月別アーカイブ: 2025年10月

【小説】顔の潰れた子どもたち

餡太(あんた)がその地下倉庫に足を踏み入れたのは、十歳のある雨の日だった。
母親がいない間に、家の中を探検していた彼は、ふと、階段の下に続く扉を見つけた。
重たい扉を開けると、冷たい空気が足元から這い上がり、わずかな湿気が鼻をついた。
暗闇の中、彼はゆっくりと降りていった。ぼんやりとした照明の下に浮かび上がる光景——そこには、無数の死体が転がっていた。
すべて、子どもだった。
赤子から自分と同じぐらいの年の男の子たち。共通しているのは、顔が潰れていること。潰され、ひしゃげ、元の形を留めていない。目も鼻も口も、何もない。
餡太の背筋に氷が走った。
——これは、何だ?
目の前の光景を処理しきれず、思考が止まる。だが、一つの考えが頭の中で膨れ上がっていく。
お父さんとお母さんは、殺人者だ。
それしか考えられなかった。彼らは、子どもたちをここに閉じ込め、殺している。どうして?なぜ?
彼の心臓は激しく脈打ち、全身が震えた。
餡太は息を詰め、音を立てないように家の中を駆け回った。両親はどこにもいない。家は静まり返っている。
遠くでサイレンが聞こえる気がした

「ピンポーン♪」
家の呼び鈴が鳴った。
玄関を開けると、そこには警察官が立っていた。優しそうな顔の男だった。
「最中田(もなかだ)さんのお宅はこちらかな? ちょっとお父さんお母さんが帰ってくるまで待たせてもらえないかな」
餡太の脳内警報が一斉に鳴り響く。
——来た……!
ついに警察がうちの秘密を嗅ぎつけたんだ! この人たち、絶対に両親を逮捕しに来た!
まずい。どうしよう?どうしよう!?でも、僕はまだ捕まりたくない。まだ宿題も終わってないし、カレーの残りも食べてないし、なにより……
この家の秘密がバレたら、僕もやばいのでは!?
餡太は一瞬だけ迷ったが、すぐに決意する。
「こっちです!」
無邪気な顔で警察官の手を引き、地下倉庫へと案内した。警察官は、少し戸惑いながらも後に続く。
そして、餡太が倉庫の奥へと進んだ瞬間——
「え?」
警察官が足を踏み外す。
「わあああっ——!!」
ゴロゴロゴロッ、ドン。
音とともに、警察官は階段を転げ落ちた。
カチャン。
扉が閉まる。
——静寂。
かすかに、「助けて——」という声が聞こえた気がしたが、それもすぐに途切れた。
餡太は、じっと耳をすませた。
「……大丈夫かな?」
しばらくして、彼はホッと息を吐いた。
「よし」

数日後、また警察が訪ねてきた。
「最中田さんのお宅はこちらかな? ちょっとお父さんお母さんが帰ってくるまで——」
「こっちです!!」
またしても地下倉庫にご案内。
「え?ちょっと待っ——」
ドン!ゴロゴロゴロ!バタン!
何も聞こえない。……よし。
そして、それが何度も繰り返された。

テレビでは「最近、警察官の行方不明が相次いでいます」というニュースが流れ始めた。
餡太は震えた。
「僕、やばいことしちゃってる……?」
でも、今さらどうしようもない。こうなったら、もう警察官が来るたびに、地下倉庫に入ってもらうしかない。
「だって、秘密がバレたらおしまいだもん……」

ある晩のこと。
両親は静かに寝ている餡太を見つめていた。
「そろそろね」
「うん、餡太も成長したし……」
彼らは地下倉庫の扉を開けた。
すると——
そこには、警察官の死体がいくつも転がっていた。
両親はギョッとした。
「……なんだこれは?」
しかし、父が警察官の首元に手を伸ばし、カチッとスイッチを押すと——
——ガチャッ。
警察官がゆっくりと起き上がった。
「……再起動完了」
最初に家にやってきた警察官が言う。
「最中田さんのお父さん、お母さんですか? 困りますよ。お宅のお子さんが、近所の人からちょっとしたことで通報されちゃってね」
「そうなんですか!?」
「公園で遊んでいたボールがよその家に入ったとか、些細なことなんですけど……それにしても、なぜ私はここに?」
他の警察官も次々と再起動してムクリと起きあがる。
「……なんでこんなところにいるんだ?」
「それがわからないんです」
「強い衝撃で一時的に記憶が初期化されるようです」
「ここで転んだんですかね」
警察官たちはみんな首を傾げながら並んで階段を上がり、家から出ていく。
母が呆れたようにため息をつく。
「いったいなんなのよ……」
父親も憤慨する。
「近頃の警官の質が下がっていると聞くが、整理不良すぎるだろ!」

