日別アーカイブ: 2025年10月12日

【小説】燃え尽きる空

「夕日が赤いのは、太陽の血が地平線に落ちるから」
そんな噂をどこかで聞いたことがあった。
まだ幼かったバニ雄は、それを真実だと信じていた。
夕焼けが染める空を見るたび、彼は追いかけて精一杯走った。
西へ西へ、沈みゆく太陽を追いかける。
しかし、どれだけ走っても、太陽は彼の目の前で地平線の向こうへと消えてしまう。

小学生になったバニ雄は、放課後になると自転車を飛ばし、いつもの坂道を駆け下りた。
風が頬をなで、耳元でざわめく。
田んぼのあぜ道を抜け、木々の間をくぐり抜ける。
金色に染まった景色の中で、彼の心は高鳴った。
「今日こそ、太陽が沈むところを見届けるんだ!」
夕暮れの光を追いかけ、彼は全力でペダルを踏み込んだ。
けれど、太陽はあまりにも早く地平線へと滑り落ちていく。
西の空に広がる赤の余韻を残し、やがて星が瞬き始める。
いつも途中で日が暮れてしまう。

ある日、彼は自転車を漕ぎ続け、ついに県境をまたぐ雄大な橋にたどり着いた。
そこで彼は驚いた。
橋の向こう、都会のビルの群れの間を縫うように、太陽が沈んでいく。
しかし、その動きが奇妙だった。
太陽がおののくように脈動しながら、建物に刺さることを避け、隙間にむかって滑りこむように見えたのだ。
「落ちるのを避けている……?」
彼は思わず呟いた。
ビルのシルエットの凹んでいる部分に、粘度の高い液体の雫のようにつるんと太陽は落ち、そのまま下に滲んで消えていった。
ビルのガラス窓に赤い光が反射し、川面が炎のように揺れている。
その景色を、バニ雄はしばらく立ち尽くして眺めた。
街は騒がしく、車のクラクションが遠くで響く。
しかし、その喧騒の中で、彼は一人だけ違う世界にいるような気がした。
「今日もダメだったな……」
悔しさと、ほんの少しの切なさを胸に、バニ雄はゆっくりと家へと戻っていった。
彼の瞳にはまだ、夕焼けの名残が映っていた。
それでも、彼は諦めなかった。

やがて少年は成長し、バイクの免許を取った。
今度こそ間に合うかもしれない——そう信じ、彼はエンジンを吹かし、夕焼けの中を疾走した。
燃えるような赤い光が、彼を導くかのように伸びている。
彼はアクセルを回しながら、風を切る音とエンジンの鼓動を感じた。
夕日の光はまるで燃え盛る炎の道となり、彼の前に延びているようだった。
長い道を走り抜けるうち、街の喧騒が後方へ遠ざかり、郊外の風景が広がる。
橋を渡ると、川面が赤く染まり、まるで血の流れのように見えた。
川の向こうには、小さな村があり、子供たちが夕焼けに向かって駆け回っている。
その無邪気な声が、彼の記憶の奥底を揺さぶった。
さらに進むと、舗装されていない道に入り、周囲は徐々に荒れ果てた風景へと変わっていく。
木々が減り、岩だらけの地面がむき出しになり、遠くには草も生えない乾いた大地が広がっていた。
気づけば、彼は荒涼とした大地の真ん中に立っていた。

そこで彼は見た——地平線の果てに横たわる、巨大な輝く気球のような太陽の姿を。
それはまるで、膨らみすぎた熱気球のようだった。
かつて空を誇らしげに漂っていたのに、今は急速にしぼみかけていた。
「殺してくれ……いっそ殺してくれ……」
その声は、大地の底から響くような、かすれた嗄れ声だった。
周囲は赤熱した太陽の血が滲んで真っ赤だ。
倒れかけた木の小屋から、風に吹かれて歩いていた行商人が、岩陰の遺跡から近隣の人々が、皆その姿を見て、静かに涙を流した。
「……かわいそうになあ」
誰かがそう呟いた。
やがて、バニ雄は先の尖った棒を、沈みかけた太陽へと向ける。そして——
「ありがとう……」
その最後の言葉とともに、太陽は静かに息を引き取った。
穴の空いた箇所から、熱い血が噴き出し、ゆっくりと縮んでいった。
最後に残った皮が血とともに地面に染み入るように消えていき、夜の帳が荒野を覆った。
バニ雄は、太陽を見送った人々とともに、焚き火を囲みながら朝まで語り合った。
永遠に近い過去から、ずっと繰り返されてきたであろうこの営みに思いを馳せて。

夜が明けた。
東の空が微かに朱を帯び、やがて新たな太陽が昇り始める。
バニ雄はその光をじっと見つめながら、静かに息を吸った。
自分の手のひらを見つめる。
熱い太陽の血はもうそこにはない。だが、その熱はまだ残っている気がする。
「次は、どこへ行けばいいんだろうな……」
彼はエンジンをかけると、まだ誰も知らない道へとゆっくりとバイクを走らせた。
金色に輝く地平線の向こう、まだ見ぬ景色を求め——

——おわり——