月別アーカイブ: 2026年3月

【小説】丸ごと宇宙タコ

深淵の底。
そこは光さえ届かぬほどの暗がり。
水の重みに潰されることもなく、ただぽつりと浮かぶようにして、一匹のタコがいた。
タコは、静かに、そして深く、腹を鳴らしていた。
ぐうう、と。
内側からこみあげる音は、深海の静寂にあって、あまりに孤独な叫びに似ていた。

八本の足が、もじもじと揺れる。
見るからに美味そうで──いや、待て。
自分の足だ。
分かってはいる。分かってはいるのだが、空腹という魔物が、思考の端をじわじわと腐らせてゆく。
じわりと動く足の一本。
右端のそれが、ゆっくりと、口元へと近づいていく。
ぬらり。ずるり。
吸盤が肌を撫で、肉の質感が、まるで他人のもののように錯覚される。

「……まずは、一本だけ」

つぶやくように、タコはそっとその足を口に含もうとした。
だが、ふと、立ち止まった。いや、立ち止まったのではない。脳の奥で、別の声が沸き起こったのだ。
──一本だけなんて、セコくないか?
──どうせ食うなら、全部いっちゃえよ!
理性という名の薄皮が、パリ、と音を立てて破れた。
食い意地の怪物が顔を出す。
タコは叫ぶように心で決めた。

「イッセーのーで!」

残りの足が暴力的にうねり次々と口の中へ詰め込まれていく。
吸盤が喉をふさぎ、軟体の質量が喉奥を侵食する。一度に八本の足が入ろうとする。
予想を遥かに超えるボリュームに、口腔は飽和した。
そのとき。
巨大なタコの身体が、ぶるん……と痙攣し、くるりんとひっくり返った。
不恰好な体勢のまま、タコの身は方向を見失って身体を裏返したその勢いで──〝宇宙そのもの〟を自分の内側に入れてしまった。

タコは内臓の裏側を丸出し、外皮を内側に向け、宙(そら)を抱いて浮かんでいた。
彼の内部で星々がざわめき、銀河が回り、ブラックホールが吸盤の表面を這っていた。

その様子を、宇宙の“外”からひとりの存在が見下ろしていた。
神だった。
神は、アゴをさすりながら呟いた。

「おお……やっと『丸ごと宇宙タコ』ができたか。一三八億年待った甲斐があったわい」

神は、薪を組み始めた。
ひとつひとつの薪は、我々の宇宙の直径を超える大きさだった。
彼はそれらを静かに宇宙空間に並べ、火を焚きつける。
ごうごうと音を立てて、炎が燃え上がる。
虚無を焼くその熱は、タコが呑み込んだ宇宙へと、じわじわと沁みてゆく。
裏返しのままタコは眠っていた。あるいは、もう意識など無いのかもしれない。

神は座して待った。
手には、レモンと塩。
目を細め、よだれを垂らす寸前の顔で、こんがりと焼けてゆく“宇宙”を見つめていた。
やがて香ばしい匂いが、空間の裂け目をぬって、時空に広がっていく。

「……まずは、一本だけ」
神は我慢できず、宇宙タコからはみ出した足に箸を伸ばした。

—— おわり——

【小説】ひとりじゃないよ、って椎茸が言った

根生(ねお)は、学校でいつもひとりぼっちだった。
「話しかければいいだけだ」と頭では分かっていても、声になる前に胸の奥がきゅっと縮む。
小柄でおとなしく、意見を言えない性格のせいか、クラスの男子たちに馬鹿にされることが多かった。
「おい! チビキノコ!」
根生の特徴的な髪型(マッシュルームカット)はそう呼ばれることもあった。
ある日、彼は昼休みに校庭の隅で本を読んでいたが、それを見つけたいじめっ子のグループが、彼のリュックを取り上げて投げ合いを始めた。
「返してよ!」と叫んでも、彼らは面白がるばかりだった。
結局、リュックは泥だらけのまま地面に落ち、根生は無言で拾い上げた。
笑い声の向こうで誰かが「大げさだな」とつぶやくのが聞こえた気がして、視界がにじむ。涙をこらえながら、校舎から遠ざかる。
歩いているうちに、森の奥へと足が向いていた。

