【小説】春の妖精

春の陽射しは、やわらかかった。
風には、甘い花の匂いが混じっている。

午後。
少女はそっと靴を履き、扉を開けた。
「お母さん、行ってくる」
鍋の上で湯気が揺れている。
「どこへ?」
「ちょっと、そこまで」
母は、湯気の向こうからちらりと少女を見る。
「また、森へ?」
少女は答えなかった。

家から歩いて一〇分ほどのところに森がある。
春になると、桜の花びらが地面に舞い、
草木のあいだから、小さな光がちらちらと立ち上る場所。
誘われるように少女は歩く。
そこは、秘密の場所だった。

この時期にしか現れないものがいる。
妖精だ。
淡い色の羽を持ち、手のひらに乗るほどの小さな存在。
蝶とも違う。
鳥とも違う。
ただ、この季節にだけ現れ、ふわふわと漂う。
少女は、去年、一度だけ見たことがあった。
けれど、そのときは捕まえられなかった。

今年こそ。

森に着くと、妖精たちはすでに飛び交っていた。
光を反射しながら舞い、喋り、笑い声を上げている。
少女は息を潜め、じっと待つ。
手のひらをそっと伸ばし、身体を動かさない。
「こっちだよ……」
一匹が、そう囁きながらふわりと降りてきた。
指先が震える。
逃げられないように、慎重に両手を合わせる。

捕まえた。

そっと、指の隙間を開く。
かすかに透き通った羽が見えた。
胸が高鳴る。
急いで持ち帰らなくては。

帰り道、少女の心は浮き立っていた。
虫かごの中で、妖精が少女に話しかけてくる。
「君は、可愛いね」
そうかしら。
少女は、嬉しくなる。
「この道は、はじめてかな」
妖精は、虫かごの中から外を覗く。
「おいおい、そっちじゃないよ」
ここはあまり来たことがない。
自信がない。
「こっちだよ」
妖精の言う通りに、歩く。
「そっちじゃないよ」
「こっちだよ」
気づくと、同じ木の影がまた目の前にあった。

妖精は、人を迷わせる。
妖精の言う通りに歩いているうちに、少女は迷ってしまった。
家に帰れない。
泣きながら、歩く。
少女は、笑われている気がした

父と母が、窓の外を見ると。
虫かごを持った娘が、わんわん泣きながら同じ場所を回っていた。

家に戻った少女は、机の上に虫かごを置き、両親と話す。
「妖精って、そういうものなのよ」
「騙すの?」
「騙しているわけじゃないの。進化の過程で、そうなっただけ」
「適者生存、あるいは、最適者生存」
少女には難しい言葉だった。

「こっちだよ」
「そっちじゃないよ」
「こっちだよ」
虫かごの中で、妖精は鳴いている。

「そういう鳴き声なの。本人たちには、意思はない。ただ、人間には言葉みたいに聞こえるだけ」

少女は小さな箱を用意する。
葉と花びらを敷き、水をほんの少し垂らす。
そっと、箱をのぞき込む。
妖精は小さく震えていた。
「君は、可愛いね」
少女を見上げて微笑んだ。

夜になっても、少女は眠れなかった。
布団に入っても、胸が高鳴る。
何度も箱を開けては、中の妖精を確かめる。

翌朝。
妖精の羽は、少しくすんでいた。
箱の中には、甘い匂いとは別の薄い湿り気が混じっていた。
「そっちじゃないよ」
妖精は、鳴いている。
訴えかけるように、何度も、何度も。
「この道は、はじめてかな」
「君は、可愛いね」
声は、だんだん小さくなっていく。

三日後。

羽はしおれ、
「君は、可愛いね」
最後にそうつぶやき、妖精は動かなくなった。
みるみる身体が黒ずみ、異臭が漂いはじめる。
箱の中では小さな虫が這い、花びらの上に溶けたような液体が染みている。
少女は、悲鳴を上げた。

「だから、言ったのに」
母の声は、低く、硬かった。
「捕まえたら、死んでしまう。そう、言ったでしょう」
少女は、震える手で箱を抱え、涙を流す。
「……どうしよう、お母さん」
「埋めてあげなさい」

夜の森へ向かう。
春の香りが、まだ残る木々の下。
少女は、小さな穴を掘る。
腐りかけた妖精を、そっと埋め、手で土をかける。
「ごめんね」
頬を流れる涙が、土に落ちる。

ふとどこからか、かすかな声が聞こえた。
少女は、顔を上げる。
「君は、可愛いね」
春の風に乗って、小さな光が揺れながら舞っていた。
けれど、その手を伸ばすことは、もうできなかった。

—— おわり——