夏休みの始まり。
粉彦(こなひこ)は、いつものように近所の空き地を通り抜けようとして、足を止めた。
──そこに、一人のおじさんがしゃがみ込んでいた。
汗でくたびれたシャツ、泥で汚れたズボン、ぼさぼさの髪。
でも、それよりも気になったのは、彼の目だった。
悲しそうにじっと粉彦を見つめ、「くぅーん……」と小さく喉を鳴らす。
人間なのに、犬みたいな声を出している。
それだけじゃない。
彼は四つん這いで、まるで犬のように体を丸めていた。
首元には銀色のプレート。
「意識移植刑適用対象 犯罪者 No.0774」
おじさんは外見は人間のまま、意識だけが犬になっている。
新聞で読んだ記事によると、動物の意識を移植された犯罪者は、GPS、監視カメラや衛星で常時監視されているらしい。
逃亡を防ぐということよりも、誰かが過剰な危害を加えたりしないように、ということだが。
「……おじさん?」
粉彦が呼ぶと、おじさんはぴくりと肩を揺らした。
でも言葉は返ってこない。ただ、喉を鳴らすだけ。
彼は人間だったころの声を失っていた。
何かを言おうとすると、「わんっ」「くぅーん……」としか鳴けない。
「……おじさん、俺が助けてやるよ」
7月21日 晴れ
「犬おじさんはパンが好き」
今日、おじさんにパンをあげたら、四つん這いのまま食べてた。
「くぅーん」って鳴いてたけど、多分喜んでたと思う。
最初は怖かったけど、もう慣れた。
おじさんはただの「犬おじさん」だ。
* * * * *
粉彦は毎日のように空き地に通った。
お小遣いで買ったパンの切れ端や、家の残り物をこっそり持っていくと、おじさんは四つん這いのまま、それを食べた。
「おじさん、ほら、水もあるよ」
ペットボトルのキャップに少し水を入れて差し出すと、おじさんは恐る恐る顔を近づけ、ペロペロと舐めた。
まるで本物の犬みたいに。
「……おじさん、気持ちは犬なの?」
「わん」
おじさんは、わかっているのかわからないのか微妙な顔で、静かにしっぽを振るみたいに腰を揺らした。
粉彦は思わず笑った。
7月29日 曇り
「犬おじさんはかくれんぼが得意」
今日はかくれんぼをした。俺が隠れて、おじさんが探す遊び。
おじさんは鼻をくんくんさせて、すぐに俺を見つけた。
見つけたとき、「わん!」って得意そうに鳴いた。
ちょっと笑っちゃった。
* * * * *
時々、おじさんは遠くを見つめることがあった。
まるで、何かを思い出しそうに、でも、それが何だったのか分からなくて苦しんでいるように。
「おじさん、家族とかいた?」
粉彦がそう聞くと、おじさんはピクリと反応し、ぎゅっと目をつむった。
「……くぅーん……」
悲しそうな声。
その鳴き声を聞いて、粉彦は自分のことを思い出した。
粉彦の父親は、家に帰ってこなかった。
仕事が忙しいのだと母親は言うけれど、本当は別の家族がいるのだと知っていた。
たまに帰ってきたときも、母親とケンカばかりだった。
「男ならもっとしっかりしろ」「家族を支えろ」
そんな言葉ばかりで、粉彦のことなんて見ようともしなかった。
「……俺の父ちゃん、家に帰ってこないんだ」
おじさんは、じっと粉彦を見つめた。
「たまに帰ってきても、俺のことなんて全然見てくれない」
おじさんはゆっくりと、四つん這いのまま粉彦の横に座る。
そして、そっと頭を粉彦の膝に乗せた。
まるで、「分かるよ」と言いたげに。
粉彦は驚いたけれど、そっとおじさんの髪を撫でた。
父親にはできなかった触れ合いが、おじさんならできる気がした。
8月3日 晴れ
「犬おじさんは、時々悲しそうにする」
おじさんは、何かを思い出しそうになると、空をじっと見つめる。
俺のことをじっと見るときもある。
何かを思い出そうとしているかのように。
「家族いたの?」って聞いたら、黙っちゃった。
おじさんにも、俺みたいに帰ってこない父ちゃんがいたのかな。
* * * * *
「……ああ、そうか!」
粉彦は気づいた。
おじさんには子供がいるのかもしれない。
父ちゃんと同い年ぐらいだから、僕ぐらいの歳なのかな。
きっと、犬なりにそのことを思い出して悲しんでいるんだ。
粉彦とおじさんはお互い、失ったものを補いあっている関係なのかもしれない。
8月15日 雨
「犬おじさんは、俺を守ろうとした」
今日は、怖かった。
おじさんが俺の前に立って、ワンワン吠えた。
でも、俺のせいで殴られた。
ごめんなさい。
* * * * *
夏休みも終わりに近づいたころ。
粉彦が空き地でおじさんと遊んでいると、同じクラスのいじめっ子たちがやってきた。
「お前、犬と遊んでんの?」
「っていうか、これ犯罪者だろ」
「気持ち悪っ!」
そう言いながら、彼らはおじさんに石を投げた。
おじさんは身を縮める。
「やめろ!」
粉彦が叫ぶと、いじめっ子たちは粉彦を殴り始めた。
その瞬間——おじさんが飛びかかった!
