【小説】別れた妻が帰ってきました

深夜、突然ドアが激しく叩かれた。
ドンドンドン!
「ねえちょっと開けてよ!」
聞き覚えのある声。それも、今ここにいるはずのない人物の声だった。
俺は戸惑いつつも玄関に向かい、ゆっくりと鍵を開ける。するとドアの隙間から勢いよくねり奈がなだれ込んできた。
「何で鍵変えてんのよ、頭おかしいんじゃない?」
玄関の明かりを受け、酔いか怒りか真っ赤になった顔でこちらを睨む。
「お前と俺は別れたんだよ」
「何バカなこと言ってんのよ〜」
どうやら酔っ払って、別れたことを忘れて俺の家に帰ってきたみたいだ。
こういうところが可愛くて好きだったんだが……

ねり奈は靴を脱ぎ捨て、そのままキッチンへと歩いて行った。勝手知ったる我が家、といった様子で冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に喉に流し込む。水を飲み干し、一息つくと、少しずつ彼女の目に正気が戻っていった。
「朝、喧嘩したっけ? そんなことずっと引きずっているから駄目なんだよ」
「いやいやいや……離婚したじゃん。一年前に」
俺がそう告げると、ねり奈は眉をしかめた。
「何バカなこと言ってんのよ」
「バカじゃないよ。二〇二四年の四月二六日、俺の誕生日に離婚したから覚えてる」
「二〇二四年の四月二六日? 明日じゃないの。今日は二五日だよ!」
ねり奈は呆れた顔でスマホの画面をこちらに突きつける。日付表示は、確かに『二〇二四年四月二五日』になっていた。
「ええっ」
思わず、俺も自分のスマホを取り出し、彼女の目の前に差し出した。
「今日は二〇二五年三月二三日だぞ。お前のスマホの時間表示はおかしい」
「今年は二〇二四年だよ!」
「いや二〇二五年だ」

ねり奈と俺は黙ってお互い見つめ合った。
あいつは、嘘をついている様子はない。
ねり奈は周囲を見渡し、何かに気がついた。
「私の荷物は?」
「ああ、お前が離婚した次の日に運送会社に頼んで実家に送ったじゃん」
「ちょっと待って、ちょっと待って……」
ねり奈は片手で頭を押さえ、深刻そうな顔で考え込む。さすがに酔いは完全に覚めたらしい。
「帰ってくる途中……バスを降りて歩いていたら、突然、視界がぐんにゃり歪んで、一瞬気を失ったの。そのときは、自分でも酔っぱらいすぎだって思ったけど……」
真剣な表情のまま、とんでもないことを口にした。
「私、時空を超える……ワームホールみたいなものを通っちゃったのかもしれない」
ありえない仮説を出して自分自身を納得させようとする。その姿勢もねり奈らしい。
沈黙のあと、ねり奈は唐突に叫んだ。
「何で別れたの!」
「お前がいきなり別れようって言ったんだろ!」
思わず声が大きくなった。
「あの日、朝に口論して帰ってきてすぐそれだったから、俺だってびっくりしたんだよ……」
俺はため息をついた。
「次の日には仕方なく離婚届を取りに行って、書いて、判子を押した」
「私と別れたかったの?」
真っ直ぐな視線を向けてくる。
「そりゃ別れたくなかったけど……」
その言葉を聞いたねり奈は、さらに声を荒げた。
「もっと説得しなよ! 本当に好きなら、別れたくないって。あんたのそういう、本当の気持ちを秘めて我慢するところがイヤなんだよ!」
「いやいやいや……相手がいやだって言ってるのに説得したら、それは強要になるだろ?」
「そういうところが駄目なの! 私が理不尽なことを言っても、我慢して我慢して……ああもう、うじうじしたところがイヤ!」
「やっぱりイヤなんじゃないか」
「イヤじゃないよ! 別れたくないなら別れたくないって意思を通さないから別れたんだろ!」
ねり奈は、ふと素の顔に戻り、小さく問いかける。
「あんたの時間の……現在の私は、今どうしてんの?」
「俺と別れて二ヶ月後には彼氏ができたとかで、今はその男と同棲してるよ」
ねり奈は、それを聞いてニヤリと笑った。
「さすが私、もてるな〜」
自分で褒めるその無邪気さが、たまらなく可愛いと思った。

ねり奈は真顔になって、俺の顔をじっと覗き込む。
「あんたは今も私のこと好きなんでしょ?」
「そりゃ好きさ」
「そうよねえ、あんたはもてないし私一筋だったもんね」
そのまま俺の頬を手で挟み込み、強引に顔を近づける。
「今度私が別れたいって言っても、絶対別れたくないって言え!」
「う、うん……」
「ちゃんと約束しろ!」
「別れたくないけど……君はもう新しい彼氏が……」
「それは別の私だろ。本当の私、この私とだよ!」
「別れたくない」
「そんなんじゃ駄目!」
「別れたくないっ!」
「もう一度!」
「別れたくないっ!」
俺は腹の底から絶叫した。
「そうだよ、その気持ちだよ! 今後、何があっても、私が癇癪起こして別れ話を始めても、絶対に別れちゃ駄目だよ。君は君の気持ちを大切にしないと駄目!」
勝手なことを真剣な表情で言う。だが、そこが好きだったのだ。
「絶対に別れちゃ……」
その言葉の途中で、ねり奈の輪郭がぐんにゃりと歪んだ。ぼんやりとした渦のようなものが彼女を包み、淡く光を帯びて、彼女の姿はそのまま静かに掻き消えた。
ワームホールって、本当にあんな感じなのかもしれない。

俺はねり奈からもらった勇気に背を押され、思い切って電話した。
ねり奈はすぐに出た。
「何? こんな時刻に」
猛烈に不機嫌そうなねり奈の声が響く。
「横で彼氏寝てるんだけど」
「今……君が来たよ。一年前の君が」
「え」
ねり奈は絶句した後、静かに続けた。
「そっか、じゃあ今だったんだ」
「知っているのか?」
「覚えてるよ。一年前のことだもの。あの後、気づいたら最初気を失った場所に私また立ってたんだよ」
「じゃあ、わかっているよね」
「何が?」
「僕は君と別れたくない」
「おそっ!」
ねり奈が怒鳴った。
「あの後帰ってすぐ、君に『別れたい』って言ったら『うん、わかった』って即答だよ! 君からすれば朝言い争いしたから、その夜にあり得たことかもしれないけど、私からすれば、そんなに好きじゃなかったことかなって思うよ! 直前に『別れたくない!』ってあんなに叫んでいたのにさ」
「いやいや、それは一年後の俺で……」
「そうやって言い訳するところがイヤ!」
もう滅茶苦茶だ。
「もう遅い! バイバイ! 二度と電話しないでね!」
プツッ!

こういう勝手なところが好きだったんだよな〜。
俺は泣き笑いの表情でスマホを見つめていた。

——おわり——