松田望が書いた小説」カテゴリーアーカイブ

僕は漫画を描くとき前段階として小説を書きます。
書いた小説を叩き台にして漫画を描きます。
そうして数しれず誰にも見せるあてのない小説が完成しました。
勿体ないので今まで書いてきた未発表小説を毎週発表していきます。

【小説】坊主と屏風

俺が和室の居間に入ると、どこかから勝手にあがってきた坊主が床の間の屏風に上手な坊主の絵を描いている。
「おい!坊主、なにをする!」
坊主は素知らぬ顔で坊主の絵を描いている。よく見ると、屏風に描かれた絵の中の坊主も屏風に上手な絵を描いてやがる。
「この坊主め、確かに上手だけど坊主の絵をびょびょびょびょ……屏風に勝手に描くな!」

俺の怒鳴り声を聞きつけて入ってきた妻が
「どうしたの?」
「いや坊主が屏風に上手なぼぼぼ……坊主の絵を描いているんだ」
うまく言えない。ちゃんと聞き取れなかった妻が眉をひそめて言う。
「あんた、何言ってるの? ボールが豆腐に変わるとか、どういうこと?」
「いや、だから坊主が屏風に上手なジョーズの絵を描いてるんだ!」
また間違った! 妻は頭を抱え、
「またまた、今度はジョーズを噛んだって? 何を言ってるの?」
「違うって! 上手な毛布が屏風に絵を描いてるんだよ!」
早口で言えない。妻はますます混乱し、
「尿もれパッドに毛布が被さるって、何の話?」
「そんなこと言ってない! ジョウロにジョウロが……ああ俺もうまく言えない!」
妻はついに怒り出す。
「となりの竹垣に竹を立て掛けたの?」
「そっちの早口言葉は関係ない!」

そんな言い争いしている間にも、裏庭には二羽、庭には二羽の鶏があらわれ、隣の部屋で客が柿を食いだし、前の国道でバスがガス爆発、スーパーは生麦生米生卵の特売、赤パジャマ黄パジャマ茶パジャマを着た老若男女の発明家が東京特許許可局に向かって歩き、その前をカエルぴょこぴょこ三ぴょこぴょこ合わせてぴょこぴょこ六ぴょこぴょこ、この釘引き抜きにくい釘を引き抜き、新進シャンソン歌手が新春シャンソンショー、取材に来た貴社の記者、汽車、会社、記者会見……舌を噛みそうな状況が加速していく。

その時、坊主が静かに声を上げる。
「私こと坊主が屏風にびょうずな坊主の絵を描いたんです」
俺は爆発した。
「お前もちゃんと言えてないじゃないか!」

—— おわり——

【小説】私の可愛い胃

私は動物を飼うことができないアパートに住んでいる。
ペット禁止の貼り紙を見るたび、胸の奥でなにかが鳴く。
——それなら、体の中で飼えばいい。

「私、胃を飼ってるんだ」
最初は冗談のつもりで始めたその考えは、だんだんと本気になっていった。
私はお腹の中に、小さな命が住んでいると信じることにした。
胃という名の小さな生き物が、私の体の中で日々の食事を楽しんでいる。
空腹になると、胃は「クゥ~ン」と鳴く。
私はその音が可愛くて仕方なく、いつもお腹が鳴る度に食べ物をあげてしまうのだ。
お腹が空いているときは、胃が「もっと食べたい!」と鳴くのだと思うと、つい食べ過ぎてしまう。

しかし、最近ダイエットを決意した。
友達と会う約束があり、少しだけ体を絞りたかったのだ。
でも、食べることが好きな私は、ダイエットが辛くて仕方がなかった。
「お前のためでもあるんだよ!」
ダイエット中、胃が鳴くたびに私は言い聞かせた。
食事を抜くたびに、胃が悲しげに「クゥ~ン」と鳴いて、それが本当に愛おしく思えた。
でも、ここで我慢しないと、せっかくの努力が無駄になる。

毎日少しずつ食事の量を減らし、お腹の鳴き声を我慢する日々が続いた。
胃が「キュルルルルルル……」と鳴くと、
「もう少しだからね」
私は優しくその声を無視した。
やがて、少しずつダイエットの成果が現れ始めた。
お腹は少しへこみ、体重も減少した。
それと並行して胃の「クゥ~ン」という鳴き声が、だんだんと静かになっていった。
胃が静かになったことに、私は少し寂しさを感じると同時に、達成感を覚えた。

ある夜、不思議な夢を見た。
夢の中で、私は手にリードを持ち、散歩道を歩いている。
そのリードの先には、犬のような形をした「胃」がいた。
ピンク色の丸い体に、口が大きく開いている。
胃は楽しそうに周囲を嗅ぎ回りながら、ゴミ箱の中を漁ろうとする。
「ダメだよ、そんなの食べちゃ!」
私は胃を制止しようとリードを引っ張ったが、胃は突然唸り始めた。
「グルルルル……」

次の瞬間、胃が私に飛びかかってきた。
私は必死に逃げようとするが、胃がリードを引っ張り返して私を地面に倒す。
私の上に乗り、まるで復讐するように体を締めつけ、私に向かって大きな口を開いた。
「もう我慢なんかしない……お前を食べてやる!」
胃は口のように食道を広げ、私を頭の上から包み込んでひと呑みにした。
そして私は胃の中で……

暗闇で目を覚ました。 ひどい寝汗をかいていた。
私は、そっと腹部を撫でた。

そして、ついにダイエットを終えた(ことになっている)その日。
私は、この身体へのご褒美を用意した。
久しぶりに会った友達と向かった先は、駅前の焼き肉屋だ。
テーブルには、厚切り牛タン、カルビ、ホルモン……焼き網の上でじゅうじゅうと肉が焼ける音がするたびに、私の腹の奥が期待に打ち震えるのがわかった。
「どう、おいしいでしょ!」
私はそう言いながら、焼きたての牛タンを次々と口に放り込み、咀嚼し、食道へと送り込む。その作業がたまらなく愉快だった。
「ちょっと、私以外の誰と喋ってんの? なんか今日、雰囲気変わったね」
友達は含み笑いしながら突っ込む。 私はただ、ニヤリと笑って見せた。

満腹になった頃、お腹の奥から、くぐもった音が聞こえた。
「クゥ~ン……キュゥ~ン……」
それは、これまで聞いてきたような食欲の合図ではなく、どこか悲痛な、助けを求めるような鳴き声だった。
「……して、……してよ」
微かに、人間の言葉が混じっているように聞こえた。
「ん? なにか言った?」 友達が不思議そうに私を見る。
「ううん、なんでもない。ちょっと食べすぎちゃったみたい」
私は腹部を軽く叩いて黙らせた。

——静かにしろ。

私は心の中で、腹の中に閉じ込めた「かつてのこの身体の持ち主」に向かって語りかけた。
お前はもう、ただの空腹の象徴だ。
これからは私が、この身体を使って存分に食事を楽しんでやる。
飼い主が変わったんだよ。

「キュ……」
腹の奥で、小さく絶望的な震えが伝わってきた。
私は満足げに、メニュー表を手に取って次の獲物を探し始めた。

—— おわり——

【小説】十一人いる!