彼にとって、学校の近くにある小さな森は、唯一心を落ち着けられる場所だった。
嫌なことがあるたびにここまで歩いてきて、倒木に腰を下ろすと、胸の中のざわざわが少しずつ薄れていく。
静かな木々に囲まれると、ほんの少しだけ安心できる。
その日も、森の奥の倒木に腰を下ろし、ため息をついた。
さっき言えなかった言葉たちが胸の内側でぶつかり合って、重くなる。
誰もいない場所でなら、その思いを外に出せる気がした。
そのときだった。

「きみはひとりじゃないよ」

かすかな声が聞こえた。
根生は驚いて顔を上げた。だが、あたりに誰もいない。
風の音かと思ったが、もう一度、今度ははっきりとした声がした。
「大丈夫。ぼくも、最初は小さくて弱かった。でもね、仲間とつながっているから大丈夫なんだ」
根生は恐る恐る、倒木の端を見た。
そこには、茶色く丸い椎茸が生えていた。
「……今、しゃべった?」
試しに聞いてみると、椎茸はほんのわずかに揺れたような気がした。
「うん。ぼくは、ずっとここにいるよ」
根生は目を疑った。疲れて幻聴を聞いたのかもしれない。
けれど、誰かにからかわれるのとは違う、やわらかい言葉が胸の中にすっと入ってくる。
それは不思議と心地よく、あたたかく感じられた。

根生に話しかけた椎茸は森の中の朽木に……朽木の下には超巨大な菌糸ネットワークを張り巡らし、「地球を覆い尽くすほどの同胞」と繋がっていた。
菌糸ネットワークは生命の情報を集め、記憶し、進化を促す役割を持っていた。
椎茸が根生に語った
「大丈夫。ぼくも、最初は小さくて弱かった。でもね、仲間とつながっているから大丈夫なんだ」
という言葉は、まさに菌糸ネットワークの本質を示していた。
菌糸は単体では脆弱だが、広がることで「知性を持つ集合体」になる。
根生が椎茸と会話したのはただの幻聴どころか、地球全体の菌糸ネットワークが彼の孤独に共鳴し、彼を励ますためにコンタクトを取ったということなのだ。

【注釈Ⅰ】

それから、根生は森に来るたびに、椎茸に話しかけるようになった。
声に出して並べてみると、胸の中でごちゃごちゃに絡まっていた出来事が、少しだけ順番を持つ気がする。
学校であった嫌なこと、家での悩み、将来の不安——誰にも話せなかったことを、椎茸だけには打ち明けることができた。

「ねえ、今日はちょっといいことがあったんだ」
根生は、いつもより少し明るい声で話しかけた。
「美術の時間に、先生が僕の絵を褒めてくれたんだ!」
口に出してみると、その出来事が本当にあったことのように、もう一度胸の中で光る。
椎茸は、ほんの少しふるえたように見えた。
「すごいね。それは、きみの世界が誰かに届いたってことだね」
「うん……ちょっとだけ、自信がついたよ」
自信という言葉を使うのは少し気恥ずかしかったが、椎茸相手なら口に出せる気がした。
「その気持ち、大事にしてね」
根生は、少し冷たくなった風に吹かれながら、そっと微笑んだ。
いつも最後に、椎茸は言う。

「きみは、ひとりじゃないよ」

ある日、昼休みに校庭の隅で本を読んでいた根生は、いじめっ子たちに目をつけられた。
「おい、チビキノコ! 何読んでんだよ」
そう言って本を取り上げようとする手を払いのけた根生に、いじめっ子のリーダー格のタモギが眉をひそめた。
「おまえ、最近なんか変じゃね?」
昔の根生なら、すぐにうつむいて何も言えなかったはずだ。
でも、今は少しだけ違っていた。
森の中で聞いた「きみはひとりじゃないよ」という声が、背中のどこかをそっと支えている。
根生は落ち着いた声で言った。
「そうかな」
「そうだよ! なんかムカつくんだよ、おまえが平気そうな顔してんのが」

「森に来る?」
なぜそんなことを言ったのか、自分でもはっきりとは分からなかった。気づいたときには口が勝手にそう動いていて、根生自身がその言葉に一瞬驚く。
「は?」
タモギは眉をひそめた。根生は、ふっと笑って続けた。
「椎茸を見せてあげるよ」
「……は? なんだそれ?」
「不思議な椎茸がいるんだ。きっと、タモギも驚くと思うよ」
タモギはバカにするように笑ったが、どこか気になったのか、
「暇だし、ついてってやるよ」
とつぶやいた。

