【小説】遊園地、行きたかったね

最近、こういうサービスがある。
それは一見、未来の夢のようでいて、どこか乾いた現実の延長にも思える。
──死者の意識を保存し、仮想現実で再会する。
簡単に言えば、そういうことだ。
もっとも、その「再会」に、どれほどの意味があるのか、本当のところは誰にもわからない。
だが少なくとも、あの日の俺には、それが、救いのかたちをして見えていた。

「生きているうちにあんたと話せれば十分だよ」
と母は言うが、俺は母にいくら感謝の言葉を伝えても足りないと思っていた。
できるかぎりのことを母にしたかったのだ。

ちょうどその頃、俺は、意識保存サービスを提供する会社に勤めていた。
開発でも研究でもない、ただの営業だ。
それでも──社員特典として、格安で意識の保存を依頼できることを、俺は、奇跡のように感じた。
そのとき既に、母の老いは見て取れたからだ。
歳をとることは、記憶を遠ざけることだ。
だからこそ、消えゆく前に、せめて、残したかった。
母は協力的だった。
誰よりも淡々として、機械の前に座り、指示に従い、質問に答えた。
「こんなんで、ほんとに残るのかねえ」と言って、笑った。

……そして。
母は、その年の暮れ、ひっそりと息を引き取った。
静かだった。
病室には、冬の光が斜めに差していた。
カーテンの隙間から漏れる白さが、母の頬を淡く照らしていた。
そのほんの数時間前、母は一度だけ目を覚ました。
そのとき、まるで夢を見ていた子供のように、口元だけが動いた。
「……遊園地、行きたかったね」
何の前触れもなく、思い出したように、ぽつりと。
俺は──その言葉に、息が詰まった。
「楽しかったよ」と言いたかった。
伝えたかった。
でも、喉の奥が詰まり、声にならなかった。
音は出なかった。唇が震えただけだった。
母のまぶたが、再びゆっくりと閉じるのを、俺は何も言えぬまま、ただ見ていた。

父が早くに亡くなってから、母は再婚もせず、ただ黙々と、俺ひとりを育ててくれた。
学も、技術も、持たなかった人だった。
けれども、朝になると誰より早く家を出て、近所の工場で働き、帰ってきては台所に立った。
休みというものは、あってないようなものだった。
それでも、俺の弁当箱はいつもきちんと詰められ、制服は洗濯されていた。
生活は、つましく。
けれど、時折、ささやかな光が差すような日々だった。

日曜日、母は弁当を作ってくれた。
その弁当を持って、河原へ向かった。
木陰にレジャーシートを広げて、ふたりきりで、おにぎりを頬張った。
風が水面をなでる音と、母の「おいしい?」の声だけが、そこにはあった。

そんなある日だった。
母が職場から、遊園地のチケットをもらってきた。
俺は、胸が震えた。
生まれて初めての遊園地。
テレビの中でしか見たことがなかった、夢のような場所。
母はその日のために、ちょっとだけ手の込んだ弁当を作ってくれた。
朝早くから台所に立つ母の背中が、いつもより弾んで見えた。
そして、ゲートの前。
チケットを差し出したとき──係員が言った。
「こちら、優待券ですね。大人は二〇〇〇円、子どもは八〇〇円引きになります」
その瞬間、世界の色が、ふっと褪せた。
財布の中に、それだけのお金は入っていなかった。
それでも何度か財布を開き直し、確認し…最後に母は小さく首を横に振った。
そのまま、俺たちは遊園地の外のベンチに腰を下ろした。
「せっかくだから、お弁当はここで食べようね」
と母は、言った。
食べながら、何度も、観覧車の向こう側を見た。
音楽、風船の色、子どもたちの笑い声。
全部、塀の向こうだった。
帰りの電車の中で、母は、何も言わなかった。
顔を伏せて、車窓の外ばかり見ていた。
「……楽しかったよ」
俺がようやく言うと、母は、ふいに顔を上げ
「母さん、何も知らなくて……」
そう言って、涙を流した。
それを、俺は決して忘れなかった。