そして両親は、まだ眠っている餡太を地下倉庫の冷たい床に横たえて見下ろす。
「餡太も成長したし……そろそろ新しい身体に替える時ね」
母は工具を手に取る。父がゆっくりと息を吐く。
「顔を潰して電子脳を取り出そうか」
母が小さく笑う。
「成長期だからボディ交換が頻繁で、お金がかかって仕方ないわ」
——バキッ。

翌朝。
「ピンポーン♪」
新しい体の餡太が目を覚ました。
玄関のドアの向こうには、警察官が立っていた。
「最中田さんのお宅はこちらかな? ちょっとお父さんお母さんが帰ってくるまで——」
餡太はニコッと笑った。
「こっちです!」

——おわり——

【小説】燃え尽きる空

「夕日が赤いのは、太陽の血が地平線に落ちるから」
そんな噂をどこかで聞いたことがあった。
まだ幼かったバニ雄は、それを真実だと信じていた。
夕焼けが染める空を見るたび、彼は追いかけて精一杯走った。
西へ西へ、沈みゆく太陽を追いかける。
しかし、どれだけ走っても、太陽は彼の目の前で地平線の向こうへと消えてしまう。

小学生になったバニ雄は、放課後になると自転車を飛ばし、いつもの坂道を駆け下りた。
風が頬をなで、耳元でざわめく。
田んぼのあぜ道を抜け、木々の間をくぐり抜ける。
金色に染まった景色の中で、彼の心は高鳴った。
「今日こそ、太陽が沈むところを見届けるんだ!」
夕暮れの光を追いかけ、彼は全力でペダルを踏み込んだ。
けれど、太陽はあまりにも早く地平線へと滑り落ちていく。
西の空に広がる赤の余韻を残し、やがて星が瞬き始める。
いつも途中で日が暮れてしまう。

ある日、彼は自転車を漕ぎ続け、ついに県境をまたぐ雄大な橋にたどり着いた。
そこで彼は驚いた。
橋の向こう、都会のビルの群れの間を縫うように、太陽が沈んでいく。
しかし、その動きが奇妙だった。
太陽がおののくように脈動しながら、建物に刺さることを避け、隙間にむかって滑りこむように見えたのだ。
「落ちるのを避けている……?」
彼は思わず呟いた。
ビルのシルエットの凹んでいる部分に、粘度の高い液体の雫のようにつるんと太陽は落ち、そのまま下に滲んで消えていった。
ビルのガラス窓に赤い光が反射し、川面が炎のように揺れている。
その景色を、バニ雄はしばらく立ち尽くして眺めた。
街は騒がしく、車のクラクションが遠くで響く。
しかし、その喧騒の中で、彼は一人だけ違う世界にいるような気がした。
「今日もダメだったな……」
悔しさと、ほんの少しの切なさを胸に、バニ雄はゆっくりと家へと戻っていった。
彼の瞳にはまだ、夕焼けの名残が映っていた。
それでも、彼は諦めなかった。

やがて少年は成長し、バイクの免許を取った。
今度こそ間に合うかもしれない——そう信じ、彼はエンジンを吹かし、夕焼けの中を疾走した。
燃えるような赤い光が、彼を導くかのように伸びている。
彼はアクセルを回しながら、風を切る音とエンジンの鼓動を感じた。
夕日の光はまるで燃え盛る炎の道となり、彼の前に延びているようだった。
長い道を走り抜けるうち、街の喧騒が後方へ遠ざかり、郊外の風景が広がる。
橋を渡ると、川面が赤く染まり、まるで血の流れのように見えた。
川の向こうには、小さな村があり、子供たちが夕焼けに向かって駆け回っている。
その無邪気な声が、彼の記憶の奥底を揺さぶった。
さらに進むと、舗装されていない道に入り、周囲は徐々に荒れ果てた風景へと変わっていく。
木々が減り、岩だらけの地面がむき出しになり、遠くには草も生えない乾いた大地が広がっていた。
気づけば、彼は荒涼とした大地の真ん中に立っていた。

