夕闇が山々の間に沈み、冷たい冬の風が村を吹き抜ける頃。
岩手の小さな町の商店街で、一つの奇妙で不気味な歌が響き渡っていた。
その歌声の主は、赤い帽子を被った幼い子供たち——地元の幼稚園の帰り道だろうか、五人ほどの小さな群れが、手を繋ぎながら歌を口ずさんでいる。
そばをたべたら 死んじまう
ひとつたべたら もうひとつ
おわらぬそばに 手を出せば
ころりころりと 地獄ゆき
歌声が消えたあと、寒々しい沈黙が町に広がった。
誰もその意味を深く考えようとはしなかったが、その夜、「椀屋」で起こった悲劇が、この歌と不気味なほど符合することになるとは、まだ誰も知らなかった。
冬の寒空の下、岩手の蕎麦の名店「椀屋」では、悲劇的な事件が起こった。
——青年・最中玄(もなか げん)が、わんこそばを食べている最中に倒れ、そのまま命を落としたのだ。
玄の身体はテーブルに伏し、辺りには二〇〇杯の蕎麦の器が散らばっていた。
店の女将や客たちはその異様な光景に震え、声を失った。
「これは明らかに殺人だ!」
冷たい声でそう断言したのは、栗田金之助(くりた きんのすけ)、この町で知らぬ者はいない名探偵だった。
金之助の推理は鋭く、これまで幾多の難事件を解決してきた。
その彼が「殺人」と断じたのだ——誰も逆らうことなどできなかった。
店内は殺人事件の現場となり、警察も駆けつけていた。玄の死因を巡る捜査が始まる中、金之助は冷静な視線を辺りに走らせた。
やがて目を止めたのは玄の隣に座っていた女性——和三蜜かなえ(わさんみつ かなえ)だった。
彼女は玄の恋人だったという。
美しく上品な佇まいだが、どこか不自然なまでに冷静な表情が、金之助の疑念を煽った。
「和三蜜かなえさん、少しお話を伺いたい」
金之助の声に、かなえの身体が僅かに震えた。
玄はその夜、恋人であるかなえと共に「椀屋」を訪れていた。
彼らは最近付き合い始めたばかりの仲だが、玄は不安げな様子で言葉少なに蕎麦を啜っていたという。
蕎麦を入れる店員の証言によると、玄が突然食べる速度を上げ始めたのは、かなえが耳元でなにか囁いてからだった。
金之助は言う。
「最中玄がこのような無茶をしたのは、あなたの一言が原因だ。何を言ったのか話していただけますか!?」
「あなた、本当に食が細いのね…」
「私はそう言っただけなんです、それでどうして彼がそんな行動をとったのか私には理解ができません」
かなえは目を合わせずに言う。
取調室のように緊張感のある「椀屋」の中で、金之助はじっとかなえを見つめていた。彼女は椅子に腰掛け、唇を噛みしめながら俯いている。
「どうやら、あなたには何か隠していることがあるようですね」
「そ、そんなことありません…!」
「ではなぜ、あなたは最中玄君に対し、わんこそばを無理に食べさせるよう仕向けたのですか?」
「私は…ただ、楽しい時間を過ごしたかっただけで…」
金之助は鋭い目を光らせた。
「いいえ。あなたは自分が『大食いチャンピオン』であったことを隠し、その上で玄君を試すように追い詰めたのではありませんか? 彼の少食が気に入らず、無理をさせた挙句に命を落とさせた——これが事実でしょう」
かなえの顔が真っ青になり、彼女の唇から震える声が漏れた。
「ど、どうしてそれを…!」
「ふむ、あなたがテレビ番組でチャンピオンになった映像を偶然目にしたことがあるのですよ。そして、町の人々からも噂を聞きました。あなたは大食いの過去を恥じ、隠そうとしていた。しかし、今夜の出来事でその秘密が露呈したのです」
金之助の声は冷たく、彼の言葉は鋭い刃となってかなえの心を抉った。
かなえは観念したように全てを語り始めた。
「そうです、私はかつて大食いチャンピオンでした。でも、その過去が恥ずかしくて……玄には絶対に知られたくなかったんです」
かなえは今日三〇〇杯でも腹八分目だった。
「玄はそのことを知らないなりに何か思うところがあったんでしょう。私も彼の少食がどうしても耐えられなかった。それで少しでも私に近づいて欲しいと思って、ついあんなことを言ってしまった……決して無理をさせようと、ましてや殺そうと思ったわけではありません!!」
「なるほど。そこでかけた言葉が、結果として彼が命を落とす原因となった……」
「椀屋」は沈黙に包まれた。
「玄は、私に愛されようとして無理をしたんです! 私が大食いだったなんて知らずに……でも、それを言えなくて……結局彼を追い詰めてしまった…」
「かなえさん、あなたは罪を犯したわけではない。そして玄君もまたあなたに愛されたい一心で無理をした」
泣き崩れるかなえを見ながら金之助はうなずいた。
「これは愛が引き起こした悲劇だ」
「椀屋」の外に出ると、どこからともなく子供たちの歌声が響いた。
そばをたべたら 死んじまう
百のわんこで 骨になる……
金之助はその声を聞きながら、冷たい冬の夜道を一人歩き出した。
—— おわり——
