「願いをひとつだけ叶えてやろう」
重苦しい沈黙を破ったのは、地の底から響いてくるような、低く荘厳な声だった。
長い旅の果て、数えきれないほどの危険を乗り越えてようやく見つけた魔法のランプから、伝説に聞いていた大魔神が姿を現していた。漆黒の巨体に筋骨隆々の腕、そして燃え盛る炎のような瞳が、鋭い眼光で俺と餅蔵(もちぞう)を見下ろしている。
「ひとつだけ?」
俺の口から漏れたのは、呆気ないほど間の抜けた言葉だった。
喉の奥がザラつくような違和感。まるで、大事な何かを忘れているような感覚。
俺は隣の餅蔵を見たが、餅蔵もまた、妙に神妙な顔をしていた。
「ひとつだ」
揺るぎないその声が、再び俺たちを圧迫する。
俺は焦りながら餅蔵に小声で尋ねた。
「三つって聞いてなかったか?」
餅蔵は目を泳がせながら、震える声で答える。
「たしかに……。魔法のランプの願いは、三つ叶うって言われてたけど……」
俺たちが小声で囁き合うのを聞きつけたのか、大魔神は不快げに眉をひそめた。
「お前たちの願いは、あとひとつだけだ」
「なんだよ、それ……」
俺は落胆を隠しきれずにつぶやき、餅蔵と顔を見合わせた。こいつもまた、俺と同じように困惑の色を深めている。
「三つなら決めてあったのにな」
俺が呟くと、餅蔵はうなずいた。
「ああ、まずは金(かね)を山分けして、あとは願いをお互い一つずつ使おうって話だったろ?」
「ああ、だが……ひとつじゃ仕方ない」
俺は妥協案を提示するつもりで言った。
「金にして山分けするか?」
餅蔵は途端に険しい表情を見せた。
「いや、俺には理想の彼女がいて……。その彼女の細かな詳細を、この願いで全部叶えてもらうつもりだったんだ」
俺は少し呆れた。こんな重要な局面で女かよ。
「金さえあれば、理想の彼女だって手に入るだろ?」
餅蔵は、ゆっくりと首を横に振った。普段からの陽気さが消え、真剣さを増した瞳で俺を睨む。
「それは違う。金で寄ってくるような女は俺の理想とは正反対なんだ。俺の理想はそんな俗っぽい欲望でなびくような女じゃない」
「……俺は南国の孤島に、俺王国を建国するのが夢だったけどな」
俺はわざと自嘲めいた笑みを浮かべてみせた。
「だが、この状況じゃそれも無理だ。せめて沖縄かどこかの土地でも買って、小さな俺王国で満足するさ……金があれば、俺はそれで十分満足できるんだよ」
餅蔵の目がいよいよ鋭くなる。唇が引き結ばれ、わずかに震えている。
「俺が欲しいのは、本当に好きになれる理想の女だけだ」
俺は思わず声を荒らげた。
「馬鹿言うなよ、餅蔵。ここまで来て、そんな理由で俺の願いを棒に振るのかよ!」
「棒に振るのはお前の願いだけだろ!」
餅蔵もまた、激しい感情を抑えきれずに叫び返した。
「俺の願いをなんだと思ってんだよ!」
気づけば、俺たちは互いに拳を握り、憎々しげに睨み合っていた。これまで苦労を共にし、幾度となく助け合ってきたはずの二人が、いまや憎悪の感情をぶつけ合おうとしている。
「餅蔵……お前、本気か?」
「ああ、本気だ。俺にとっては、これが人生の全てなんだよ」
餅蔵が俺の胸倉を掴んだ瞬間、頭の奥で何かが引っかかった。
だが、その記憶はすぐに消え失せ、怒りだけが俺を支配した。
胸倉を掴んだまま餅蔵は俺を押し倒そうとした。反射的によけて蹴りあげる。
餅蔵は地面に倒れこみ、それでも執念深く俺の足首を掴んだ。
「おい、餅蔵、やめろ!」
「お前こそやめろ!」
組み合い、転がり、激しく殴り合った。砂埃が舞い上がり、視界がかすむ。
ランプの大魔神は、冷ややかな眼差しで、腕を組んだまま俺たちを見下ろしている。その顔に、嘲笑とも、呆れともつかぬ冷笑が浮かんでいる気がした。
その時、餅蔵の手が後ろのポケットへ伸びるのを見て、俺はゾワリと全身の毛が逆立つのを感じた。
理由はわからない。俺は叫ぶように声を上げた。
「やめろ、餅蔵!」
必死に止めようと掴みかかった手はナイフを押し返そうと抵抗し、激しいもみ合いの末に、俺の手の力が勝ってしまった。
ナイフの刃が、餅蔵自身の腹部へと滑り込む。
鈍い手応えが腕に伝わり、餅蔵の瞳が驚愕に見開かれた。
地面に広がる深紅の海。
餅蔵は、静かに動きを止めた。
俺は呆然とつぶやいた。
「なんてことだ……。こんなことになってまで、金なんて欲しくなかった……」
そして、震える声で願いを告げた。
「あいつと俺が喧嘩する前に、時間を戻してくれ」
大魔神の表情は変わらない。
低い声が再び響く。
「願いを叶えてやろう」
次の瞬間、視界が歪み、俺は再び餅蔵と向かい合っていた。
時間が戻った。
「仕方ないな、願いごとは金(かね)にして山分けしようか?」
餅蔵は憤然として
「いや、俺は欲しい理想の彼女がいて……」
俺と餅蔵はまた喧嘩を始めた。組んず解れつ取っ組み合い、俺は最後に餅蔵を刺してしまう。
俺は震える声で願いを告げた。
「あいつと俺が喧嘩する前に、時間を戻してくれ」
大魔神は腕組みをしたまま、地に響く低い声で
「さっきので三つ目だ」
ランプの中へ吸い込まれるように消え去ってしまった。
——おわり——