その日からだった。
俺が“貧乏”という言葉に、はっきりとした憎しみを抱いたのは。
金というものが、どれほど残酷に人間の尊厳を奪うかを、幼い俺は理解した。
だから俺は、学んだ。
とにかく学び続けた。
鉛筆を握る指が痛んでも、暗記で眠くなっても、構わなかった。
貧しさは、母のせいじゃない。
ならば俺が変えるしかないのだと。
成績は上位に並び、やがて俺は大学に進学した。
返還義務のない奨学金も得た。
もはや、それだけが目的になっていたかのように、死に物狂いだった。
そして──社会人になった。
息をつく暇もなく働き、名刺を持ち、ネクタイを締め、ようやく一人前のふりを覚えた。
なのに。

「遊園地、行きたかったね」

あのときの母の言葉が、最期の言葉だった。
それは、まるで時間の奥底から掘り起こされた石のように、重く、ひんやりとして胸に沈んだ。

母の葬式を終えてから、俺はさらに仕事にのめり込んだ。
仮想現実サービスの営業。
毎日、朝から晩まで飛び込み営業。
断られても、冷たくされても、かまわなかった。
靴底がすり減っても、声が枯れても、止まれなかった。
母のことを思えば、何も怖くなかった。
むしろ、それだけが、俺を支えていた。
上司が心配するほどだった。
同僚が引くほどだった。
それでも、止まれなかった。
──半年が過ぎた。
ふいに、ある朝、目が覚めたとき。
喉がひりつき、胸の奥が、ぽっかりと空いていた。
ようやく、その空洞に風が吹き込むように、俺は思った。
「……母に、会おう」
そのとき、初めて。
俺は、母の意識が保存されている“仮想世界”へと接続することを決めた。

母は、仮想世界の中で、今も生活している。
そう──あの頃のままの姿で。
この世界では、母は自分が亡くなったことを知らない。
俺がそう設定したのではない。
生前の母自身が、それを望んだのだ。
「死んだって知らされたら、あんたが心配してるんだって思っちゃうじゃない」
と、茶化すように、そう言った。
そのくせ、俺の姿は「子どものままにしてね」と言った。
どうやら──母は、俺の現在よりも、俺の“子ども時代”を、宝物のように思っていたらしい。

最新のヘッドセットを頭に装着し、目を閉じる。
思考がシームレスにデバイスと繋がると、空間が一度、真っ白に広がった。
落下する感覚も、遷移のざわめきもなく、ただ、ふと──
記憶の奥に沈んでいた、あの場所に、俺は立っていた。
懐かしい自宅。
風の匂い、湿った土の感触、遠くの鳥の声……
現実よりも正確に、俺の「記憶」が再構成されていた。
変色したトタン屋根の、けれどどこかあたたかく感じた借家。
今にも崩れそうな縁側、いつも少しきしむ板の間。
俺は、その場に立ちすくみ、胸の奥がぎゅうっと掴まれたような感覚に耐えた。

「ただいま──」
声は、子どもの高さで。
勝手口から、俺は中に入った。
「おかえり。今日は遅かったね」
台所の向こう、母が振り返った。
ああ──
あの笑顔。
二〇年前と寸分違わぬ、その笑顔。
俺の世界に、確かにあったその声。
母は、エプロン姿のまま、野菜を洗っていた。
現実の俺は、目を閉じながら、目を開いていた。
今この瞬間、ここは夢であり、現実であり、記憶であり、偽りであり──
そのすべてだった。
「学校帰りに木寺くんちに寄ったらね、お母さんが遊園地のチケットを二枚くれたよ」
俺は、言った。
母は、ふふっと笑った。
「ほんとう? じゃあ木寺さんにお礼言っておかないと」
母の背中は、小さく揺れながら、流しの水音と一体になっていた。
俺は、そっと、ステータスウィンドウを開いた。
仮想現実の時間を制御する、透明な盤面。
その中の時計型アイコンを、俺は指先でそっとなぞり──
時間を、“日曜日”へとスキップさせた。

日曜日。
陽はやわらかく、風はぬるく、空は雲一つなく澄んでいた。
母は朝から台所に立ち、時間をかけて、少しだけ豪華な弁当を作ってくれていた。
いつもより多めの卵焼き。
少しだけ高かったウインナー。
彩りのよい、ぎこちない花型のニンジン。
その背中が嬉しそうであることを、俺は子どもの姿をしながら、どこか遠い位置から見ていた。
母の手つき、鼻歌、ふと顔を上げるしぐさ──
どれもかつての記憶のまま、いや、もしかしたらそれ以上に、生き生きとしていた。
電車に乗ると、母は窓の外を眺めていた。
街の風景が流れ、駅を過ぎるたびに、母の頬がわずかに紅くなる。
その様子が、まるで少女のようだった。
そして、遊園地のゲートに立ったとき。
俺はゆっくりと、ポケットから「本物の招待券」を取り出した。
仮想世界で生成されたそれは、あのときの失敗を、ただ静かに、なかったことにしてくれる。
係員は笑顔でうなずき、ゲートが開いた。
俺たちは、何のつかえもなく、中へと入っていく。
母の手が、わずかに俺の袖を握っていた。
まるで、夢に触れてしまいそうで、不安になっているかのように。

