深淵の底。
そこは光さえ届かぬほどの暗がり。
水の重みに潰されることもなく、ただぽつりと浮かぶようにして、一匹のタコがいた。
タコは、静かに、そして深く、腹を鳴らしていた。
ぐうう、と。
内側からこみあげる音は、深海の静寂にあって、あまりに孤独な叫びに似ていた。
八本の足が、もじもじと揺れる。
見るからに美味そうで──いや、待て。
自分の足だ。
分かってはいる。分かってはいるのだが、空腹という魔物が、思考の端をじわじわと腐らせてゆく。
じわりと動く足の一本。
右端のそれが、ゆっくりと、口元へと近づいていく。
ぬらり。ずるり。
吸盤が肌を撫で、肉の質感が、まるで他人のもののように錯覚される。
「……まずは、一本だけ」
つぶやくように、タコはそっとその足を口に含もうとした。
だが、ふと、立ち止まった。いや、立ち止まったのではない。脳の奥で、別の声が沸き起こったのだ。
──一本だけなんて、セコくないか?
──どうせ食うなら、全部いっちゃえよ!
理性という名の薄皮が、パリ、と音を立てて破れた。
食い意地の怪物が顔を出す。
タコは叫ぶように心で決めた。
「イッセーのーで!」
残りの足が暴力的にうねり次々と口の中へ詰め込まれていく。
吸盤が喉をふさぎ、軟体の質量が喉奥を侵食する。一度に八本の足が入ろうとする。
予想を遥かに超えるボリュームに、口腔は飽和した。
そのとき。
巨大なタコの身体が、ぶるん……と痙攣し、くるりんとひっくり返った。
不恰好な体勢のまま、タコの身は方向を見失って身体を裏返したその勢いで──〝宇宙そのもの〟を自分の内側に入れてしまった。
タコは内臓の裏側を丸出し、外皮を内側に向け、宙(そら)を抱いて浮かんでいた。
彼の内部で星々がざわめき、銀河が回り、ブラックホールが吸盤の表面を這っていた。
その様子を、宇宙の“外”からひとりの存在が見下ろしていた。
神だった。
神は、アゴをさすりながら呟いた。
「おお……やっと『丸ごと宇宙タコ』ができたか。一三八億年待った甲斐があったわい」
神は、薪を組み始めた。
ひとつひとつの薪は、我々の宇宙の直径を超える大きさだった。
彼はそれらを静かに宇宙空間に並べ、火を焚きつける。
ごうごうと音を立てて、炎が燃え上がる。
虚無を焼くその熱は、タコが呑み込んだ宇宙へと、じわじわと沁みてゆく。
裏返しのままタコは眠っていた。あるいは、もう意識など無いのかもしれない。
神は座して待った。
手には、レモンと塩。
目を細め、よだれを垂らす寸前の顔で、こんがりと焼けてゆく“宇宙”を見つめていた。
やがて香ばしい匂いが、空間の裂け目をぬって、時空に広がっていく。
「……まずは、一本だけ」
神は我慢できず、宇宙タコからはみ出した足に箸を伸ばした。
—— おわり——