根生は、森の奥へとタモギを案内した。
「おまえ、こんなところでいつも何してんの?」
「ここ、落ち着くんだ」
そう言って、根生はある倒木の前で立ち止まった。そこには、小さな茶色い椎茸が生えていた。
「これ?」
タモギは鼻で笑った。
「ただのキノコじゃん」
「違うよ。話せるんだ」
「は?」
タモギは一瞬、根生を疑うような目で見たが、根生はいたって真剣だった。
「ねえ、椎茸。タモギに何か言ってあげて」
森の中の静寂が二人を包む。タモギが
「おまえ、マジで頭やばいんじゃねえの?」
と呆れたように言おうとしたそのとき——

「きみも、ひとりじゃないよ」

かすかな声が聞こえた。
タモギはギョッとして、あたりを見回した。誰もいない。風の音でもない。確かに、目の前の椎茸が「ささやいた」気がした。
「……今、聞こえた?」
根生はにこっと笑った。
「ね?」
タモギは言葉を失った。

このとき、タモギは何気なく森の中の朽木に触れていた。
気づかないうちに、その表面に付いた微細な胞子が彼の皮膚に移り、脳波がわずかに変化する。
それからはタモギは今まで感じたことのない「共感」の感情を抱くようになる。
彼は「根生を傷つけることは、なぜか自分を傷つけるように感じる」と語ったという。
科学者たちは驚くべき仮説を立てる。
菌糸ネットワークは、人間の意識をつなげることで、種全体の調和を促進できる。
椎茸(菌糸)は、人類を「ひとつの集合意識」として統合しようとしているのかもしれない。

【注釈Ⅱ】

タモギも「何か」を感じ取っていた。
彼もまた、孤独だった。
両親は彼らなりの愛情を息子に注いでいるつもりだったが、タモギは放置されていると感じていた。
憂さ晴らしの対象に根生を選んでいたが、心の底では誰かと繋がりたかったのかもしれない。

「な、なんだよ、これ……」
しばらくして、やっとの思いでタモギは声を出すことができた。
「椎茸が話すなんて、ありえねえ……」
「でも、聞こえたでしょ?」
根生は優しく言った。
タモギは口を開けたまま、しばらく椎茸を見つめていたが、やがて照れくさそうに「信じられね」と言って顔を背けた。
しかし——彼の表情は、どこか今までと違っていた。
怖い相手のはずなのに、今はほんの少しだけ、自分と似た匂いを感じる。
そんなタモギに、根生は
「またここにおいでよ」
と微笑んだ。

その夜、根生は夢の中で、まるで銀河全体が繋がるような光景を目にする。
菌糸のネットワークは、地球のものだけではなく、宇宙全体に広がっていたのだ。
彼はそこに「遥か彼方の知性体」がいることを知る。
その存在は根生にこう語る。
「君たち人類は、孤独ではない」
目が覚めても、その声の余韻だけは胸の奥に残っていた。
森の土の下と、どこか遠い空の向こうが、一本の糸でつながっている気がした。

【注釈Ⅲ】

根生は、地球の菌糸ネットワークを通じて、宇宙の知的生命体と交信する最初の人間となった。

   *   *   *

【注釈Ⅰ 菌糸ネットワークの実在性と研究上の位置づけ】
森林土壌中に広範な菌糸ネットワークが存在すること自体は、現在の生態学で広く確認されている事実である。
樹木間の栄養交換や化学信号の伝達に菌糸が関与している例も報告されており、「ウッド・ワイド・ウェブ」と呼ばれることもある。
ただし、菌糸ネットワークが情報を「理解」したり「意図」を持つとする解釈については、主流科学では慎重な立場が取られている。
多くの研究者は、観測されている現象を高度な物理化学的反応の集合として説明できる可能性が高いと考えており、知性や意思の存在については未解決の問題とされている。

【注釈Ⅱ 菌糸ネットワークと知性様挙動をめぐる議論】
一部の理論生物学者や情報科学者は、菌糸ネットワークの反応パターンが、単純な入力と出力の連鎖を超えた振る舞いを示す点に注目している。
この観点から、菌糸ネットワークを「知性に類似した分散構造」とみなす仮説が提案されているが、これはあくまでモデル的な解釈にとどまる。
反論としては、同様の挙動は結晶成長や気象現象など非生物的システムにも見られるため、知性の概念を適用すること自体が過剰であるという指摘がある。
現時点では、「知性に見える」という印象が、人間側の認知的投影である可能性も排除できていない。

