俺は母子家庭で育った。
母は俺が一八歳のとき、病気であっけなく死んだ。
二つ上の姉がいたが、子どもの頃からまともに話が噛み合った記憶がない。
男勝りの姉とはいつも喧嘩ばかり、しかも俺がほぼ一方的にやられていた。
一三歳のとき、俺と姉は殴り合いになり、ふたりとも病院送りになった。
それから先、関係は修復するきっかけもなく凍りつき、母の葬儀ですら目を合わせなかった。
高校卒業後、俺は家を出て上京した。
一度だけ、「家を手放すから荷物をまとめろ」と連絡が来たが、「捨てれば?」とだけ返した。
それ以来、一切連絡は取らなかった。
それから、何年もがむしゃらに働いているあいだに、長い時間が過ぎた。
ある日、姉の仕事先——防衛軍から連絡が来た。
姉が「出張中」に事故に巻き込まれ、亡くなったらしい。
正直、どうでもよかった。
連絡先すら交換していなかったし、俺の中では既に存在すら薄れていた。
親戚から喪主をするよう頼まれたが、最初は断った。
それでも押し切られ、結局引き受けることになった。
葬儀で、姉の仕事について初めて知った。
姉は防衛軍で研究をしていた。彼女が実家の近所に住んでいたことも、そのとき初めて知った。
葬儀が終わった後、姉が住んでいた部屋を整理するよう言われた。
面倒だったが、業者が来る前に何があるのか確認するため渋々向かうことにした。
部屋に入った瞬間、思わず足が止まった。
——高級マンション。広いリビング。
けれど、置かれているのはソファとテーブル、それに最低限の家電だけで、空間はやけに殺風景だった。
無機質な部屋の中で、ひとつだけ場違いなものがあった。
食器棚の上の写真立て。
手に取ると、中には小さい頃の俺が笑って写っていた。
意味がわからなかった。
なぜ、こんなものがここに?
胸がざわつくのを感じながら、処分を頼むために業者へ電話をかけ、さらに奥の部屋へ足を向けた。
四畳半の小さな部屋。
扉を開いた瞬間、思考が止まった。
——そこには、俺が上京するときに詰め込んだ段ボールやカバンが、ほとんどそのままの形で並んでいた。
黄ばんでも破れてもいないガムテープ。
埃の積もらない箱の角。
誰かが長いあいだ、ここを手入れしていた。
俺はその場に立ち尽くした。心臓が高鳴り、足元の感覚が遠のいていく。
——姉はなぜ、俺の記憶を、ずっとここに留めていたのか?
心が乱れながらも部屋を整理していると、インターホンが鳴った。
不意の来客に戸惑ったが、手を止めて扉を開ける。
そこに立っていたのは、葬儀のときに見かけた男だった。
軍の制服を着ている。
「突然の訪問、申し訳ありません」
男は軽く会釈し、静かに名乗った。
「私はお姉さんの上司でした。葬儀の際はご挨拶できず、失礼しました」
低く落ち着いた声。整った顔立ち。
そして、その表情にはどこか慎重さが滲んでいた。
「……何の用ですか?」
俺の言葉に、男は少し間を置いてから答えた。
「僭越ながら、少しだけお話をさせていただければと思いまして」
俺は怪訝な顔をしながらも、男の後ろに広がる夜の街並みをちらりと見た。
——姉の死について、軍が直接関わっているのは分かっていた。
それでも、わざわざこうして訪ねてきたということは、何か重要な話があるのだろう。
「……わかりました。中へどうぞ」
そう言って、俺は静かに扉を開いた。
「お姉さんの研究のことをお伝えしておきたいのです」
男は姿勢を正し、事務的な口調で続けた。
「彼女は『記憶の物質化』をテーマにしていました。人の記憶は脳だけにあるのではなく、関わった物質や素粒子の状態としても残り続けるかもしれない——そういう仮説です」
「そんなことが……」
「彼女はその理論を応用し、戦争や事故で命を落とした隊員たちの遺体や遺品に宿る記憶を、遺族のもとへ届けようとしていました。詳しいことは話せませんが……その研究の過程で予期せぬ事故が起こったのです。彼女は素粒子を加速させる装置の実験中に……姿を消しました」
「……消えた?」
男は静かに頷く。
「しかし、彼女のすべてが失われたわけではない」
男は黒いケースを差し出した。冷たい感触が指先に伝わる。
蓋を開けると、中には薬のカプセルほどの透明な小さな容器がひとつ、ちょこんと収まっていた。
「機密扱いですので、お持ち帰りいただくことはできません。ただ、この場でだけ、装置に封じたお姉さんの“記憶片”にアクセスしてもらうことはできます」
俺は黙ってケースを見つめた。
「これは、お姉さんの研究の成果。そして、彼女自身の記憶の一部です」
俺は静かに頷いた。
俺は透明な容器の蓋を回した。
光が溢れ、意識が引きずり込まれる——
——小さな部屋。俺と姉。喧嘩をしている。
「なんで破ったの!?」
「うるさい! 恥ずかしかったんだよ!」
俺は母子手帳を破った。
遊びに来た友達に見つかって、からかわれたのがいやで。
姉はそれを怒っていた。
奥の部屋で声なく泣きむせぶ母……姉は母のかわりに俺を殴ったのだ。
——姉が俺のためにしてくれたこと。
油っぽいおかずばかり詰まった弁当。
机の上にいつのまにか置かれていた受験用の問題集。
布団の横でうとうとしながら体温計を握っていた寝癖頭。
そんな細かいことを、俺は全部なかったことにして、ただ姉を嫌っていた。
——場面が揺らぎ、別の記憶が滲み出す。
姉はこのマンションのベランダに立ち、夜風に前髪を揺らしながら、遠くの山並みをじっと見つめていた。
「ここから、私たちが生まれ育った家のあたりが見えるんだ」
姉は、一人でここに住みながら、俺たちの生まれ故郷をずっと見ていた。
俺の荷物を眺め、ときには涙し……
最後の記憶が立ち上がる。
俺の小さい頃の写真を見つめる姉。
「お前は幸せにしているか?」
光の粒が揺れ、姉がこちらを振り返る。
「お前は……ちゃんと……生きてるか……?」
声と一緒に、姉の姿が薄膜みたいに透けていく。
消えかけた輪郭に向かって、俺はかろうじて言葉を押し出した。
「……わからない」
その瞬間、姉の口元が、ほんの少しだけやわらいだ気がした。
光が弾け、すべてが白く塗りつぶされる。
意識が浮かび上がると、俺はさっきと同じリビングに立っていた。
男はいつのまにか帰っていて、部屋には冷えた空気だけが残っている。
姉の体も声も、もうどこにもない。
それでも、この四畳半と写真と荷物には、さっき触れた記憶がまだ沈んでいる気がした。
俺はベランダに出た。
遠くに、故郷の山並みがかすんで見える。
「……バカ姉貴」
そう呟くと、風が頬を撫でていった。
—— おわり——