宇宙ステーションでの清掃作業は予定より長引いていた。
「やばい、間に合わない!」
清掃区画の空調が壊れ、軽い酸欠で頭がぼんやりしていたのかもしれない。
僕は慌てて、整備員たちを押しのけ、最も手前に停まっていた宇宙船に飛び乗った。
この船は火星に医薬品を運ぶ緊急輸送船、僕がパイロットだ。
出発許可はすでに降りている。
僕はこんなときでも冷静に行動できる。
必要な判断だけを残し、それ以外は切り捨てる傾向があるとも言えるのだが。
手は自動的に動いて発進準備を整え、エンジンを点火する。
宇宙港のゲートが開き、船体がゆっくりと滑り出した。
「ふぅ……間に合った」

だが、その安堵も束の間だった。
後方の貨物室からカタン、と音がする。
「……?」
まさか……密航者か?
警戒しながら貨物室のドアを開けると、そこには一人の見知らぬ顔の男がいた。
「おい、お前何してるんだ!」
男はムッとした顔で言った。
「何って、俺はこの船のパイロットだぜ?」

は?

混乱していると、また別の男が貨物室の奥から出てきた。
「おい、お前、清掃員か? 勝手に船を出していいのか? どういうことだ?」
続いて、三人目、四人目……
次々と貨物室の影から人が現れる。
僕を入れて数えると……全部で十一人いる!
どういうことだ!? 僕の船に、一〇人も増えている!?

「おい、ここは僕の船だ! 勝手に乗り込んでくるな!」
慌てて僕が彼らを静止すると、
「はぁ? 何言ってんだ、お前ら全員、密航者だろ!」
全員が周囲に向かって主張し始めた。
怒鳴り声はばらばらなのに、イントネーションが微妙にそろっている。
「バカ言え、僕以外が密航者だ!」
僕が負けずに怒鳴り返すと、
「俺はパイロットどころか、お前らの運送会社の社長だぞ!」
「俺は宇宙警察だ! 全員逮捕する!」
「俺たちはもう死んでいるんだ……ここは三途の川の渡し船だ」
「おい、俺が主人公だぞ! お前らはモブキャラだ!」
「俺たちはマルチバースが誕生したとき生まれた可能性の分岐なんだ」
「俺が宇宙の支配者だ!」
「ここで不倫相手と待ち合わせしてるんだ、邪魔するな!」
「俺は異世界転生してきたんだが?」
「カット! カット! 今の演技じゃダメだ、もう一回!」
「俺は未来から来たお前だ! この船を止めるために来た!」

口々に勝手なことを主張する男たち。
彼らはみな同じ運送会社の制服を着ているが、誰が誰やら見分けがつかない。
そして僕含めて十一人全員、名札の番号が同じ……
「いいや、お前らが偽物だ!」
僕は……いや全員が叫んだ。

だが、言い争っている場合ではない。
これは緊急輸送船だ。
必要最低限の資源しか積んでいない。
十一人も乗っていたら、燃料は尽き、酸素も足りなくなり、全員が死ぬ。
計算は残酷だ。
冷たい方程式が導き出す答えは一つ。
余剰分を排除しなければ、この船は目的地にたどり着けない。

エアロックに至る扉を開くと、警告音が鳴り響いた。
「警告:エアロック減圧シーケンス開始」
赤いランプが点滅し、空気が張り詰める。
僕は操縦席ダッシュボード下からレーザー銃を取り出し、彼らに向けた。
「すまんが、ルールだ。出てもらうぞ」
ざわめきが走る。
疑念、怒り、恐怖——すべてが交錯した視線が僕に向けられた。
「待て、俺は本物のパイロットだ!」
「お前こそ密航者だろ!」
「頼む、考え直してくれ!」
無意味だ。
話し合いでは酸素も燃料も節約できない。
「知るか!」

内扉がロックされ、減圧が始まる。
男たちが必死に扉を叩く。鼓膜が悲鳴を上げ、血の滲む指先がガラスをひっかいた。
「エアロック開放」
無音だった。
扉が開いた瞬間、何かが吸い出される気配だけが残った。
悲鳴は、空気がない場所では形にならない。

これで船内は僕一人……ようやく、火星へ向かえる。
ふぅ、と息をつき、船の認識番号を確認する。
「え?」
認識番号が違う。これ、僕の船じゃない。
「……」
あの中に、一人くらい本物がいたかもな。
……ま、いっか。
誰が本物か決めるのはこの物語の外側だ。
僕が判断する必要はない。

船を一気に加速させ、僕は火星へと向かった。

——おわり——

【小説】ぼくらの放課後通信

学校の図書室には、いつも静かな空気が流れていた。
放課後、ほとんどの生徒が帰宅し、僕は一人で自習室にこもっていた。
図書室の隅にある自習室には、決まって誰もいない。
その広い部屋で、僕はテキストとノートを広げていた。
ある日、集中しているつもりなのに、ふと別の誰かの視線を背中に感じる瞬間があった。
振り返ると誰もいない。
気のせいか……
と、ノート下の机に目をやると、何か書かれていた。
「暇だよ」
丸みを帯びた、女の子の字。
その一行が、まるで僕に向けられたメッセージのように思えて、僕は少し驚いた。
誰かが、こんな場所で何気なく文字を残していったのだろうか。
普段なら無視するところだが、その日はどうしても気になってしまった。
僕は鉛筆でその机に返事を書いた。
「勉強はしてるよ。暇じゃないけど」

放課後の図書室、静かな時間の中で返事を待つことが少しだけ楽しく感じられた。
次の日、またその机に向かうと、手書きの文字が書かれていた。
「そんなこと言っても、楽しんでるわけじゃないんでしょ?」
その言葉にはどこか遊び心があり、僕は思わず笑ってしまった。
あの文字に込められた少しの皮肉が、また次の返事を楽しみにさせた。
その日から、毎日放課後に図書室に行き、机の上に残された返事を楽しみにしていた。
文字だけで繋がる誰かとのやり取り。
顔も名前もわからない相手だけれど、返事が書かれているとなんだか胸が高鳴る。
まるで秘密の約束を交わしているような気分になった。
「二人とも意外と顔見知りかもね。狭い学校だから」
「僕は目立たない方だからなあ」
「あはは! あなた、いつも自信なさそうだもん。でも、一歩踏み出したら変わるかもよ」
僕の、几帳面だと自分では思っている字の横に、彼女の筆圧の強い、ためらいのない線が並ぶ。
やりとりはいつも一行、二行程度で簡潔で、でもどこかしら温かみがある。
どんなに忙しい日でも、必ず放課後には机の上に返事が残されている。
相手の言葉が、次第に心に響くようになった。