四つん這いのまま、牙をむくようにして突進する。
いじめっ子たちは棒を持ち、おじさんを殴りつけた。
おじさんはいじめっ子にしがみつき棒を落とそうとしたが、後ろに回り込んだ一人がめいいっぱい振りかぶり、おじさんの顔面を棒で殴りつけた。
おじさんの右目まぶたから血が吹き出した。
粉彦は泣き叫ぶ。
いじめっ子は笑いながら逃げていった。
おじさんは、ぐったりと倒れた。
それでも、最後の力を振り絞るように、粉彦の手をそっと舐める仕草をした。
その仕草に、粉彦は思う。
「まるで、お父さんみたいだ……」
8月31日 晴れ
「犬おじさんは、いなくなってしまった」
空き地に行ったら、もうおじさんはいなかった。
昨日までいたのに。
俺のこと、覚えてるのかな。
また会いたいです。
* * * * *
おじさんの刑期が終了した。
粉彦が空き地に行くと、もうおじさんの姿はなかった。
誰かが連れて行ったのだろう。
犬だった頃の記憶が消されて、また元に戻るのだ。
そういう決まりだから、仕方がないのかもしれない。
でも……胸の奥がぽっかりとあいたようだった。
* * * * *
高校生になった粉彦は、居酒屋でバイトを始めた。
両親が離婚し、粉彦は母親と二人暮らしになったのだ。
生活費を稼ぐため、学校の帰宅時間から深夜まで働いた。
カウンター越しに酒を注ぎ、皿を運び、ひたすら客の注文をこなす。
リーダーは柚餅(ゆもち)という男だった。
年齢は四〇代。
少し疲れた顔をしているが、どこか落ち着いた雰囲気がある。
口数は少ないが、淡々と仕事をこなし、バイトの面倒も見てくれる。
粉彦は、彼を見た瞬間に分かった。
──この人は、あの夏に空き地で出会った犬おじさんだ。
しかし柚餅は粉彦を知らない。
意識移植刑を受けた者は、人間に戻るとき記憶を消される。
だから、柚餅は「犬だったころ」のことを何も覚えていないはずだった。
休憩中、先輩バイトの男たちが、柚餅の方を見ながらクスクスと笑っていた。
「なあ、柚餅さんってさ、昔『犬』だったんだろ?」
「詐欺やらかして、意識移植刑にされたんだってよ。マジウケるよな」
粉彦はドキッとした。
「どんな気分なんすか? 人間なのに犬やってたって」
「ドッグフード食わされてたんスか?」
柚餅は、何も言わなかった。
ただ、タバコに火をつけて、ゆっくりと吸う。
粉彦は、拳を握りしめた。
(ふざけるな……おじさんは、そんな人じゃない)
でも柚餅本人は、ただ静かに「仕事行くぞ」とだけ言い、厨房へ戻っていった。
その夜、粉彦はやらかした。
忙しい時間帯、客のオーダーを聞き間違えたのだ。
唐揚げを頼まれたのに、刺身を運んでしまう。
「おい、新人! 何やってんだよ!」
厨房の先輩が怒鳴る。
「オーダーミスとか勘弁してくれよ! すぐ作り直せ!」
粉彦は謝りながら、急いで動こうとする。
そのとき——
「新人なんだから、そんな怒るなよ」
柚餅が静かに言った。
「誰だって最初はミスする。お前らも入ったばかりの頃やらかしただろ?」
その声は穏やかだったが言い返せない強さがあり、先輩たちは黙り込んでしまった。
まるで——
(あの夏、俺を守ってくれた犬おじさんみたいだ……)
粉彦は、柚餅の右の目尻を見た。
ほんの小さな傷の痕が残っていた。
あのとき、俺を守ってくれたときの傷だ。
粉彦は確信した。
記憶が消えても、柚餅の心のどこかにあの夏の感情が残っている。
「お疲れ様です」
帰り間際、粉彦は柚餅に声をかけた。
「今日は……ありがとうございました」
柚餅はしばらく黙りこみ、そして。
「俺な、お前ぐらいの歳の息子がいて……今は会えないんだけど」
壁を向いて、肩を震わせた。
「お前を見ているとな、つい思い出してしまうんだ」
犬おじさんは、今でも優しかった。
粉彦は日記の続きを書くことにした。
* * * * *
4月30日 晴れ
「元犬おじさんあらため柚餅さんは、泣くのを我慢して向こうを向いて立ってました」
—— おわり——
