【小説】顔の潰れた子どもたち

餡太(あんた)がその地下倉庫に足を踏み入れたのは、十歳のある雨の日だった。
母親がいない間に、家の中を探検していた彼は、ふと、階段の下に続く扉を見つけた。
重たい扉を開けると、冷たい空気が足元から這い上がり、わずかな湿気が鼻をついた。
暗闇の中、彼はゆっくりと降りていった。ぼんやりとした照明の下に浮かび上がる光景——そこには、無数の死体が転がっていた。
すべて、子どもだった。
赤子から自分と同じぐらいの年の男の子たち。共通しているのは、顔が潰れていること。潰され、ひしゃげ、元の形を留めていない。目も鼻も口も、何もない。
餡太の背筋に氷が走った。
——これは、何だ?
目の前の光景を処理しきれず、思考が止まる。だが、一つの考えが頭の中で膨れ上がっていく。
お父さんとお母さんは、殺人者だ。
それしか考えられなかった。彼らは、子どもたちをここに閉じ込め、殺している。どうして?なぜ?
彼の心臓は激しく脈打ち、全身が震えた。
餡太は息を詰め、音を立てないように家の中を駆け回った。両親はどこにもいない。家は静まり返っている。
遠くでサイレンが聞こえる気がした

「ピンポーン♪」
家の呼び鈴が鳴った。
玄関を開けると、そこには警察官が立っていた。優しそうな顔の男だった。
「最中田(もなかだ)さんのお宅はこちらかな? ちょっとお父さんお母さんが帰ってくるまで待たせてもらえないかな」
餡太の脳内警報が一斉に鳴り響く。
——来た……!
ついに警察がうちの秘密を嗅ぎつけたんだ! この人たち、絶対に両親を逮捕しに来た!
まずい。どうしよう?どうしよう!?でも、僕はまだ捕まりたくない。まだ宿題も終わってないし、カレーの残りも食べてないし、なにより……
この家の秘密がバレたら、僕もやばいのでは!?
餡太は一瞬だけ迷ったが、すぐに決意する。
「こっちです!」
無邪気な顔で警察官の手を引き、地下倉庫へと案内した。警察官は、少し戸惑いながらも後に続く。
そして、餡太が倉庫の奥へと進んだ瞬間——
「え?」
警察官が足を踏み外す。
「わあああっ——!!」
ゴロゴロゴロッ、ドン。
音とともに、警察官は階段を転げ落ちた。
カチャン。
扉が閉まる。
——静寂。
かすかに、「助けて——」という声が聞こえた気がしたが、それもすぐに途切れた。
餡太は、じっと耳をすませた。
「……大丈夫かな?」
しばらくして、彼はホッと息を吐いた。
「よし」

数日後、また警察が訪ねてきた。
「最中田さんのお宅はこちらかな? ちょっとお父さんお母さんが帰ってくるまで——」
「こっちです!!」
またしても地下倉庫にご案内。
「え?ちょっと待っ——」
ドン!ゴロゴロゴロ!バタン!
何も聞こえない。……よし。
そして、それが何度も繰り返された。

テレビでは「最近、警察官の行方不明が相次いでいます」というニュースが流れ始めた。
餡太は震えた。
「僕、やばいことしちゃってる……?」
でも、今さらどうしようもない。こうなったら、もう警察官が来るたびに、地下倉庫に入ってもらうしかない。
「だって、秘密がバレたらおしまいだもん……」

ある晩のこと。
両親は静かに寝ている餡太を見つめていた。
「そろそろね」
「うん、餡太も成長したし……」
彼らは地下倉庫の扉を開けた。
すると——
そこには、警察官の死体がいくつも転がっていた。
両親はギョッとした。
「……なんだこれは?」
しかし、父が警察官の首元に手を伸ばし、カチッとスイッチを押すと——
——ガチャッ。
警察官がゆっくりと起き上がった。
「……再起動完了」
最初に家にやってきた警察官が言う。
「最中田さんのお父さん、お母さんですか? 困りますよ。お宅のお子さんが、近所の人からちょっとしたことで通報されちゃってね」
「そうなんですか!?」
「公園で遊んでいたボールがよその家に入ったとか、些細なことなんですけど……それにしても、なぜ私はここに?」
他の警察官も次々と再起動してムクリと起きあがる。
「……なんでこんなところにいるんだ?」
「それがわからないんです」
「強い衝撃で一時的に記憶が初期化されるようです」
「ここで転んだんですかね」
警察官たちはみんな首を傾げながら並んで階段を上がり、家から出ていく。
母が呆れたようにため息をつく。
「いったいなんなのよ……」
父親も憤慨する。
「近頃の警官の質が下がっていると聞くが、整理不良すぎるだろ!」