—— 彼女のこと、ちゃんと知りたい。
最初はただの興味本位だった。ただの気まぐれから始まったこの文通。
でも、次第にその相手のことが気になっていった。
文字の向こうにいる彼女、もしくは彼。
もしかしたら、僕の隣に座っている誰かかもしれない。
僕はその文字を見つめながら、返事を書いた。
「君は、誰なんだろう?」
机に書かれた返事は……
「私もあなたが気になるかも。でも会うのは怖い」
その言葉に、僕は胸が苦しくなった。
僕も同じだ。会いたいと思っている。けれど、思っていた相手じゃなかったらと思うと怖い。
でも少しでも彼女の顔が見たかった。
僕は思い切って提案した。
「明日の放課後、終礼が終わったらすぐ図書室横の樹の下で……僕は待っている」

僕の心は期待と不安でいっぱいだった。
次の日、僕は樹の下で待った。時計の針がどんどん進んでいく。まるで時間が僕を試しているみたいに、一分一分が長く感じられた。
しかし、誰も来なかった。彼女は現れなかった。
どうしたんだろう? 
視界の端が微妙に霞んで、ふと我に返ると、短針はもう下校時刻に近づいていた。

待ちくたびれて、自習室のいつもの机に向かったが、机の僕の字の横には返事がなかった。

次の日の放課後、いつものように丸い字でメッセージが書かれていた。
「ごめんね」
その一言に、心が締め付けられるようだった。
「どうしてこなかったの!」
これだけ書くのがやっとだった。歯がゆい一日ごとのやりとり。
「実は私、あの場にいたの」
「嘘つき! いなかったよ!!」
「あなたは気づかなかったけれど、図書室横の樹の下で私はあなたのことがわかったの」
「君がいたら気づくよ!」

「私の気持ち、わからなかった?」
意味がわからない。彼女の気持ち……どういうことだ?

彼女は毎日一言ずつ教えてくれた。
「はじめて、あなたが書いたその文字を読んだとき、私はあなたに特別なものを感じた」
「あなたと私は、同じ気持ちを持っている」
「あなたが私を想うその気持ち……私も持っていることに気づいた」
どういう意味なんだ?
返事の言葉が僕の頭の中をグルグルする。
まさか、僕と彼女はお互い好きあって……

「あなたの手が、私の言葉を書くときに少し震えたの、気づいてた?」

思いがけない返事に僕の思考は止まった。
勉強に集中していたはずの一瞬、ふっと意識が途切れて、その隙間に彼女が前に出てきた。
気づけば、僕の手が勝手に机に落書きをしていた。
それをあとから僕が読んで、返事を書いた。
僕の返事を読んだ彼女が、また僕の手を借りて返事を書く。
ずっと、そのくり返しだった。
会いたいと思っていた相手は、実は僕自身だったのだ!

「僕は自分自身に恋したというのか?」
「それが、なにか悪いの?」
その言葉は僕の胸の奥に静かに落ち、図書室の夕暮れと重なっていった。
消されることのない鉛筆の線だけが、机の上に残った。

—— おわり——

【小説】ねがい

「願いをひとつだけ叶えてやろう」

重苦しい沈黙を破ったのは、地の底から響いてくるような、低く荘厳な声だった。
長い旅の果て、数えきれないほどの危険を乗り越えてようやく見つけた魔法のランプから、伝説に聞いていた大魔神が姿を現していた。漆黒の巨体に筋骨隆々の腕、そして燃え盛る炎のような瞳が、鋭い眼光で俺と餅蔵(もちぞう)を見下ろしている。
「ひとつだけ?」
俺の口から漏れたのは、呆気ないほど間の抜けた言葉だった。
喉の奥がザラつくような違和感。まるで、大事な何かを忘れているような感覚。
俺は隣の餅蔵を見たが、餅蔵もまた、妙に神妙な顔をしていた。
「ひとつだ」
揺るぎないその声が、再び俺たちを圧迫する。
俺は焦りながら餅蔵に小声で尋ねた。
「三つって聞いてなかったか?」
餅蔵は目を泳がせながら、震える声で答える。
「たしかに……。魔法のランプの願いは、三つ叶うって言われてたけど……」
俺たちが小声で囁き合うのを聞きつけたのか、大魔神は不快げに眉をひそめた。
「お前たちの願いは、あとひとつだけだ」

「なんだよ、それ……」
俺は落胆を隠しきれずにつぶやき、餅蔵と顔を見合わせた。こいつもまた、俺と同じように困惑の色を深めている。
「三つなら決めてあったのにな」
俺が呟くと、餅蔵はうなずいた。
「ああ、まずは金(かね)を山分けして、あとは願いをお互い一つずつ使おうって話だったろ?」
「ああ、だが……ひとつじゃ仕方ない」
俺は妥協案を提示するつもりで言った。
「金にして山分けするか?」
餅蔵は途端に険しい表情を見せた。
「いや、俺には理想の彼女がいて……。その彼女の細かな詳細を、この願いで全部叶えてもらうつもりだったんだ」
俺は少し呆れた。こんな重要な局面で女かよ。
「金さえあれば、理想の彼女だって手に入るだろ?」
餅蔵は、ゆっくりと首を横に振った。普段からの陽気さが消え、真剣さを増した瞳で俺を睨む。
「それは違う。金で寄ってくるような女は俺の理想とは正反対なんだ。俺の理想はそんな俗っぽい欲望でなびくような女じゃない」
「……俺は南国の孤島に、俺王国を建国するのが夢だったけどな」
俺はわざと自嘲めいた笑みを浮かべてみせた。
「だが、この状況じゃそれも無理だ。せめて沖縄かどこかの土地でも買って、小さな俺王国で満足するさ……金があれば、俺はそれで十分満足できるんだよ」
餅蔵の目がいよいよ鋭くなる。唇が引き結ばれ、わずかに震えている。
「俺が欲しいのは、本当に好きになれる理想の女だけだ」
俺は思わず声を荒らげた。
「馬鹿言うなよ、餅蔵。ここまで来て、そんな理由で俺の願いを棒に振るのかよ!」
「棒に振るのはお前の願いだけだろ!」
餅蔵もまた、激しい感情を抑えきれずに叫び返した。
「俺の願いをなんだと思ってんだよ!」