【注釈Ⅲ 菌類の宇宙起源説とその未確定性】
菌類を含む微生物が地球外から飛来した可能性については、いわゆるパンスペルミア仮説の一部として長年議論されてきた。
隕石や宇宙塵から有機物が検出された事例は存在するが、地球上の菌類と直接的な系統関係を示す決定的証拠は得られていない。
現在の学界では、菌類が地球上で独立に進化したとする説が依然として有力であり、宇宙起源説は周縁的仮説の位置にとどまっている。
ただし、完全に否定されたわけではなく、「未検証の可能性」として一部研究者の関心を集め続けている。

【小説】人形の家

リンリンは畳の上に腹ばいになって、弟のナッシーと向かい合っていた。
二人の間には、古いプラスチックの怪獣と小さな人形がいくつか転がっている。
「がおー」
リンリンが声を低くすると、ナッシーは声を上げて笑い、人形を空に持ち上げた。
家の中は静かだった。
外の音は、いつもと同じようにどこか遠くで止まっている。
外に出てはいけない。
それは、理由のない決まりだった。
けれどその日、玄関の方を見ても誰も止めに来なかった。
リンリンはなぜか許された気がして、ドアを開けた。

外は、彼の知っている世界ではなかった。
空は高く、足元は荒れていて風が強かった。
身体が軽くなった。
リンリンとナッシーは、空を飛べることに気づいた。
兄弟並んで空から見下ろすと、怪獣がいた。
怪獣は大きく、鈍く、地面を踏みしめるたび世界が揺れた。
二人は戦った。
善戦だった。
だが、怪獣の腕が振り下ろされた瞬間、ナッシーの首が音もなく飛んだ。
頭と身体が離れ、空中でくるくる回転しながら落ちていく。
リンリンは叫んだが、声は届かなかった。
怪獣は倒れた。
勝ったのだとリンリンの身体は理解していた。
しかし、空から見える弟は——地面に臥したまま動かなかった。

   *   *   *

場面が変わる。
少女は、机の上に置かれたジオラマ風の家を覗き込んでいた。
屋根は一部が欠け、壁にはもともとの傷なのかぶつけてできたひびなのか区別のつかない線が走っている。
「リンリン」
「ナッシー君」
指先で人形をつまみ、部屋から部屋へ動かす。
床には、小さな破片が散らばっている。
家具の脚、割れた窓枠、本来ならここにあるはずのない欠片。
人形たちは、静かに従っているように見えた。

そこへ兄が入ってくる。
「お前、またこんなことしてるのか」
乱暴に人形を取り上げる。
自分の部屋へ持っていき、空を飛ばせ、怪獣と戦わせる。
その拍子に首が取れた。
くるりと飛んで、床に落ちる。
首の付け根は、最初から割れていたかのように妙に白く滑らかだった。
兄は少し見て、すぐに飽きた。
人形を放り出し、友達と遊びに行く。

少女は泣きながら、母親のところへ行く。
母は黙って首を拾い、丁寧に直した。
接着剤の匂いが、一瞬、部屋に広がる。
その匂いとほとんど同時に、外から別の匂いが流れ込んできた。
焦げた布の匂い。
金属が焼けた匂い。
遠くで、誰かが担架の上の体を押さえ、外れかけた首元を布で固定しているのが見える。
母の指先が人形の首をまっすぐに整える動きと、外の人間たちが遺体を整える動きが、不自然なほど重なって見えた。
「お父さんがいないんだから」
そう言って、少女を見る。
「あなたがちゃんと面倒みてあげないと駄目でしょ」

   *   *   *

再び、人形たちの世界。
いつの間にか、ナッシーの首は元に戻っていた。
理由はわからない。
ただ、修復されたことだけが、事実として残っている。
リンリンはそれを当然のように受け入れ、いつもの生活に戻る。
リンリンは飛行機を持ち上げる。

