【小説】メダカスイッチ

大学の一角に、小さな水槽が並ぶ研究室があった。
そこではメダカの神経細胞を研究する若き学者・八ツ橋十郎(やつはしじゅうろう)が、日々メダカたちを観察していた。
彼には、特別に愛する一匹のメダカがいた。
白い体に淡い青の模様が輝くメダカ——「ふなんしぇ」。

「ふなんしぇ……君は僕の声がわかるのかい?」
八ツ橋は顕微鏡をのぞき込みながら、そっと声をかけた。
意識は特定の領域にあるのではなく、脳細胞の結びつきによって決まる。
脳の量や神経細胞の密度が意識の有無を左右するので、ネズミや爬虫類だけでなく、昆虫ですら意識を持つ可能性があるという。
メダカの大脳辺縁系に類する領域の神経活動を調べることで、彼らが本能的な行動だけでなく、ある程度の認知を持つことが示された。
メダカもまた、小さな脳の中で何かを「感じている」のだ。

彼の研究は、東京大学を含む研究グループが発表した「恋のスイッチ」と呼ばれる神経細胞の存在に基づいていた。
メダカの脳内で特定のニューロンが活性化すると、異性に対する行動が変化することを示した研究だった。
彼は、この「恋のスイッチ」の働きを応用し、ふなんしぇが自分を好きになるように仕向けようと考えた。

「もし、そのスイッチを押せば……ふなんしぇは僕を愛する?」
研究室の同僚であるウエハ坂削也(うえはざかさくや)が、それを聞いて深いため息をついた。
「八ツ橋、それは違うだろう。恋愛ってのは、操作するものじゃない!」
その言葉が、八ツ橋の胸に深く刺さった。

彼は気づいた。
愛は操作するものではなく、育てるものだ。
それから八ツ橋は、ふなんしぇにまっすぐ向き合うことを決めた。
毎日、彼女が好むエサを選び、心を込めて話しかけた。
メダカが最も好む青色の背景を用意し、彼女が快適に過ごせる環境を整えた。

変化が起こった。
八ツ橋が話しかけると、ふなんしぇはいつも何か言いたげにヒレを揺らし、じっと彼を見つめるようになった。
あるとき、ふなんしぇは急に活発に泳ぎ出し、水面まで浮かんで、必死に尾びれを振った。
「こいつ、お前に何か言いたいんじゃないのか?」
それを背後から見ていたウエハ坂が言う。
八ツ橋は顔をほころばせた。
その反応を「自分への愛情」だと確信し、彼はさらに研究を進めた。
「メダカの脳の信号を直接解析して、僕たちが会話できたら……」
メダカの脳を解析し、神経細胞の動きを調べることで「メダカ語」を解読しようとした。
八ツ橋は最新の神経科学技術を応用し、メダカの脳の活動を翻訳するプログラムを作り始めた。

ある日、八ツ橋は研究室の外へ出る際、小さな金魚鉢にふなんしぇを移すようになった。
そっと肩にのせ、大学構内を歩く——まるで恋人とデートをするかのように。
この珍妙な光景は次第にキャンパス中で噂になった。
それを笑う者もいたが、ウエハ坂は彼らに向かって毅然と言った。
「純粋な愛に満ちた二人を笑う奴のほうがおかしい!」
青空の下、八ツ橋とふなんしぇの関係はさらに深まっていった。

八ツ橋は、メダカの脳の活動パターンを人間のそれと照らし合わせ、言葉として表現できないかと試行錯誤を続けていた。
ある日、その実験の最中に、異変が起こる。
『……ヤツハシ?』
日本語に変換された人工的な女性の声が研究室に響いた。
金魚鉢の中のふなんしぇが、彼の名を呼んだのだ。

ふなんしぇはゆっくりと話し始めた。
「ヤツハシ……私は、ずっとあなたに言いたかったことがあるの」
八ツ橋は金魚鉢を眼の前に持ち上げ、期待しながら待つ。
ふなんしぇはガラスで隔てられた外界を見つめ、
『……私、ウエハザカのことが好き』

研究室には沈黙が流れた。
八ツ橋は呆然とし、後ろで立っていたウエハ坂は戸惑いながら水槽をのぞき込んだ。
「ま、待てよ……俺?」
『ええ、あなたの、友達想いの優しさに惹かれたの』
八ツ橋はそっと金魚鉢を置いた。
「……科学って、残酷過ぎる」
研究室を出ていった。
ウエハ坂は金魚鉢を前にして深いため息をつく。
(いやいや、なんで俺んとこ置いていくんだよ……)

そんな困惑をよそに、ふなんしぇは幸せそうに水の中でヒレを揺らしていた。

——おわり——