭部の眉間には課長が鎮座し、胴体の中央は部長、両足は営業部の人たちだった。
ロボットの指先が軽く動く。

「よし、準備完了だ!」
課長の合図とともに、巨大ロボットは都市の防衛に向かう。
だが、何も起こらない。
「ねえ、本当に戦う必要あるんですか?」
「一応、通報があったんだけどな……」
街は平和そのもの。
結局、ロボットは公園で鳩に餌をあげて一日が終わる。

夕方、勤務時間が終わったので、
「直帰します!」
僕はロボットから射出され、空を飛ぶ。
僕の身体は徐々にロボットの薬指から人間の姿へ戻り、家の窓からするりと飛び込んだ。
「お父さん、どこいってたの!」
子供が駆け寄ってくる。
「仕事だよ」
「僕も仕事したい!ぎゅーんと空飛んでね……」
僕は苦笑しながら、子供の頭を撫でた。
「そんな楽しいものでもないよ」

—— おわり——

【小説】クリマ・フェーズ 魔王討伐録

この惑星には、クリマと呼ばれる力が満ちている。
それは風でも光でもなく、生き物の呼吸や言葉、動きに応じてかたちを変える、世界そのものの脈動だった。
だがある日、その流れを歪める存在が現れた。
魔族を従え、クリマの位相を固定する異常体。
人々はそれを魔王と呼んだ。
王都が不安に沈む空の下、四つの影が雲を割った。
戦士のヨーグル。
魔法使いのチョコ。
僧侶のヨウカン。
踊り子のパフ。
ドラゴンの背に乗った四人の女性は、王城の前庭へ静かに舞い降りる。
世界がまだ呼吸していることを、彼女たちは知っていた。

彼女たちは時に仲違いをし、時に励まし合いながら、魔王に至る道を一つずつ解きほぐしていった。
その姿を、人々はいつしかレッド・ブレスと呼ぶようになった。

魔王傘下の将軍との戦いで、チョコが石化した。
動けなくなった彼女を中心に、ヨーグルは魔物を蹴散らし、ヨウカンは乱れた生体同期を正そうと手をかざし、パフは踊り続けてクリマの流れを保った。
魔物の爪と牙で三人が限界に達しようとした、そのとき。
チョコが、わずかに動いた。
「待たせたね」
小さな声で詠唱が始まる。
次の瞬間、赤い溶岩の塊が流星のように降り注ぎ、魔物の軍勢は炎の中で消失した。
戦いのあと、ヨーグルはチョコの肩を掴んだ。
「大丈夫か」
大柄な体に、血で黒く固まった金髪。
チョコは首を振り、黒髪を揺らす。
「わからない。魔王の呪いかもしれない」
悔しそうに唇を噛むチョコに、ヨウカンが叫んだ。
「そんなことないよ! 最後はチョコの力で助かったんだ! あの灼熱魔法、すごかった!」
「大丈夫さ」
パフが軽やかに回る。
「魔物たちは、あたいの踊りに夢中だったからね」
パーティを和ませるための、いつもの仕草だった。
「でも……」
チョコは自分の手を見つめる。
「魔王が、クリマを時空を越えて操作できるなら……」
「魔王と言えど万能ではない」
ヨーグルはきっぱりと言った。
「呪いは解けた。何があっても、私が盾になる」
四人は手を重ねる。
「レッド・ブレスは、いつも仲間だ!」

魔王はクリマを凍らせる。それは、明日が今日と同じであることを強いる呪いだ。
魔王居城は、黒く固められた菓子細工のように大地へ突き刺さっていた。
扉は歪み、音もなく崩れ落ちる。
甘い匂いが滞留し、クリマの流れは凍りついていた。
玉座に座す魔王が、四人を見下ろす。
「来たか。クリマに縋る者たちよ」
「黙れ」
ヨーグルが剣を構える。
「世界の流れを止める存在は、ここで終わらせる」

時間の感覚が、崩れた。
赤いクリマが弾け、四つの同調が重なった。
「ばかな……」
固定された位相が崩れ、魔王の身体に亀裂が走る。
「終わりだ」
剣が振り下ろされ、魔王は悲鳴もなく溶けるように消えた。
居城が崩れ、空へ赤いクリマが戻っていく。
パフが息をつく。
「やったね」
ヨウカンが笑う。
「世界、まだ甘くて生きてる」
チョコは空を見上げ、静かに頷いた。
「レッド・ブレスは、負けない」