そこで彼は見た——地平線の果てに横たわる、巨大な輝く気球のような太陽の姿を。
それはまるで、膨らみすぎた熱気球のようだった。
かつて空を誇らしげに漂っていたのに、今は急速にしぼみかけていた。
「殺してくれ……いっそ殺してくれ……」
その声は、大地の底から響くような、かすれた嗄れ声だった。
周囲は赤熱した太陽の血が滲んで真っ赤だ。
倒れかけた木の小屋から、風に吹かれて歩いていた行商人が、岩陰の遺跡から近隣の人々が、皆その姿を見て、静かに涙を流した。
「……かわいそうになあ」
誰かがそう呟いた。
やがて、バニ雄は先の尖った棒を、沈みかけた太陽へと向ける。そして——
「ありがとう……」
その最後の言葉とともに、太陽は静かに息を引き取った。
穴の空いた箇所から、熱い血が噴き出し、ゆっくりと縮んでいった。
最後に残った皮が血とともに地面に染み入るように消えていき、夜の帳が荒野を覆った。
バニ雄は、太陽を見送った人々とともに、焚き火を囲みながら朝まで語り合った。
永遠に近い過去から、ずっと繰り返されてきたであろうこの営みに思いを馳せて。

夜が明けた。
東の空が微かに朱を帯び、やがて新たな太陽が昇り始める。
バニ雄はその光をじっと見つめながら、静かに息を吸った。
自分の手のひらを見つめる。
熱い太陽の血はもうそこにはない。だが、その熱はまだ残っている気がする。
「次は、どこへ行けばいいんだろうな……」
彼はエンジンをかけると、まだ誰も知らない道へとゆっくりとバイクを走らせた。
金色に輝く地平線の向こう、まだ見ぬ景色を求め——

——おわり——

【小説】伊恵寿(いえす)の奇跡

関東の海辺の町に、湯の煙が立ちのぼる温泉街があった。
海鳴りは絶えず、浜風は塩を運び、軒先には古い木札が揺れ、「い〜い湯だや♪」の歌が昼も夜も響いていた。

その町に、大工の那麗(なざれ)の家があり、その家の子として伊恵寿(いえす)は生まれた。
彼は幼きころより穏やかで、人を笑わせ、人の悲しみを軽くすることを好んだ。
手のひらから湯気の立つパンを出したり、わずかな魚を一瞬で山盛りに増やしたり、さらには湖の水面を平然と歩いてみせる伊恵寿の「手品」は、どう見ても普通ではなかった。
人々は驚き、子供たちは歓声を上げた。

「伊恵寿、お前の手品すげえな!」
税務署員の息子真鯛之助(またいのすけ)は叫び、
「俺はこいつに弟子入りする!」
瓶手郎(ぺてろ)は膝を叩く。
枕田(まくらだ)の麻莉亜(まりあ)は微笑み、
「本当にすごいよね! 神さまのような力を持っているのかしら」
と感嘆の声を漏らすと、子門(しもん)も
「そうだよ! 救世主とかさ!」
と茶化す。
伊恵寿は笑って首を振った。
「救世主なんて大げさ! ただの大工の息子さ。湯気が立つのも、魚が群れるのも、自然の働きなんだよ」
彼の声は柔らかく、海辺に響く波音のようであった。

だが、椅子借桶(いすかりおけ)の雄太(ゆだ)だけは、その様子を遠巻きに見つめるだけだった。
「あれは、ただの手品ではないぞ……」
彼だけは心の奥底にわだかまりを抱えていた。

   *   *   *

夏の終わりに、記録的な台風が近づいた。
海は黒く泡立ち、港の防波堤を越えて波が打ちつけた。
風は瓦を飛ばし、看板を折り、「い〜い湯だや♪」の音楽も、ちぎれたテープのように途切れ途切れになった。
港に集まった若者たちは、荒れ狂う波を見ながら興奮していた。
「嵐の海で釣りしたら、きっと大物が釣れるぞ!」
誰かが叫び、笑いが起きた。
雄太は止めようとした。
「やめろ! これは洒落にならない。死ぬぞ!」
だが、誰も聞かなかった。

そのとき、伊恵寿がすっと前に出た。
彼は濡れた髪をかき上げ、空を仰いで言った。
「静まれ」
その声は風よりも強く、嵐の音を押し返した。
海はたちまち凪ぎ、波のうねりは消え、厚い雲が裂けて光が降り注いだ。
浜辺に集まった者たちは息をのんだ。
太陽の光は金の矢のように海面を射し、白い泡が光を受けてきらめいた。
人々は歓声を上げたが、それは恐れではなく、笑いに似ていた。
「また手品だ!」
「やるな、伊恵寿!」
誰もそれを奇跡とは呼ばなかった。
ただの見世物。湯けむりと同じ、一瞬で消える幻想。