ダーン。
ダーン。

空を切る音。
その音は、どこかで聞いた爆音と完全に重なっていた。

   *   *   *

再び、現実。
少女は、ジオラマ風の家で人形を遊ばせている。
家の外は荒野だった。
舗装は剥がれ、建物は骨組みだけを残している。
ジオラマの壁の欠けと、現実の建物の崩れが、同じ角度で同じ形に見える。
遠くで煙が上がっている。
ドールハウスの煙突から立ち上る
小さな綿の煙と、外の黒煙が、同時に揺れている。

タタタン。
タタタン。

銃声が聞こえる。
ジオラマの床に落ちていた小さな破片が、そのたびわずかに震えた。
近い。
少女は何も知らないまま、人形を動かす。
人形の腕が取れ、足が外れ、それでも元の位置に戻される。
外では、誰かが叫び、誰かが倒れ、誰かがまた運ばれていく。

瞬間、戦災の光景が一瞬だけ完全に一致する。
不条理なまでに大きな天災や戦争は、ひょっとすると誰かの気まぐれな遊びなのかもしれない。

人形たちは、今日も首をつけ直されながら生きている。

—— おわり——

【小説】量子幽霊が遺した記憶

俺は母子家庭で育った。
母は俺が一八歳のとき、病気であっけなく死んだ。
二つ上の姉がいたが、子どもの頃からまともに話が噛み合った記憶がない。
男勝りの姉とはいつも喧嘩ばかり、しかも俺がほぼ一方的にやられていた。
一三歳のとき、俺と姉は殴り合いになり、ふたりとも病院送りになった。
それから先、関係は修復するきっかけもなく凍りつき、母の葬儀ですら目を合わせなかった。
高校卒業後、俺は家を出て上京した。
一度だけ、「家を手放すから荷物をまとめろ」と連絡が来たが、「捨てれば?」とだけ返した。
それ以来、一切連絡は取らなかった。
それから、何年もがむしゃらに働いているあいだに、長い時間が過ぎた。

ある日、姉の仕事先——防衛軍から連絡が来た。
姉が「出張中」に事故に巻き込まれ、亡くなったらしい。
正直、どうでもよかった。
連絡先すら交換していなかったし、俺の中では既に存在すら薄れていた。
親戚から喪主をするよう頼まれたが、最初は断った。
それでも押し切られ、結局引き受けることになった。
葬儀で、姉の仕事について初めて知った。

姉は防衛軍で研究をしていた。彼女が実家の近所に住んでいたことも、そのとき初めて知った。
葬儀が終わった後、姉が住んでいた部屋を整理するよう言われた。
面倒だったが、業者が来る前に何があるのか確認するため渋々向かうことにした。

部屋に入った瞬間、思わず足が止まった。
——高級マンション。広いリビング。
けれど、置かれているのはソファとテーブル、それに最低限の家電だけで、空間はやけに殺風景だった。
無機質な部屋の中で、ひとつだけ場違いなものがあった。
食器棚の上の写真立て。
手に取ると、中には小さい頃の俺が笑って写っていた。
意味がわからなかった。
なぜ、こんなものがここに?
胸がざわつくのを感じながら、処分を頼むために業者へ電話をかけ、さらに奥の部屋へ足を向けた。

四畳半の小さな部屋。
扉を開いた瞬間、思考が止まった。
——そこには、俺が上京するときに詰め込んだ段ボールやカバンが、ほとんどそのままの形で並んでいた。
黄ばんでも破れてもいないガムテープ。
埃の積もらない箱の角。
誰かが長いあいだ、ここを手入れしていた。
俺はその場に立ち尽くした。心臓が高鳴り、足元の感覚が遠のいていく。
——姉はなぜ、俺の記憶を、ずっとここに留めていたのか?

心が乱れながらも部屋を整理していると、インターホンが鳴った。
不意の来客に戸惑ったが、手を止めて扉を開ける。
そこに立っていたのは、葬儀のときに見かけた男だった。
軍の制服を着ている。
「突然の訪問、申し訳ありません」
男は軽く会釈し、静かに名乗った。
「私はお姉さんの上司でした。葬儀の際はご挨拶できず、失礼しました」
低く落ち着いた声。整った顔立ち。
そして、その表情にはどこか慎重さが滲んでいた。
「……何の用ですか?」
俺の言葉に、男は少し間を置いてから答えた。
「僭越ながら、少しだけお話をさせていただければと思いまして」
俺は怪訝な顔をしながらも、男の後ろに広がる夜の街並みをちらりと見た。
——姉の死について、軍が直接関わっているのは分かっていた。
それでも、わざわざこうして訪ねてきたということは、何か重要な話があるのだろう。
「……わかりました。中へどうぞ」
そう言って、俺は静かに扉を開いた。