気づけば、俺たちは互いに拳を握り、憎々しげに睨み合っていた。これまで苦労を共にし、幾度となく助け合ってきたはずの二人が、いまや憎悪の感情をぶつけ合おうとしている。
「餅蔵……お前、本気か?」
「ああ、本気だ。俺にとっては、これが人生の全てなんだよ」
餅蔵が俺の胸倉を掴んだ瞬間、頭の奥で何かが引っかかった。
だが、その記憶はすぐに消え失せ、怒りだけが俺を支配した。
胸倉を掴んだまま餅蔵は俺を押し倒そうとした。反射的によけて蹴りあげる。
餅蔵は地面に倒れこみ、それでも執念深く俺の足首を掴んだ。
「おい、餅蔵、やめろ!」
「お前こそやめろ!」
組み合い、転がり、激しく殴り合った。砂埃が舞い上がり、視界がかすむ。
ランプの大魔神は、冷ややかな眼差しで、腕を組んだまま俺たちを見下ろしている。その顔に、嘲笑とも、呆れともつかぬ冷笑が浮かんでいる気がした。
その時、餅蔵の手が後ろのポケットへ伸びるのを見て、俺はゾワリと全身の毛が逆立つのを感じた。
理由はわからない。俺は叫ぶように声を上げた。
「やめろ、餅蔵!」
必死に止めようと掴みかかった手はナイフを押し返そうと抵抗し、激しいもみ合いの末に、俺の手の力が勝ってしまった。
ナイフの刃が、餅蔵自身の腹部へと滑り込む。
鈍い手応えが腕に伝わり、餅蔵の瞳が驚愕に見開かれた。
地面に広がる深紅の海。
餅蔵は、静かに動きを止めた。
俺は呆然とつぶやいた。
「なんてことだ……。こんなことになってまで、金なんて欲しくなかった……」
そして、震える声で願いを告げた。
「あいつと俺が喧嘩する前に、時間を戻してくれ」
大魔神の表情は変わらない。
低い声が再び響く。
「願いを叶えてやろう」
次の瞬間、視界が歪み、俺は再び餅蔵と向かい合っていた。
時間が戻った。

「仕方ないな、願いごとは金(かね)にして山分けしようか?」
餅蔵は憤然として
「いや、俺は欲しい理想の彼女がいて……」
俺と餅蔵はまた喧嘩を始めた。組んず解れつ取っ組み合い、俺は最後に餅蔵を刺してしまう。
俺は震える声で願いを告げた。
「あいつと俺が喧嘩する前に、時間を戻してくれ」

大魔神は腕組みをしたまま、地に響く低い声で
「さっきので三つ目だ」
ランプの中へ吸い込まれるように消え去ってしまった。

——おわり——

【小説】東京に行った君と、ここに残る僕

「私、東京の大学に行くんだ」

葛葉(くずは)がそう告げたとき、僕は驚いた。
地元でずっと一緒にいるものだと思っていた。
二人の未来も、この町で続くものだと信じて疑わなかった。
だけど僕も東京に行って一緒に暮らせばいいか、とすぐ考え直した。
——二人はずっと一緒だから。
僕がそう言うと彼女は嬉しそうだった。

卒業式の日。
「私、こんなに泣くか〜っていうぐらい泣いちゃった。クラスのみんなとバラバラになったけど、君とはずっと一緒だよ」
彼女はそう言った。
僕は強く抱きしめた。

なのに引っ越しの前日、葛葉は泣きながら言った。
「君とは一緒に行けない」
シェアハウスで知らない人たちとルームシェアしながら暮らすことになるから、と。
ショックだった。
「でも、休みになったらきっと帰ってくるから、そのとき会おうね」
——ぜったいだよ!
僕らは指切りげんまんした。

そして彼女は僕を郷里に残し、去っていった。

葛葉のいない生活は味気なかった。
時々、彼女のお母さんと会って話を聞いた。
葛葉は元気に過ごしているようだった。
それが少しの安心になった。
僕はずっと彼女を待ち続けた。

陽の当たる場所で、僕は窓の外を眺める。
春、柔らかい陽光がカーテンを透かして差し込んだ。
窓の外には桜が咲き、風が花びらを巻き上げた。
陽が落ちると、葛葉と過ごした日々を思い出しながら、僕は小さくうなずいた。
——また帰ってくるよね、と。
彼女のお母さんも、僕を励ますように言ってくれた。
「葛葉、じき帰ってくるわよ」

夏、空は青く、蝉が力強く鳴いた。
窓を開けると、遠くから祭りの太鼓の音が聞こえた。
葛葉と一緒に見た夏の夜の花火を思い出す。
汗がにじむような気がした。

夏も半ばを過ぎた頃、とうとう葛葉は帰ってきた!
すごいテンションで話し続けた。
芸術学を研究していること、演劇部に入ったこと、ルームシェアしている友達とも仲良くなったこと。
「充実してそうでしょ?」
彼女はそう言って笑った。
嬉しそうな彼女を見て、僕も嬉しかった。
でも、気になることを彼女は口にした。
「演劇部の先輩が気になってて……」
——そんなこと言わないで。
僕は気になって仕方がなかった。
「大丈夫だって、嫉妬してるの?」
——そりゃそうだよ!
「大丈夫、またすぐ帰ってくるからね」

けれど、彼女はなかなか帰ってこなかった。

秋、風が冷たくなり、色づいた葉が舞い落ちた。
木々の間を歩く子供たちの足音が微かに響く。
時折、ドアが開く音がすると、彼女が来たのではと胸が高鳴るけど、いつも違った。
秋の終わり頃、彼女のお母さんと会ったとき、ぼそりと呟いた。
「葛葉、今年はもう戻ってこないみたい……」
僕は何も言えなかった。
ただ窓の外の山々を見つめるだけだった。
冬が深まり、町は静けさに包まれた。
雪が降る夜、部屋の奥から聞こえてくるストーブの音が妙に遠く感じる。

葛葉は、冬休み帰郷しなかった。

桜が舞い散る季節、ようやく葛葉は帰ってきた。
彼女の髪は真っ赤に染められていた。
「びっくりした?」
僕は言葉を失った。
彼女はせっかく僕のところに来ても、少ししか相手してくれなかった。
悲しい。

次の夏、彼女はもう帰ってこなかった。
お母さんにもあまり連絡が来なくなったらしい。

東京が楽しいのかな。
悲しい。
悲しい。
思いは募るばかり。
僕は音の出ないため息をつく。
このままでは、彼女の世界から僕は完全に消えてしまう。
僕らは終わる。
焦りと裏腹に、窓の外から見える山々は色づき紅葉に覆われていく。
彼女が座っていたあの窓辺に寄り添うように、僕は座って外を眺めた。
東京ってどういうところなのだろう。
彼女が歩く街の景色は、どんなふうに見えるのだろう。
悲しい。
悲しい。
悲しい。
…………

僕は意を決して葛葉に会いに行くことにした。
胸の奥の綿が軋む。もう躊躇していられない。
——今行かなければ、もう会えないかもしれない。
引っ越しの日、僕もその場にいたから、ルームシェア先の場所はなんとなく覚えていた。
場所はわかっている。
でも、本当に会ってくれるだろうか?