中に入ると、まばゆいほどの色彩が広がっていた。
音楽が鳴り響き、ネズミのキャラクターが手を振り、風船が揺れていた。
俺は、夢中で走り出した。
母が、笑いながら後ろからついてくる。
「待って!」
叫ぶその声が、嬉しそうで、楽しそうで、切なかった。
ローラーコースターに乗って、俺たちは風の中で叫んだ。
ボートに揺られ、世界旅行のミニチュアを巡り、
射的ではお互いに張り合い、フライングカーペットでは手を握った。
笑い声が、空に弾けて、どこまでも届いていった。

昼になって、再入園スタンプを手の甲に押してもらい、ピクニックエリアへ出た。
母とベンチに腰かけて、弁当を広げる。
あのときの弁当が、本来の形で今ここにある。
あのときの弁当を、母と向かい合って食べる。
俺は、堪えきれなかった。
涙が、止まらなかった。
ひとくち、口に運ぶごとに、目の奥が熱くなる。
母はそれに気づかないふりをして、「おいしい?」と、笑った。
「おいしいよ」
その言葉が、涙の味に混じって喉を通った。
母の作る卵焼きは、どこまでも甘かった。

食べ終えたあとは、パレード。
音楽が遠くから高まり、やがてカラフルな衣装を着たキャラクターたちが、リズムに合わせて登場する。
アニメや映画でしか見たことのないキャラクターたちが、現実のような熱気と質感で目の前を通りすぎてゆく。
子どもたちが声をあげ、手を振り、大人も手拍子を打つ。
その波に、母も自然に溶け込んでいた。
あの日、塀の外から眺めていた景色。
今ここで、母がその中にいる。
「わあ……」
母が歓声を上げたとき、俺はそれを見て、目をそらした。
幸福というものが、これほど残酷に心を締めつけるのかと、思った。
笑う母の姿が、涙でぼやけていく。
何度、まばたきしても、視界がにじんで戻らなかった。
──そうだ。
この一日を、やり直すために俺はこの仮想世界に入ったのだ。
母を悲しませた記憶を、少しでも薄めるために。
あの言葉を、「楽しかったよ」という記憶に書き換えるために。

けれど、できなかった。
それが、どれほど丁寧に組み上げられた幸福の再演であっても──
俺の中に浮かび上がるのは、最期の病床の母の顔だった。

「遊園地、行きたかったね」

その声が、耳の奥でふたたび響く。
母が、自分の最期にまで引きずっていた後悔。
それを、俺がこうして勝手に「訂正」しようとしたことが、
耐えがたいほど、恥ずかしかった。
これは贖罪ではなかった。
思い出の改竄であり、死者への冒涜を、俺は、した。

「楽しかったね」
笑顔のまま、母が言った。
その瞬間──崩れた。
俺は泣いた。
しゃくりあげながら泣いた。
子どもの姿のまま、母の前で、声を抑えることもせずに。
母が顔をのぞき込む。
「どうしたの? 楽しくなかった?」
そのやさしさに、さらに涙があふれる。
俺はしゃくりあげ、心配そうに見つめる母の前で、そっとステータスウィンドウを開き──
仮想現実からログアウトした。

ヘッドセットを外した瞬間、目の奥が焼けつくように痛んだ。
まばゆい光の余韻が視界に残っているのか、それともただ涙がこびりついていたのか、しばらく何も見えなかった。
手が震えていた。
膝の上に落ちていく涙の重さが、じっとりとズボンの布地に染みていく。
それが、やけに静かだった。
部屋の静けさが突き刺さるようだった。
やがて津波のように、悲しみ、後悔、混乱、絶望、あるいは愛情と苦痛の混じり合った感情が押し寄せた。
母が亡くなったときよりも、俺は激しく泣いた。
俺は、この母との『新しい思い出』を、どう抱えて生きていくべきなのか……もう分からなかった。

—— おわり——