しかし、雄太だけは、その光景を見つめながら凍りついていた。
「これは……手品なんかじゃない」

伊恵寿は雄太の方を振り向いた。
潮風に髪をなびかせ、まるで何もなかったかのように笑い、手を振った。
雄太の胸に、言葉にならない熱が宿った。
羨望、恐れ、そして——疑い。
「なぜだ?」
「奇跡が奇跡であることを、なぜみんな気づかない?」
風が再び吹き始め、海はいつもの姿に戻った。
嵐は去ったが、雄太の心には、嵐が残ったままだった。
「伊恵寿はその沈黙の裏に、何を抱えている?」と。

   *   *   *

日が経つごとに、伊恵寿の名は町のあちこちで語られた。
「魚を増やす若者」「湯けむりの魔法師」「海を鎮めた男」。
その呼び名は誇張され、笑い話として広まった。
しかし、彼を慕う者たちが増えていったのも事実だ。
彼らはいつしか「十二使徒」と呼ばれるようになった。

彼らの住む温泉街は数年前、平成の大合併によって驢馬(ろうま)市に組み込まれていた。
効率化という名のもとに、公民館も図書館も学校も次々と統廃合され、人が集まる場所が消えていった。
湯の町は地図の上では一地区にすぎなくなり、観光客は減り、灯りは減り、声も減った。

「十二使徒」を中心に、温泉街の若者たちは、長いあいだ湯けむりの下で眠っていた町に、もう一度新しい息を吹き込もうとしていた。
「この町を変えよう」
彼らは浜辺に集まり、古い演歌調の「い〜い湯だや♪」をジャズに編み直し、波音をリズムに即興の演奏を始めた。
笑い声が湯けむりに混じり、久しぶりに町に音が戻った。

夏には手づくりの音楽祭を開き、地元の食堂や旅館を回って協力を求めた。
「観光客に頼らず、自分たちでこの町を立て直したいんです」
若者たちの声は真剣だった。
「い〜い湯だや♪」を歌う伊恵寿の歌声が響く。
その声を聞くと病気が癒やされる、という不思議な噂が立った。
歌声は静かに熱を帯び、湯けむりの向こうに見える海が、彼らの熱を映すようにゆらゆらと銀の光を返した。
彼らは最終的に驢馬(ろうま)市からの独立を目指していた。

だが、組合の古老たちは怒った。
古びた旅館の座敷で、組合の重鎮たちは湯呑を置き、伊恵寿を呼びつけた。

「お前のやっていることは何だ」
「手品や音楽で若者を煽ってどうする」
「湯守の掟を忘れたのか」

伊恵寿は静かに座り、頭を下げた。
「みんなに笑ってほしいだけなんです。湯の町が、また賑やかになればそれで」
だが、古老たちは聞かなかった。
平成の大合併から長く経ち、彼らはすでに驢馬の富裕層と癒着関係にあった。
もう引き返せない。
伊恵寿は責め立てられた。
「お前は湯の秩序を乱す者。若者を惑わせる者だ」
古老たちは机を叩き、怒声を浴びせた。

後ろで瓶手郎がつぶやいた。
「これじゃまるでムチ打ち刑だよ……」

鶏が三度鳴く時刻。
会は散り、人々は湯けむりの夜道を黙って帰った。
伊恵寿と雄太だけが残り、海へと続く坂道を歩いていた。

「みんな、お前がこの町を変えてくれると信じてる」
「そんな大層なもんじゃないよ。僕はただ、大工の息子だから」
「でもさ……お前には、何かある」
雄太の目には、かすかな怒りと祈りが混ざっていた。
「お前のパンは湯気を立て、お前の魚は増える。お前の足は水の上を歩く。それを奇跡と呼ばずに何と呼ぶ?」
伊恵寿は肩をすくめた。
「奇跡を見たいなら、湯気を見上げたらいい。誰もが見たいものだけを信じるのさ」
しかし、雄太は追及をやめなかった。
「そういうことじゃない! お前、本当は手品じゃなく——」

十字路に差しかかったそのとき、背後から車のクラクションが鳴り響いた。
猛スピードで突っ込んできた車は、雄太の目の前で伊恵寿をはね飛ばした。
伊恵寿の体は宙を舞い、地面に叩きつけられた。
即死だった。