「お姉さんの研究のことをお伝えしておきたいのです」
男は姿勢を正し、事務的な口調で続けた。
「彼女は『記憶の物質化』をテーマにしていました。人の記憶は脳だけにあるのではなく、関わった物質や素粒子の状態としても残り続けるかもしれない——そういう仮説です」
「そんなことが……」
「彼女はその理論を応用し、戦争や事故で命を落とした隊員たちの遺体や遺品に宿る記憶を、遺族のもとへ届けようとしていました。詳しいことは話せませんが……その研究の過程で予期せぬ事故が起こったのです。彼女は素粒子を加速させる装置の実験中に……姿を消しました」
「……消えた?」
男は静かに頷く。
「しかし、彼女のすべてが失われたわけではない」
男は黒いケースを差し出した。冷たい感触が指先に伝わる。
蓋を開けると、中には薬のカプセルほどの透明な小さな容器がひとつ、ちょこんと収まっていた。
「機密扱いですので、お持ち帰りいただくことはできません。ただ、この場でだけ、装置に封じたお姉さんの“記憶片”にアクセスしてもらうことはできます」
俺は黙ってケースを見つめた。
「これは、お姉さんの研究の成果。そして、彼女自身の記憶の一部です」
俺は静かに頷いた。

俺は透明な容器の蓋を回した。
光が溢れ、意識が引きずり込まれる——

——小さな部屋。俺と姉。喧嘩をしている。
「なんで破ったの!?」
「うるさい! 恥ずかしかったんだよ!」
俺は母子手帳を破った。
遊びに来た友達に見つかって、からかわれたのがいやで。
姉はそれを怒っていた。
奥の部屋で声なく泣きむせぶ母……姉は母のかわりに俺を殴ったのだ。

——姉が俺のためにしてくれたこと。
油っぽいおかずばかり詰まった弁当。
机の上にいつのまにか置かれていた受験用の問題集。
布団の横でうとうとしながら体温計を握っていた寝癖頭。
そんな細かいことを、俺は全部なかったことにして、ただ姉を嫌っていた。

——場面が揺らぎ、別の記憶が滲み出す。
姉はこのマンションのベランダに立ち、夜風に前髪を揺らしながら、遠くの山並みをじっと見つめていた。
「ここから、私たちが生まれ育った家のあたりが見えるんだ」
姉は、一人でここに住みながら、俺たちの生まれ故郷をずっと見ていた。
俺の荷物を眺め、ときには涙し……

最後の記憶が立ち上がる。
俺の小さい頃の写真を見つめる姉。
「お前は幸せにしているか?」
光の粒が揺れ、姉がこちらを振り返る。
「お前は……ちゃんと……生きてるか……?」
声と一緒に、姉の姿が薄膜みたいに透けていく。
消えかけた輪郭に向かって、俺はかろうじて言葉を押し出した。
「……わからない」
その瞬間、姉の口元が、ほんの少しだけやわらいだ気がした。
光が弾け、すべてが白く塗りつぶされる。

意識が浮かび上がると、俺はさっきと同じリビングに立っていた。
男はいつのまにか帰っていて、部屋には冷えた空気だけが残っている。
姉の体も声も、もうどこにもない。
それでも、この四畳半と写真と荷物には、さっき触れた記憶がまだ沈んでいる気がした。
俺はベランダに出た。
遠くに、故郷の山並みがかすんで見える。
「……バカ姉貴」
そう呟くと、風が頬を撫でていった。

—— おわり——

【小説】赤ん坊はどこから

朝、庭に出ると、大きな花の中で赤ん坊が泣いていた。
花弁は夜露を含んで重く、中心に向かってゆっくりと開いている。
その奥で、赤ん坊は土に触れながら、声を震わせていた。

メロ美(めろみ)は立ち止まった。
驚きはなかった。
こどもが欲しい、と長いあいだ思っていた。
だから花の中からこどもが生まれても、不思議だとは思わなかった。
世界は、ときどき説明を省略する。
それを責める理由はなかった。

