朝、庭に出ると、大きな花の中で赤ん坊が泣いていた。
花弁は夜露を含んで重く、中心に向かってゆっくりと開いている。
その奥で、赤ん坊は土に触れながら、声を震わせていた。
メロ美(めろみ)は立ち止まった。
驚きはなかった。
こどもが欲しい、と長いあいだ思っていた。
だから花の中からこどもが生まれても、不思議だとは思わなかった。
世界は、ときどき説明を省略する。
それを責める理由はなかった。
赤ん坊を抱き上げる。
温かい。
花の匂いが、肌に移る。
土と甘さと、わずかな鉄のような匂い。
家に入ると、ラジオがついていた。
誘拐犯が逃走中だという。
赤ん坊を連れたまま、姿を消したらしい。
「途中で置き去りにした可能性もあります」
メロ美は音量を下げた。
誘拐された子が、庭に置かれることはある。
人は追い詰められると、花のことまで考えなくなる。
昼前、宅配便が来た。
差出人不明の箱は空で、緩衝材だけが詰められていた。
赤ん坊サイズの大きさだった。
運ぶ途中で中身が落ちたのかも、とメロ美は思った。
昼過ぎ、町内放送が流れた。
未婚の妊婦が行方不明になっているという。
名前は言われなかった。
自分のことか……とメロ美は不安になったが、よく考えると、自分はすでに結婚していたような気がしてきた。
午後、白衣の男が訪ねてきた。
自分は発明家だと言い、人造人間の赤ん坊が逃げたのだが、見なかったかと尋ねた。
人造人間は内部に生体部品と回路を持っている。
けれど、見た目は本物と区別がつかない赤ん坊だという。
メロ美は首を傾げた。
男は何度も礼を言い、帰っていった。
夕方、近所の老人が庭を覗き込み、
「今は、勝手に赤ん坊が生まれる時代だ」
と、根拠のないことを言った。
隕石に付着した微生物が、哺乳類の形を取ることがあるという。
それが赤ん坊の姿になっても不思議ではないとか、なんとか。
近所でサイレンが上がったり下がったりをくり返していた。
SNSで検索してみると、近所の実験施設から化学物質が流出したらしい。
化学物質由来の、地球上の生命とは別系統の新しい生命が生まれる可能性があるので注意してください、とのことだった。
それが、赤ん坊の姿で現れることもまったくあり得ない話ではないと、匿名の誰かが書き込んでいた。
夜、夫が研究所から戻った。
彼は植物を遺伝子操作する研究をしている。
庭の花を見て、少し考え込んだ。
「昨日は犬が生まれた」
そう言った。
「だから、人間でもおかしくはない」
メロ美は頷いた。
理由が与えられると、世界は落ち着く。
理由が多ければ多いほど、安心する。
食事のあと、夫とニュースを見ると、赤ん坊の話題が扱われていた。
違法な里親マッチングや、契約によって育てられ、解除後に行き場を失う子どもたちの問題。
宗教団体による儀式的な養育の噂や、並行世界から迷い込んだ存在ではないかという仮説。
さらには、高次元の存在が移動の途中で落とした「遺失物」が、こちらの世界では生命の形を取ることがある、という話まで。
……どれも、関係がありそうな話だった。
夜、赤ん坊を布団に寝かせる。
胸に耳を当てると、規則正しい鼓動の奥に、微かな振動がある。
音というより、感触だった。
皮膚の下で、何かが応答している。
メロ美は、ふと気づく。
家の中が、静かすぎる。
夫の気配がない。
夕方の会話が、現実だったかどうか、確信が持てない。
そのとき、腹の奥に、鈍い感覚が残っていることに気づく。
痛みではない。重さでもない。
そこだけ温度が抜けているような、薄い空洞。
何かが通り過ぎたあとの、空白のような感覚。
風呂場の床の赤黒い染み。
一度もこちらを向かない夫の背中。
裸足で出た深夜の庭、泣き叫ぶ塊を花壇の上に置く。
指先に残る泥の冷たさ。
覚えのない映像が、断片的に浮かぶ。
もしかすると、これは現実ではないのかもしれない。
ひとりで暮らす部屋。
庭も、花も、夫も、赤ん坊も。
ただ欲しかったから、ここに並んでいるだけではないか。
メロ美は、赤ん坊の手に指を差し出す。
ぎゅっと握り返される。
その力は弱く、しかし確かだった。
赤ん坊が泣き出す。
メロ美は抱きあげる。
腕の中で空気が震え、泣き声はしだいに小さくなり、やがて寝息に変わった。
静かになった部屋の中で、メロ美は目を閉じる。
自分がどこから来たのかは、うまく思い出せない。
けれど、腕の中の重さだけが、何かを知っているように思えた。
本当に、赤ちゃんはそこにいた。
――おわり――