クリマの透明度が限りなく高い青空の下、王都は賑わっていた。
魔王を倒した四人の風来坊、レッド・ブレスを称えるパレード。
彫像で飾られた山車が四足獣に引かれ、城へと進んでいく。
その熱気の中で、ヨーグルはチョコの横顔を見て、ふと囁いた。
「なあ……私たち、リアルで会わないか?」
 
王宮での果てしなく続く祝勝会のあと、控室に集まった四人は、長い話し合いをした。
そして――

   *   *   *

西武池袋線練馬駅。
北口広場には、三角形のガラスを組み合わせたピラミッドが立っている。
休日の午後、カップルや親子連れが行き交い、スケートボードに乗った小学生が周囲をぐるぐると回っていた。
その前のベンチに、ひとりの男が座っている。

男は三〇代だった。
赤いジャンパー。眼鏡。落ち着きがない。
「もうそろそろ待ち合わせ時刻なのに、誰も来ない……」

彼こそが、レッド・ブレスのリーダーことヨーグル。
ただし中身は、普通の男だった。

オンラインゲーム『クリマ・フェーズ』の中で、ヨーグルは女戦士を使っていた。
いわゆる女キャラ使いであり、そのことを最後まで仲間に明かさないまま、オフ会を提案してしまったのだ。
全員が関東在住だとわかり、中心地点として選ばれたのが練馬だった。
三分おきにスマホを見る。
画面には、まだ通知はない。

ベンチの端に、誰かが腰を下ろした。
「……なんだ?」
横を見ると、禿げ上がった頭の体格のいい中年男性が、無言で押してくる。
ヨーグルより干支が二つぐらい上、残った髪はまだ黒いので五〇代といったところだろうか。
押し返すと、また押し返される。
睨み合いになった、そのとき。
赤いマフラー。
互いに、相手の赤い装いに目が止まる。
「日曜の午後四時、練馬駅北口のピラミッド前で、赤いものを身につけて」
約束の言葉が、同時に頭をよぎった。
二人同時に声を出す。
「君はひょっとして……」
「あなたはひょっとして……」
「……あたい、いや私は、踊り子のパフだよ!」
ヨーグルは、思わずベンチから転げ落ちそうになった。
あの綿毛のようなシルバーアフロの中身が、禿げた中年男性だとは。
「俺は……ヨーグル」
しばらく、二人は無言で見つめ合った。
「さてはお前、下心あったな」
パフが小声で言う。
「お前こそだ」
ヨーグルも言い返す。
そのとき。
「こら、何をやっている」
通行人の声に、二人は飛び上がった。
振り返ると、赤いザックを背負った白髪の男性が立っている。
七〇代ほどだろうか。
穏やかな笑顔。
「君たちも、レッド・ブレスのメンバーか?」
「……まさか」
ヨーグルが言葉を失う。
「ボクが、僧侶のヨウカンだ」

待ち合わせの四時は過ぎていた。
ピラミッド前では、小学生が相変わらずスケートボードで回っている。
三人は、途切れ途切れに話していた。
「この調子じゃ、チョコも声をかけづらいかもな」
ヨーグルが呟く。
「お前みたいなおっさんがいるからだろ」
パフが吐き捨てる。
「そんな言い方をするな。ボクはみんな薄々気づいているのかと思っていたよ」
ヨウカンが笑う。
「自分も男だし、他のメンバーが同じでも不思議じゃない」
そのとき。
「結局、全員男だったんだね」
声の方を見ると、赤いスケートボードを持った少年が立っていた。
「……僕、いや私は、魔法使いのチョコ」
少年はぺろりと舌を出し、笑った。
練馬駅前広場が、ゲーム内のNPCの群れみたく止まった感じがした。

「飲みに行けない!」
ファミリーレストランの席で、パフが荒ぶって叫んでいる。
「こいつ、小学生じゃないか!」
「中三だよ!」
ムッとしてチョコが言い返す。
「高校になったら背が伸びる予定だから、見た目で決めつけないで」
ドリンクバーのコーラを一気に飲み干した。
「もう子供じゃないし」
「子供だよ!」
パフが即座に言う。
その様子を見て、ヨーグルはため息をついた。
「……そうか。全員、男だったのか」
「お前が一番落ち込んでるぞ」
パフが呆れたように言う。
ヨウカンは抹茶ババロアを食べながら、穏やかに口を挟んだ。
「ボクは、一人か二人は男かもしれないと思っていたよ。さすがに全員とは思わなかったけどね」
チョコはクリームソーダをかき混ぜながら言った。
「ゲームの中では、頼りになるお姉さんたちだと思ってたんだけどなあ」