赤ん坊を抱き上げる。
温かい。
花の匂いが、肌に移る。
土と甘さと、わずかな鉄のような匂い。

家に入ると、ラジオがついていた。
誘拐犯が逃走中だという。
赤ん坊を連れたまま、姿を消したらしい。
「途中で置き去りにした可能性もあります」
メロ美は音量を下げた。
誘拐された子が、庭に置かれることはある。
人は追い詰められると、花のことまで考えなくなる。

昼前、宅配便が来た。
差出人不明の箱は空で、緩衝材だけが詰められていた。
赤ん坊サイズの大きさだった。
運ぶ途中で中身が落ちたのかも、とメロ美は思った。

昼過ぎ、町内放送が流れた。
未婚の妊婦が行方不明になっているという。
名前は言われなかった。
自分のことか……とメロ美は不安になったが、よく考えると、自分はすでに結婚していたような気がしてきた。

午後、白衣の男が訪ねてきた。
自分は発明家だと言い、人造人間の赤ん坊が逃げたのだが、見なかったかと尋ねた。
人造人間は内部に生体部品と回路を持っている。
けれど、見た目は本物と区別がつかない赤ん坊だという。
メロ美は首を傾げた。
男は何度も礼を言い、帰っていった。

夕方、近所の老人が庭を覗き込み、
「今は、勝手に赤ん坊が生まれる時代だ」
と、根拠のないことを言った。
隕石に付着した微生物が、哺乳類の形を取ることがあるという。
それが赤ん坊の姿になっても不思議ではないとか、なんとか。

近所でサイレンが上がったり下がったりをくり返していた。
SNSで検索してみると、近所の実験施設から化学物質が流出したらしい。
化学物質由来の、地球上の生命とは別系統の新しい生命が生まれる可能性があるので注意してください、とのことだった。
それが、赤ん坊の姿で現れることもまったくあり得ない話ではないと、匿名の誰かが書き込んでいた。

夜、夫が研究所から戻った。
彼は植物を遺伝子操作する研究をしている。
庭の花を見て、少し考え込んだ。
「昨日は犬が生まれた」
そう言った。
「だから、人間でもおかしくはない」

メロ美は頷いた。
理由が与えられると、世界は落ち着く。
理由が多ければ多いほど、安心する。

食事のあと、夫とニュースを見ると、赤ん坊の話題が扱われていた。
違法な里親マッチングや、契約によって育てられ、解除後に行き場を失う子どもたちの問題。
宗教団体による儀式的な養育の噂や、並行世界から迷い込んだ存在ではないかという仮説。
さらには、高次元の存在が移動の途中で落とした「遺失物」が、こちらの世界では生命の形を取ることがある、という話まで。
……どれも、関係がありそうな話だった。

夜、赤ん坊を布団に寝かせる。
胸に耳を当てると、規則正しい鼓動の奥に、微かな振動がある。
音というより、感触だった。
皮膚の下で、何かが応答している。

メロ美は、ふと気づく。
家の中が、静かすぎる。
夫の気配がない。
夕方の会話が、現実だったかどうか、確信が持てない。

そのとき、腹の奥に、鈍い感覚が残っていることに気づく。
痛みではない。重さでもない。
そこだけ温度が抜けているような、薄い空洞。
何かが通り過ぎたあとの、空白のような感覚。

風呂場の床の赤黒い染み。
一度もこちらを向かない夫の背中。
裸足で出た深夜の庭、泣き叫ぶ塊を花壇の上に置く。
指先に残る泥の冷たさ。
覚えのない映像が、断片的に浮かぶ。

もしかすると、これは現実ではないのかもしれない。
ひとりで暮らす部屋。
庭も、花も、夫も、赤ん坊も。
ただ欲しかったから、ここに並んでいるだけではないか。

メロ美は、赤ん坊の手に指を差し出す。
ぎゅっと握り返される。
その力は弱く、しかし確かだった。

赤ん坊が泣き出す。
メロ美は抱きあげる。
腕の中で空気が震え、泣き声はしだいに小さくなり、やがて寝息に変わった。

静かになった部屋の中で、メロ美は目を閉じる。
自分がどこから来たのかは、うまく思い出せない。
けれど、腕の中の重さだけが、何かを知っているように思えた。

本当に、赤ちゃんはそこにいた。

――おわり――