甘志(あまし)と酢吉郎(すきちろう)は、近所のカフェの隅の席が定位置になっていた。今日もそこに腰を下ろし、取りとめのない話を始めている。
甘志は、手に触れた本はとりあえず最後まで読み切らないと気がすまない読書家だった。
酢吉郎は、その逆側にいる。
「活字を見ると眠くなるんだよね」
と笑う酢吉郎に、甘志は今日も本について語りかける。
「本ってさ、何冊読んだかじゃないんだ。同じ一冊を飽きるまで読み返すと、ある瞬間から物語が違って見えてくるんだよ」
甘志の言葉に、酢吉郎は目を細めた。
「それは何かの比喩か?」
「いや、比喩じゃない。本当に変わるんだ」
「どういうこと?」
「例えばさ、スタージョンの『夢見る宝石』って小説があるんだけど、紙が擦り切れるくらい読んでるやつ」
甘志はバッグからよく読み込まれた本を取り出した。
「本当なら途中で死ぬはずのハバナがさ、一回だけ、最後まで生き延びていたことがある」
酢吉郎は思わず笑った。
「ただ読み間違えたとかじゃなくて?」
「そうじゃない。何百回も読んで確認したんだ。ときどき、登場人物の運命が変わる」
「違う話になるじゃん!」
「そう、違う話になるんだよ」
「桃太郎だって読んでたら一度、鬼と仲良くなったことだってあるぜ」
甘志の真剣な表情に、酢吉郎は驚いた。
いつもの冗談ではなさそうだ。
こいつ、ちょっとおかしくなった?
「俺は歴史小説も好きなんだけど〜」
甘志が続けると、
「それも変わるのか?」
「その通り!」
甘志は、待ってましたとばかりにカバンから別の文庫本を取り出した。司馬遼太郎『国盗物語』だ。
「例えば、この本を何度も何度も読む。数百回も繰り返していると、あるとき内容が変わることがある。織田信長が明智光秀に裏切られる展開になっていたことだってある」
酢吉郎は半信半疑の顔をしながらも少し興味が湧いてきた。
「それで?」
「まあ、それだけだけど」
「それってさ、本の中だけじゃ済まないだろ。歴史そのものが変わるってことになる」
酢吉郎は口先を尖らせた。
「そう。歴史そのものが書き換わる。けどさ、最初からその世界にいる人間には、まずわからない。今だって、そうかもしれない」
甘志が窓の外を指す。酢吉郎は首をふる。
「変わってるようには見えないけどなあ」
「俺は何百度も読んで、違和感に幾度となく襲われたから世界はきっと随分と書き換えられているのさ」
「う〜ん、誰かが読むたびに世界が……」
と、甘志はニヤリと笑った。
「どうだい? そんな事を考えながら本を読むのも悪くないだろ?」
甘志は微笑みながらコーヒーを飲んだ。酢吉郎は少し考え込みながら言った。
「まあ、たまには読んでみてもいいかもな」
「で、織田信長が明智光秀に裏切られる世界線ってどうなんだろうな」
「俺が読んだときは、部下の羽柴秀吉が天下を統一する展開だった」
「いやそれはないだろ、信長だって跡継ぎがいるんだし……」
実際、ここは織田信長が明智光秀に裏切られず、そのまま日本を越えてユーラシアを統一した世界線だった。
カフェの外では、玉ねぎ形の屋根を載せた派手なロシア風建築が通りを挟んで並び、そのあいだを、刺繍入りの衣服や毛皮の帽子を身に着けた人々が行き交っている。
世界の方が何度も書き換えられていることに気づかないまま、二人はいつものようにコーヒーを前におしゃべりを続けていた。
—— おわり——