パフが話題を切り替える。
「まあ、思い出話でもしようじゃないか」
「ドラゴンの背に乗るとき、チョコが山彦の笛を吹くアイデアはどう思いついたんだ?」
ヨウカンが尋ねる。
「あれ? 攻略サイト」
チョコはあっさり言う。
「そういうのはよくない!」
ヨウカンが顔をしかめた。
「ボクはパソコン通信時代から自分の頭で考えてだな……」
「じゃあオーブ(宝珠)集めは? 攻略サイトを見ても難しいぜ。魔物を倒して持っている奴から地味に奪っていかなければならないからな」
そう尋ねるヨーグルに、けろっとした顔でチョコは
「集めたやつから買った」
ヨーグルが身を乗り出す。
「一個六万ゴールドだろ?」
「買った」
「どうやってそんな金を?」
少し間を置いて、チョコは付け足した。
「テストで満点取ったから」
親が課金してくれたということか。
三一歳、派遣社員でシステムエンジニアを続けている自分より、チョコのほうがよっぽど自由にできる金が多いという事実に、ヨーグルは沈黙した。

「嵐が丘を越えるとき、パフが雷から守ってくれるため三日三晩踊り続けただろ。あれは頼もしかったよ」
ヨウカンの言葉に皆も頷く。
「大変だったんじゃないか?」
「特に大変じゃないよ。私は基本、家にいるからね」
パフは肩をすくめる。
「親の建てたマンションで管理人をやってる。そこでゲームをやっているから、時間の融通はきくんだ」
ヨーグルは眉をひそめる。
「それ、引きこもりじゃ……」
「違う」
即座に遮られた。
「介護もあるし、外で働く余裕がないだけだ」
「ええっ、めちゃいいじゃん」
チョコが目を輝かせる。
「僕も家でできる仕事、やりたいな」
慌ててヨーグルがたしなめる。
「いやいやいや、仕事ってそんな甘いもんじゃないぞ」
「甘いとか言うな」
パフはむっとした。
「私はそれで生きてるんだ」
ヨウカンが遠くを見ながらつぶやく。
「介護か……ボク自身が世話になることを考えなきゃならない歳なんだけどな。身体そのものより気力が減退していることを感じるんだ。今日この後、孫が……」

チョコとヨウカンは小声で話し始める。
「チョコはボクの孫と学年が同じだな」
「マジで! どう、一緒にゲームやったりする?」
「いや、そんな感じじゃないね。バスケに夢中で。ボクに似ず身体を動かすのが好きでさ」
「リア充だ〜」
盛り上がっている。

パフが何か言いかけ、やめた。
だがヨーグルは、頷いてしまった。
「俺も現実で財布忘れたとき、スライム狩ればいいかって思ったりするよ」
ヨウカンがこちらの話に入ってくる。
「どちらが自分の世界かわからなくなるときがあるんだよね」
ヨーグルは思い出す。
「そういえば魔将軍の前で、チョコが石化したとき……」
「そうそう、固まって喋らなくなってさ」
パフの相槌に、チョコが気まずそうに笑った。
「あのとき親に見つかって、ゲーム機取り上げられてた」
みんな驚いてチョコを見る。
「ゲームに戻ったら、魔王の呪いって言われてて笑った」
ぺろっと舌を出した
「笑えないよ!」
パフが叫ぶ。
「だから、僕のゲージに貯まっていたクリマを全部解放した」
チョコはあっけらかんとしている。
「究極魔法っぽくて、かっこよかったでしょ」
ヨウカンは顔をくしゃくしゃにして笑った。
「なんとかなったけど、あのときボクも生体同期が限界だったんだよ」
「時間もギリギリだよ。僕はあの日の翌日、出張だったから……」
と、ヨーグルは言いながら口を開けたまま——止まった。

ぎょっとしてその場の三人は顔を合わせた。

「おい、どうした?」
回復魔法の効果音が流れ、ヨーグルは動き出した。
「いやいや、ボーっとしただけ」
効果音らしきものは、ドリンクバーから液体が注がれる時の電子音だった。
三人、苦笑いする。
「お前の中の人が、トイレに行ったのかと思ったよ!」
「中の人なんかいない!」
「ゲームって、身体のこと忘れるぐらい熱中するからさ……」

夕方、チョコは先に帰った。
残った三人は場所を移し、終電まで話し込んだ。
別れ際。
ヨーグルは、去りゆく二人の背中に赤く光るエフェクトを見た。
それは西武池袋線のテールランプだったが、レッド・ブレスの証と同じ形をしていた。

—— おわり——