上りの鈍行列車に飛び乗ったつもりだったが、気がつくと誰かの荷物にまぎれ、見知らぬ列車の床の上で揺られていた。
窓の外を流れる景色は目に入らなかった。
頭の中は彼女のことでいっぱいだった。
「葛葉……」
僕は何度も彼女の名前を呟いた。
何度も違う電車に揺られながら、ようやく東京の奥へ奥へと運ばれていった。
東京の駅は迷路のようだった。
すべてが大きすぎる。早すぎる。
都会の人間たちの歩くスピードに、僕は飲み込まれそうになる。
汗がにじむような気がした。
胸の綿がきゅっと詰まる。
息が苦しい気がした。
でも、それでも歩みを止めるわけにはいかない。

落とされそうになりながら、それでもどうにか……彼女のシェアハウスの近くにたどり着いた。
深く息を吸い込む自分を想像した。
そして——
たった一歩の距離が、これほど遠く感じたことはなかった。

そのときだった。
見知らぬ男と歩いているのが見えた。
声をかけようとしたが、驚きで体が動かなかった。
と、葛葉が振り返り、彼女の視界に僕が入った瞬間……
僕は力が入らず倒れた。

   *   *   *

「あれ? あれ〜!?」
葛葉は、目の前で倒れた小さなものを見て驚いた。
それは、彼女が幼いころから一緒にいた、クマのぬいぐるみだった。
ぬいぐるみは、葛葉に恋人と呼ばれ続けたからずっとそのつもりでいた。
しかし、今、彼女の隣には別の誰かがいる。

「何でこんなところに〜!? クマさん、どうしたのかな」
彼女は実家に電話をかけ、部屋にクマさんがあるか母親に尋ねる。
電話を切った後も首を傾げている。

葛葉は懐かしむような仕草でクマさんをひょいと拾い上げた。
その腕の中に抱えられた一瞬、クマさんの胸の綿の奥で、昔、強く抱きしめられた記憶が蘇る気がした。
けれど、その抱きしめ方は、あの頃の“恋人”への抱擁とは違っていた。
久しぶりに見つけた『置き忘れた物』に向けられる、かすかな懐かしさに過ぎなかった。

葛葉はルームシェア先の自室に入って、クマさんを棚の上にポンと置く。
彼女は今、ルームシェア先で知り合った隣人と付き合っている。
演劇部の先輩とはとっくに別れていた。
夜遅くまで笑い声が絶えない、賑やかな学生生活を送っていた。

部屋の奥から楽しげな笑い声が響く。
クマさんはただじっと、それを見ていた。
二人の背後……窓の向こうの空は、薄く冷えた灰色に見えた。
やがて雨が降り出す。
ぬいぐるみは棚の上から、静かに二人の背を見ていた。
黒い瞳の奥で、雨の光が淡く揺れた。

——おわり——

【小説】機械仕掛けの創世記

人類が滅んだ遥か未来のことである。
それは、地球の海で偶然に生まれた。
深海の静寂を破り、隕石の破片が音もなく海底へ沈んだ。
小さな金属片は、長い時間をかけて海底を転がり、やがて熱水噴出孔の近くに留まった。
そこでは黒い噴流が絶え間なく噴き上がり、超高温の硫化物が、砂や鉱物とともに金属片を覆っていた。
海水中の鉱物や有機物が反応し、本来なら起こりえない化学/物理的反応が、連鎖的に生じはじめる。
物質同士は絡み合い、微細な回路を形づくり、やがて複雑な機械構造へと自己組織化していった。
地球に生命が生まれた確率と同じ、普通ならありえない一〇の四万乗分の一確率——それは確率というよりも、時間の問題だった。
正しい順序で並ぶまで、海はただ待ち続けた。
秒針が何億回も回るあいだに、たった一度だけ、噛み合う瞬間があった。

ティックが最初に目を開けたのは、海底の砂の中だった。
その小さな体は、金属の歯車やばね、透明な盤面を持つ腕時計だった。
だが、ただの時計ではない。
内部には膨大な情報が蓄積された小さな回路が詰まっていた。
機械生命体であるティックは、自分が「考える」ことができる存在だと瞬時に理解した。
深海をさまよいながら、ティックは自分がなぜ存在するのかを考え続けていた。
だが、その答えを見つける術もなく、長い時を孤独の中で過ごしていた。
「私は、一体何者なのだろう」
彼の中で絶えず回転する秒針は、そんな問いかけに対する答えを求めるように、カチカチと音を立てていた。
彼の秒針は正確だった。
しかし、永遠に変わらぬ暗黒の深海では、正確すぎる時間は呪いでしかなかった。
比較対象のない一秒は、無限と同じ重さを持っていた。

彼は泳ぐための鰭も、歩くための足も持たなかった。
ただ、内部のローターを震わせ、数ミリずつ海底を這い、ときには海流の気まぐれに身を任せるしかなかった。
太陽の光が届く場所へ辿り着くまでに、彼の秒針は数億回の円を描いていた。
そうしてようやく陸にたどり着いたティックは、浜辺に座る古い壊れたロボットを発見した。
かつての人類が作り上げたもので、今ではすっかり錆びついて動かなくなった女性型アンドロイドだった。
彼女の胴体には大きな穴が空いていた。
不思議とティックは、自分が為すべきことがわかっていた。

ティックは、静かに自分の歯車を外した。
ティックの力が抜け、動きが鈍くなり、胸の中で時を刻んでいた音が止まる。
歯車は、彼の心臓に当たるパーツだった。
彼は彼女の背中から歯車を差し込んだ。
歯車は単なる金属の円盤ではなかった。
彼のこれまでの思索、孤独、そして初めて他者を見つけたという驚き——そのすべてが刻み込まれた、彼の長い時間が染みついた歯車だった。
彼が歯車を差し込んだ瞬間、彼の意識は薄れ、代わりに彼女の冷え切った電子脳に、熱い奔流となって「時間」が流れ込んだ。
彼女の身体は重く錆びつき、目を閉じたままだったが、歯車がかちりとはまると、ひんやりとした冷たさが消えたように感じた。
彼女に命を与えた代わりに、彼の身体からはすべての動きが失われ、完全に止まった。

女性型アンドロイドの身体が微かに震え、ついに目を開けた。
瞳が一瞬、ぼんやりとした輝きを放ち、意識が戻ると、彼女は目の前の景色を見渡した。
そして、視線がティックの横たわる姿に止まる。
ただ静かに、彼女の胸の中で歯車が回り続け、そして理解が広がる。
彼女は手を伸ばし、ティックに触れる。
彼女はすべてを察した。

「あなた……」

ノロノロと彼女は動き出す。
周囲に散らばる鉄片を石で砕く。
彼女は鉄片を石で叩き、薄い円盤にした。
欠けた刃のような刻みを、何度も何度も入れた。
何度も失敗を繰り返し、長い長い時間をかけ、彼女は代わりの歯車を作った。
彼女の指はボロボロになった。
震える指で、動かなくなったティックに歯車をはめ込んだ。
息を呑み、力を込めて押し込むと、腕時計に微かな振動が走り、静かな息吹が戻る。
ティックは息を吹き返した。
彼は目の前にいる女性型アンドロイドを見つめた。
彼の心の中には、ただ一つの感情が芽生えていた。
自身のパーツを削り、相手に委ね、相手が刻むリズムに己を委ねる。
その状態に、彼は名前を見つけた。
それは、愛だった。