   *   *   *

伊恵寿の死は、湯の町に重い影を落とした。
港の風は止み、潮騒は喪のように低く響いた。

「雄太が……裏切ったんじゃないか?」
誰かがつぶやいた。
その声は湯けむりのように町中に広がった。
「だって、あの夜、二人きりだったんだろ」
「伊恵寿は、雄太を信じてたのに……」
雄太は否定した。
「俺は何もしてない! ただ隣にいただけだ!」
だが、瓶手郎も真鯛之助も目をそらした。
麻莉亜は泣きもせず、子門は煙草をくわえたまま言った。
「人は奇跡より噂を信じるもんだよ」

それから三日が過ぎた。
台風は遠くに去り、海は再び静まりかえった。
だが、人々の心には、まだ嵐が吹き荒れていた。
三日目の朝、町の火葬場には伊恵寿の棺が運ばれた。
組合の長老も、若者たちも、みな白い喪服に身を包み、黙って列をなした。

   *   *   *

火葬炉の扉が閉まると、鈍い音を立てて炎が灯った。
湯気と煙がゆっくりと上昇し、天井の換気口から外へと流れた。
そのとき、誰もが忘れられない声を聞いた。

「うう〜! あつい〜! 助けてくれ〜!」

職員たちは凍りついた。
炉の温度は千度を超えている。
中に、生きた声があるはずがない。
瓶手郎が叫んだ。
「伊恵寿……なのか?」
「嘘だろ……復活したのか?」
麻莉亜は口を押さえ、雄太は震える声でつぶやいた。
「……やっぱり、奇跡なんだ」
声は続いた。

「あつい〜! もうダメだ〜!」

炎が唸り、鉄が鳴り、やがて声は途絶えた。
炉が冷え、扉が開かれたとき、そこに残っていたのは白い骨だった。
それは、奇妙なことに十字架に貼り付けられたかのようなポーズをしていた。

沈黙が落ちた。

瓶手郎は言った。
「これ……最後の大手品じゃないか?」
自分を納得させるように、真鯛之助はがくがくと首を振った。
「伊恵寿らしいよな。最後まで人を驚かせる」
麻莉亜は微笑み、子門は肩をすくめた。
「自分の死まで笑いに変える。ホント、すごい奴だ」
火葬場の外では、セミが鳴いていた。
その声はまるで、空に昇る湯気のように淡く消えていった。

   *   *   *

帰り途、「十二使徒」全員で肩を並べて海沿いの道を歩いた。
月が波間を照らし、白い光が漂っていた。
「もし、あいつが本当に救世主だったなら……俺たちは、ひどいことをしたんじゃないか?」
雄太の問いかけに誰も答えなかった。
温泉の排気塔から、ふわりと湯気が上がり、月光の中に溶けていった。
雄太は顔を上げた。
夜空には雲の裂け目があり、その向こうに星が瞬いていた。
「信じないってのは……あいつにとって、一番つらかったんじゃないか?」
黙して語るものは誰もなかった。

翌朝、湯の町は何事もなかったように目を覚ました。
「い〜い湯だや♪」の音楽がまた流れ、湯けむりは穏やかに空へと昇った。

人々は言った。
「昨日は嵐もなかったし、火葬も無事終わった」
「やっぱり、伊恵寿はいい奴だったな」
「最後まで笑わせてくれた」

そうして、誰も奇跡を語らなかった。
ただ「あいつはたいした手品師だった」
と笑いながら、温泉まんじゅうを頬張った。

——おわり——

【小説】わんこそば殺人事件

夕闇が山々の間に沈み、冷たい冬の風が村を吹き抜ける頃。
岩手の小さな町の商店街で、一つの奇妙で不気味な歌が響き渡っていた。
その歌声の主は、赤い帽子を被った幼い子供たち——地元の幼稚園の帰り道だろうか、五人ほどの小さな群れが、手を繋ぎながら歌を口ずさんでいる。

そばをたべたら 死んじまう
ひとつたべたら もうひとつ
おわらぬそばに 手を出せば
ころりころりと 地獄ゆき

歌声が消えたあと、寒々しい沈黙が町に広がった。
誰もその意味を深く考えようとはしなかったが、その夜、「椀屋」で起こった悲劇が、この歌と不気味なほど符合することになるとは、まだ誰も知らなかった。