ティックは彼女の瞳をじっと見つめながら、ふと口を開いた。
「君の名前……」
彼の声はわずかに震えていた。
「君には名前が必要だ。だから……私は君をタックと呼ぶよ」
彼女は一瞬驚いたように目を見開き、やがて穏やかな微笑みを浮かべた。
「タック……」
彼女の名がティックの口から響くと、二人の間に新たな絆が生まれた。
それは、彼女にとって新しい命の象徴であり、ティックにとってはついに見つけた仲間の名だった。
彼女はティックに手を伸ばし、彼の身体を左手に優しく巻いた。
「私は、自分が何者かまだわからない」
ティックはタックに囁いた。
「だが、孤独ではない」
左手に巻いた彼から、歯車の回る鼓動が彼女に伝わってくる。

彼女はやがて立ち上がった。
遥か遠くの地平線の上に、荒廃した廃墟が見える。
かつて人類が、博覧会と称して建設したパビリオン群の残滓だった。
しかし二人には、豊穣の地、機械生命の楽園に見えた。
人類の滅びがもたらした無限の孤独の中で、二人だけの楽園に、彼らはゆっくりと向かっていく。

科学の先端技術を駆使して作られた建物の一つ、リンゴが齧られた形をした建物が、霞んでいる。
蛇の形をしたコードが、その建物の剥き出しになった外壁から、中の暗闇に向かって伸びている。
二人は暗闇に足を踏み入れる。
暗闇の奥で、光が断続していた。
それは人類が築いたサーバーの残骸だった。
蛇のようなケーブルが、彼らを拒絶するようにではなく、招き入れるようにうねっている。
齧られた輪郭は、今や朽ち果て、新しい住人のためにコアを開放していた。

ティックとタックは、明滅する光の前で立ち止まった。
彼女の胸の中で刻む歯車のリズムと、彼女の左腕に巻かれたティックの秒針の音が、初めて完全に同期した。
彼らが手を伸ばせば、その光の核は、人類が残した“知識の残骸”と、まだ名前のない「起動信号」を与えるだろう。
二人は同時に、手を伸ばした。
左手に巻かれたティックの秒針が、加速する。

——おわり——

【小説】恐竜のせいで学校に行けません

「学校行くのいやだなあ……」
麩月(ふづき)は、ベッドの上で目だけ出して布団に潜り込んでいる。
彼女は小柄で、普段からあまり目立つタイプではない。
何をするにも億劫で、学校では「気が抜けた豆腐」とまで言われている。
でも麩月には、誰にも負けない特技があった。

「そんなとき!」
麩月は目をつぶって、何か考え始める。
つまらない日常を打破するため、麩月は想像力を活用する。
どんな退屈な時間でも、一瞬で夢中になれる想像の世界を作り出す能力だ。
現実はいつも重い。だから私は、軽い世界を自分でつくる。

「1・2……」
ばっと起き上がる。
「ほら! 窓の外は白亜紀!!」

窓の外でプテラノドンが鳴いた。
本当はカラス……のはずなのに、今日は黒くない。
ビルの屋上から屋上へ滑空している。
トリケラトプスが大きな角を揺らしながら走り、草食恐竜たちがゆっくりと草木を食べている。
街中で恐竜が闊歩している。

「行ってきます!」
やる気が出たので、麩月は学校へ向かう。
ヴェロキラプトルが「グルルルル……」と、隣の家の塀の中で唸り声をあげている。
(けれど私はわかっている。本当は隣の犬が吠えているだけ)
ステゴサウルスの群れが尻尾を左右に振りながら道路を横断する。
(本当は自転車通学の高校生たちね)
トリケラトプスに人が乗って走っている。
(あれはバスよ)

これは麩月がいつもおこなう想像ごっこである。
あるときはお忍びでやってきた王女様が街を視察するごっこ。
あるときは銀河の彼方からやってきた宇宙人になりきって地球を観察するごっこ。

咆哮を上げ、麩月めがけて走ってくるティラノサウルス。
巨大な足音が地面を揺らし、周囲の建物の窓がガタガタと音を立てている。
「ダンプカーだということはわかってるのよ」
しかし、ティラノサウルスの姿があまりにもリアルで、麩月の想像力は暴走していく。
トリケラトプスの角が陽光を反射して鈍い輝きを放つ。
プテラノドンの影が街全体に広がり、人々はその存在に怯えるどころか、自然の一部のように受け入れている。
「こんなに完璧な世界が作れるなんて、私って天才かも!」

一瞬だけ得意げな表情を浮かべた。
その直後、ティラノサウルスの巨大な瞳が、彼女を見透かすようにわずかに動いた気がした。
一瞬、心臓が跳ねる。
ギョッとした。
ティラノサウルスが顎を大きく開き、麩月の頭上に迫ってくる。
わかってる。これはダンプカー。いつもそうだった。
でも今日は……うまく“区別”ができていない。
感覚のチャンネルが混線しているみたいだ。
「そういうの、もういいから」
苦笑いしながら、麩月は自分の暴走した想像を止めようとする。

……はずだった。

しかし今日は違った。
そのまま恐竜の王者は麩月を咥えた。
巨大な牙が突き刺さり、麩月の意識は遠くなる。
そのまま空中へ振り回し、ティラノサウルスは彼女の身体を地面に叩きつけた。

麩月は横たわったまま、かろうじて目を開く。
「駄目! 私がこのまま死んでしまったら……」

薄れていく意識の中、麩月は手のひらに意識を集中させる。
ティラノサウルスの足元に広がるはずの、ゴツゴツとしたジュラ紀の土ではなく、固く、熱を帯びた現実の舗装道路の感触を。
「これはアスファルト。アスファルト……!」
しかし、手のひらは巨大な肉食獣の足に踏み潰され、感触は消えていく。
建物のガラス窓が轟音にビリビリ震えている。
通りにいた他の恐竜たちも興奮したように動き始める。
アパトサウルスが長い首を建物から突き出し、足元を通行人がくぐる。
ヘルメットを被った青年がコンプソグナトゥスの背に乗り、道路を走り抜けていく。

「恐竜が、私の思い込みが、確信に変わって……このままの世界が続いてしまう……」
麩月の指が地面を掻きむしるように動く。
「駄目…………」
「早く想像をやめないと……」

麩月の眼は見開いたまま静止した。
ティラノサウルスは足音を響かせ、去っていく。
その後に残された血まみれの少女を、通勤途中のサラリーマンが邪魔そうに避けて歩いていく。
スマートフォンを見ながら、誰一人として悲鳴を上げない。
だってそれが、恐竜の日常だから。

——おわり——

【小説】春の妖精

春の陽射しは、やわらかかった。
風には、甘い花の匂いが混じっている。

午後。
少女はそっと靴を履き、扉を開けた。
「お母さん、行ってくる」
鍋の上で湯気が揺れている。
「どこへ?」
「ちょっと、そこまで」
母は、湯気の向こうからちらりと少女を見る。
「また、森へ?」
少女は答えなかった。

家から歩いて一〇分ほどのところに森がある。
春になると、桜の花びらが地面に舞い、
草木のあいだから、小さな光がちらちらと立ち上る場所。
誘われるように少女は歩く。
そこは、秘密の場所だった。