冬の寒空の下、岩手の蕎麦の名店「椀屋」では、悲劇的な事件が起こった。
——青年・最中玄(もなか げん)が、わんこそばを食べている最中に倒れ、そのまま命を落としたのだ。
玄の身体はテーブルに伏し、辺りには二〇〇杯の蕎麦の器が散らばっていた。
店の女将や客たちはその異様な光景に震え、声を失った。
「これは明らかに殺人だ!」
冷たい声でそう断言したのは、栗田金之助(くりた きんのすけ)、この町で知らぬ者はいない名探偵だった。
金之助の推理は鋭く、これまで幾多の難事件を解決してきた。
その彼が「殺人」と断じたのだ——誰も逆らうことなどできなかった。

店内は殺人事件の現場となり、警察も駆けつけていた。玄の死因を巡る捜査が始まる中、金之助は冷静な視線を辺りに走らせた。
やがて目を止めたのは玄の隣に座っていた女性——和三蜜かなえ(わさんみつ かなえ)だった。
彼女は玄の恋人だったという。
美しく上品な佇まいだが、どこか不自然なまでに冷静な表情が、金之助の疑念を煽った。
「和三蜜かなえさん、少しお話を伺いたい」
金之助の声に、かなえの身体が僅かに震えた。

玄はその夜、恋人であるかなえと共に「椀屋」を訪れていた。
彼らは最近付き合い始めたばかりの仲だが、玄は不安げな様子で言葉少なに蕎麦を啜っていたという。
蕎麦を入れる店員の証言によると、玄が突然食べる速度を上げ始めたのは、かなえが耳元でなにか囁いてからだった。
金之助は言う。
「最中玄がこのような無茶をしたのは、あなたの一言が原因だ。何を言ったのか話していただけますか!?」

「あなた、本当に食が細いのね…」

「私はそう言っただけなんです、それでどうして彼がそんな行動をとったのか私には理解ができません」
かなえは目を合わせずに言う。
取調室のように緊張感のある「椀屋」の中で、金之助はじっとかなえを見つめていた。彼女は椅子に腰掛け、唇を噛みしめながら俯いている。
「どうやら、あなたには何か隠していることがあるようですね」
「そ、そんなことありません…!」
「ではなぜ、あなたは最中玄君に対し、わんこそばを無理に食べさせるよう仕向けたのですか?」
「私は…ただ、楽しい時間を過ごしたかっただけで…」
金之助は鋭い目を光らせた。
「いいえ。あなたは自分が『大食いチャンピオン』であったことを隠し、その上で玄君を試すように追い詰めたのではありませんか? 彼の少食が気に入らず、無理をさせた挙句に命を落とさせた——これが事実でしょう」

かなえの顔が真っ青になり、彼女の唇から震える声が漏れた。
「ど、どうしてそれを…!」
「ふむ、あなたがテレビ番組でチャンピオンになった映像を偶然目にしたことがあるのですよ。そして、町の人々からも噂を聞きました。あなたは大食いの過去を恥じ、隠そうとしていた。しかし、今夜の出来事でその秘密が露呈したのです」
金之助の声は冷たく、彼の言葉は鋭い刃となってかなえの心を抉った。

かなえは観念したように全てを語り始めた。
「そうです、私はかつて大食いチャンピオンでした。でも、その過去が恥ずかしくて……玄には絶対に知られたくなかったんです」
かなえは今日三〇〇杯でも腹八分目だった。
「玄はそのことを知らないなりに何か思うところがあったんでしょう。私も彼の少食がどうしても耐えられなかった。それで少しでも私に近づいて欲しいと思って、ついあんなことを言ってしまった……決して無理をさせようと、ましてや殺そうと思ったわけではありません!!」
「なるほど。そこでかけた言葉が、結果として彼が命を落とす原因となった……」
「椀屋」は沈黙に包まれた。

「玄は、私に愛されようとして無理をしたんです! 私が大食いだったなんて知らずに……でも、それを言えなくて……結局彼を追い詰めてしまった…」
「かなえさん、あなたは罪を犯したわけではない。そして玄君もまたあなたに愛されたい一心で無理をした」
泣き崩れるかなえを見ながら金之助はうなずいた。
「これは愛が引き起こした悲劇だ」

「椀屋」の外に出ると、どこからともなく子供たちの歌声が響いた。

そばをたべたら 死んじまう
百のわんこで 骨になる……

金之助はその声を聞きながら、冷たい冬の夜道を一人歩き出した。

—— おわり——