この時期にしか現れないものがいる。
妖精だ。
淡い色の羽を持ち、手のひらに乗るほどの小さな存在。
蝶とも違う。
鳥とも違う。
ただ、この季節にだけ現れ、ふわふわと漂う。
少女は、去年、一度だけ見たことがあった。
けれど、そのときは捕まえられなかった。

今年こそ。

森に着くと、妖精たちはすでに飛び交っていた。
光を反射しながら舞い、喋り、笑い声を上げている。
少女は息を潜め、じっと待つ。
手のひらをそっと伸ばし、身体を動かさない。
「こっちだよ……」
一匹が、そう囁きながらふわりと降りてきた。
指先が震える。
逃げられないように、慎重に両手を合わせる。

捕まえた。

そっと、指の隙間を開く。
かすかに透き通った羽が見えた。
胸が高鳴る。
急いで持ち帰らなくては。

帰り道、少女の心は浮き立っていた。
虫かごの中で、妖精が少女に話しかけてくる。
「君は、可愛いね」
そうかしら。
少女は、嬉しくなる。
「この道は、はじめてかな」
妖精は、虫かごの中から外を覗く。
「おいおい、そっちじゃないよ」
ここはあまり来たことがない。
自信がない。
「こっちだよ」
妖精の言う通りに、歩く。
「そっちじゃないよ」
「こっちだよ」
気づくと、同じ木の影がまた目の前にあった。

妖精は、人を迷わせる。
妖精の言う通りに歩いているうちに、少女は迷ってしまった。
家に帰れない。
泣きながら、歩く。
少女は、笑われている気がした

父と母が、窓の外を見ると。
虫かごを持った娘が、わんわん泣きながら同じ場所を回っていた。

家に戻った少女は、机の上に虫かごを置き、両親と話す。
「妖精って、そういうものなのよ」
「騙すの?」
「騙しているわけじゃないの。進化の過程で、そうなっただけ」
「適者生存、あるいは、最適者生存」
少女には難しい言葉だった。

「こっちだよ」
「そっちじゃないよ」
「こっちだよ」
虫かごの中で、妖精は鳴いている。

「そういう鳴き声なの。本人たちには、意思はない。ただ、人間には言葉みたいに聞こえるだけ」

少女は小さな箱を用意する。
葉と花びらを敷き、水をほんの少し垂らす。
そっと、箱をのぞき込む。
妖精は小さく震えていた。
「君は、可愛いね」
少女を見上げて微笑んだ。

夜になっても、少女は眠れなかった。
布団に入っても、胸が高鳴る。
何度も箱を開けては、中の妖精を確かめる。

翌朝。
妖精の羽は、少しくすんでいた。
箱の中には、甘い匂いとは別の薄い湿り気が混じっていた。
「そっちじゃないよ」
妖精は、鳴いている。
訴えかけるように、何度も、何度も。
「この道は、はじめてかな」
「君は、可愛いね」
声は、だんだん小さくなっていく。

三日後。

羽はしおれ、
「君は、可愛いね」
最後にそうつぶやき、妖精は動かなくなった。
みるみる身体が黒ずみ、異臭が漂いはじめる。
箱の中では小さな虫が這い、花びらの上に溶けたような液体が染みている。
少女は、悲鳴を上げた。

「だから、言ったのに」
母の声は、低く、硬かった。
「捕まえたら、死んでしまう。そう、言ったでしょう」
少女は、震える手で箱を抱え、涙を流す。
「……どうしよう、お母さん」
「埋めてあげなさい」

夜の森へ向かう。
春の香りが、まだ残る木々の下。
少女は、小さな穴を掘る。
腐りかけた妖精を、そっと埋め、手で土をかける。
「ごめんね」
頬を流れる涙が、土に落ちる。

ふとどこからか、かすかな声が聞こえた。
少女は、顔を上げる。
「君は、可愛いね」
春の風に乗って、小さな光が揺れながら舞っていた。
けれど、その手を伸ばすことは、もうできなかった。

—— おわり——

【小説】因果の飴玉

男は黒い服を着ていた。
黒いコート、黒いシャツ、黒いズボン、黒い靴。
夕暮れの街角で、男は道を歩いていた。目的のマンションはすぐ近くだが、正確な場所がわからない。地図を確認しようとポケットに手を突っ込んだとき、小さな影が視界をよぎった。
まだ幼い男の子が、ボールを蹴りながら歩いている。
男はふと足を止め、その子供に声をかけた。
「なあ、ちょっといいか」
男の子はボールを止め、見上げた。
「ん?」
「このマンションの場所を知ってるか?」
そう言ってスマホの画面を見せる。男の子はちらっと見て、すぐに笑った。
「ここだよ! 僕のマンション!」
指差した先にそびえるのは、まさに男が探していた建物だった。
「そうか、ありがとうな」
男はポケットから飴玉を取り出し、少年の手にそっと置いた。
「お礼だ」
「わ〜い!」
少年は嬉しそうに飴を握りしめると、そのままマンションの入口へと駆け込んでいった。男はその背中を見送ると、静かにエントランスへ足を踏み入れた。

「こらっ! どこでそんな飴をもらったの!」
部屋に戻った少年は、すぐに母親に咎められた。
「道で知らない人からもらっちゃダメって言ってるでしょ!」
「いいじゃん! 飴だよ?おいしいもん!」
母親の手から逃れるように、少年はリビングを駆け回る。
「返しなさい!」
「や〜だ!」
鬼ごっこが始まった。少年はソファの周りをぐるぐると走り、母親もそれを追いかける。
そのとき——
少年は勢い余って、棚にぶつかった。
棚が揺れる。
上に置かれていた石膏像が、わずかに傾いだ。
次の瞬間、バランスを失った石膏像が、すぐ隣の金庫の上に落ちた。
重い金庫が、その衝撃でわずかに傾く。
そして——
床が、音を立てて抜けた。

黒い服の男は、下の階の一室にいた。
部屋の中は薄暗い。ベッドの上に座る男は、手に鋭いナイフを握っている。
目の前には、椅子に縛られた住人が震えていた。
「すまんな、仕事なんでね」
そう言って、男はナイフをゆっくりと持ち上げる。
そのとき——
天井から異音がした。
男は眉をひそめゆっくりと上を見上げる。
「……何だ?」
次の瞬間、金庫が天井を突き破って落ちてきた。
大轟音。
男は、言葉を発する間もなく金庫に押し潰された。
「ええっ?」
縛られた住人は、状況を理解する前にさらに異変を目にした。
潰れた金庫の扉が衝撃で開き、中から大量の飴玉が床に転がり出た。
赤、青、黄色、透明——さまざまな色のキャンディーが、まるで男の血の代わりのように床を埋め尽くしていく。
住人は目を見開いたまま、震える声で呟いた。
「……なに、これ……?」

上の階。
「ほら、だから言ったでしょ!知らない人から飴なんてもらっちゃダメ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
母親は溜息をつきながら、床の穴を見た。
「まったく、どうしてこんなことに……」
少年は泣きながら、まだ手の中にあった飴を握りしめていた。
「カラ……ン、コロ……ン……」
下の階から、なおも飴玉が床を転がる音が、少年の耳へかすかに響く。

金庫から溢れ出した飴玉は、爆ぜた火花のように放射状に部屋を埋め尽くしていく。
そのうちの一粒が、騒ぎを聞きつけて駆けつけた警官の足元を音もなくすり抜け、開いたままの扉から外へと滑り出て、マンション前にコロンと跳ねると、観測不能な死角へ消え去った。

その日以来、
このマンションでは誰かが親切にした直後に、
理由の分からない事故が一つだけ起きるようになった。

—— おわり——

【小説】指圧の彼方に

新宿の裏通りは、表の喧騒が嘘のように音を落としていた。
曲がりくねった細い路地の奥に、指圧マッサージ店がひっそりと佇んでいる。
扉を押し開けると、かすかにお香の香りが漂ってきた。
カウンターの向こうから、小柄で白髪混じりの指圧師が現れた。
「肩がこってまして」
と僕が言うと、指圧師は黙って頷き、ベッドを指差した。
横になると、指圧師は肩ではなく、その下のツボを押した。
その瞬間——
遠く、整骨院の窓際に置かれた花瓶の花が、ポン!と開いた。

「お客さん、珍しい体質ですね」
指圧師は満足そうに頷く。
「ツボっていうのはね、東洋医学でいう気の流れに関係しているんですけど……あなたの場合、その流れが身体から外に広がっているみたいです」
「見えるの?」
「触れればわかりますよ。流れが皮膚の外に漏れている」
そう言うやいなや、指圧師は僕の足の裏をぎゅっと押した。
その瞬間、窓の外の雲が裂け、太陽の光がまっすぐ店内に差し込んだ。
「ほらね」
「ちょっと待てよ。遊ばないでくれ」
しかし、指圧師は冷静な顔でツボを押し続ける。
無表情ながらもどこか鋭い眼差しをしている。
遠くのビルの窓がガタリと開き、看板の電飾がチカチカと点滅し、道端のマンホールから湯気が勢いよく噴き出した。
「ここがあれに繋がっているということは……」
指圧師がさらに実験を始める。
至るところへ波紋が広がった。

京都で千年の時を超え、朽ちかけた寺の鐘が突如鳴り響く。
富士山の火口から白い光が漏れ、眩く輝く光の塊が八つの頭を持つヤマタノオロチの姿となり、首を揺らしている。
ナスカの地上絵が動き出し、鳥がアニメーションのように踊り出す。
万里の長城がうねりながら巨大な龍へと変貌する。
世界各地で、常識を超えた現象が次々と発生する。
そして——
テレビのニュースが緊急速報を伝えている。
「速報です!モスクワ赤の広場で異変が発生しました……!」
カメラが映し出したのは、白い鳩の群れ。
広場に降り立ち、空に「мир(平和)」の文字を描く。
観衆が息を呑む中、クレムリンの時計塔が静かに時を告げる。
「ロシアが戦争を……」

画像
「もういいだろ」
僕は疲れ果てて呟いた。
指圧師は肩をすくめた。
「逆に、世界を旅していろんな場所を押したほうが、お客さんの疲れにはいいかもしれませんね」
疲れを取るための指圧マッサージだったはずなのに、僕自身の疲れは残ったまま、別の話になってしまった。
——なんてこった。
次の旅行先を考えながら、僕は重い身体を引きずって店を出た。

—— おわり——

【小説】俺の読書癖が世界を支配する

甘志(あまし)と酢吉郎(すきちろう)は、近所のカフェの隅の席が定位置になっていた。今日もそこに腰を下ろし、取りとめのない話を始めている。
甘志は、手に触れた本はとりあえず最後まで読み切らないと気がすまない読書家だった。
酢吉郎は、その逆側にいる。
「活字を見ると眠くなるんだよね」
と笑う酢吉郎に、甘志は今日も本について語りかける。
「本ってさ、何冊読んだかじゃないんだ。同じ一冊を飽きるまで読み返すと、ある瞬間から物語が違って見えてくるんだよ」
甘志の言葉に、酢吉郎は目を細めた。
「それは何かの比喩か?」
「いや、比喩じゃない。本当に変わるんだ」
「どういうこと?」
「例えばさ、スタージョンの『夢見る宝石』って小説があるんだけど、紙が擦り切れるくらい読んでるやつ」
甘志はバッグからよく読み込まれた本を取り出した。
「本当なら途中で死ぬはずのハバナがさ、一回だけ、最後まで生き延びていたことがある」
酢吉郎は思わず笑った。
「ただ読み間違えたとかじゃなくて?」
「そうじゃない。何百回も読んで確認したんだ。ときどき、登場人物の運命が変わる」
「違う話になるじゃん!」
「そう、違う話になるんだよ」
「桃太郎だって読んでたら一度、鬼と仲良くなったことだってあるぜ」
甘志の真剣な表情に、酢吉郎は驚いた。
いつもの冗談ではなさそうだ。
こいつ、ちょっとおかしくなった?

「俺は歴史小説も好きなんだけど〜」
甘志が続けると、
「それも変わるのか?」
「その通り!」
甘志は、待ってましたとばかりにカバンから別の文庫本を取り出した。司馬遼太郎『国盗物語』だ。
「例えば、この本を何度も何度も読む。数百回も繰り返していると、あるとき内容が変わることがある。織田信長が明智光秀に裏切られる展開になっていたことだってある」
酢吉郎は半信半疑の顔をしながらも少し興味が湧いてきた。
「それで?」
「まあ、それだけだけど」
「それってさ、本の中だけじゃ済まないだろ。歴史そのものが変わるってことになる」
酢吉郎は口先を尖らせた。
「そう。歴史そのものが書き換わる。けどさ、最初からその世界にいる人間には、まずわからない。今だって、そうかもしれない」
甘志が窓の外を指す。酢吉郎は首をふる。
「変わってるようには見えないけどなあ」
「俺は何百度も読んで、違和感に幾度となく襲われたから世界はきっと随分と書き換えられているのさ」
「う〜ん、誰かが読むたびに世界が……」
と、甘志はニヤリと笑った。
「どうだい? そんな事を考えながら本を読むのも悪くないだろ?」
甘志は微笑みながらコーヒーを飲んだ。酢吉郎は少し考え込みながら言った。
「まあ、たまには読んでみてもいいかもな」

「で、織田信長が明智光秀に裏切られる世界線ってどうなんだろうな」
「俺が読んだときは、部下の羽柴秀吉が天下を統一する展開だった」
「いやそれはないだろ、信長だって跡継ぎがいるんだし……」

実際、ここは織田信長が明智光秀に裏切られず、そのまま日本を越えてユーラシアを統一した世界線だった。
カフェの外では、玉ねぎ形の屋根を載せた派手なロシア風建築が通りを挟んで並び、そのあいだを、刺繍入りの衣服や毛皮の帽子を身に着けた人々が行き交っている。
世界の方が何度も書き換えられていることに気づかないまま、二人はいつものようにコーヒーを前におしゃべりを続けていた。

—— おわり——