そして両親は、まだ眠っている餡太を地下倉庫の冷たい床に横たえて見下ろす。
「餡太も成長したし……そろそろ新しい身体に替える時ね」
母は工具を手に取る。父がゆっくりと息を吐く。
「顔を潰して電子脳を取り出そうか」
母が小さく笑う。
「成長期だからボディ交換が頻繁で、お金がかかって仕方ないわ」
——バキッ。

翌朝。
「ピンポーン♪」
新しい体の餡太が目を覚ました。
玄関のドアの向こうには、警察官が立っていた。
「最中田さんのお宅はこちらかな? ちょっとお父さんお母さんが帰ってくるまで——」
餡太はニコッと笑った。
「こっちです!」

——おわり——

【小説】悲報!! ワイ、入院中にゲーム貸した女の子に裏切られる

1 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:15:32.12 ID:XXXXXXXX
盲腸で入院してたとき、隣の病室の女の子(たぶん小学生)にゲーム機貸したんや
ドラクエ3やらせたらめっちゃ楽しそうに遊んでたんやけど、ワイの名前つけた遊び人(職業)がパーティーに入っとったんや
ちょっと嬉しかった

2 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:16:10.45 ID:XXXXXXXX
ほのぼのエピソードやんけ

3 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:16:45.87 ID:XXXXXXXX
かわE

4 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:17:23.21 ID:XXXXXXXX
ええ話っぽいな、続きは?

5 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:18:10.32 ID:XXXXXXXX
↓どうせ遊び人クビになる展開

6 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:18:50.97 ID:XXXXXXXX
ワイ退院 → 数週間後に病院行ったら女の子の部屋が空になってたんや……
看護師さんに聞いたら「亡くなりました」って言われた

7 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:19:30.29 ID:XXXXXXXX
えっ……

8 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:19:45.21 ID:XXXXXXXX
急に展開が重い

9 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:20:10.98 ID:XXXXXXXX
やめろや、泣く

10 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:20:45.67 ID:XXXXXXXX
まじか……

11 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:21:10.21 ID:XXXXXXXX
それでワイ、看護師さんに無理言って女の子の家を教えてもらって、ゲーム機返してもらいに行ったんや
んで電源入れてデータ見たらな……

12 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:21:55.45 ID:XXXXXXXX
(゚Д゚;)

13 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:22:30.87 ID:XXXXXXXX
データどうなってたんや

14 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:23:10.62 ID:XXXXXXXX
パーティーからワイ(遊び人)外されてたわ
イケメン先生(病院の若い医者)が戦士として入ってた

15 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:23:50.12 ID:XXXXXXXX
草ァ!!!

16 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:24:05.47 ID:XXXXXXXX
草だけど泣ける

17 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:24:30.98 ID:XXXXXXXX
結局ルイーダの酒場(待機キャラ置き場)に預けられたワイ、無事リストラされる

18 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:25:15.32 ID:XXXXXXXX
そりゃ遊び人より先生(戦士)のほうが頼りになるやろ

19 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:25:50.67 ID:XXXXXXXX
でも遊び人が最終的に賢者になるの知ってたら、外さなかったかもな……

20 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:26:10.32 ID:XXXXXXXX
>>19 そう思いたいンゴねぇ……

21 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:26:55.10 ID:XXXXXXXX
ワイ「まあ、そりゃ遊び人は役に立たないよな~ あはははは~」
ワイ「……」
ワイ「……」
ワイ「……(なみだが止まらない)」

22 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:27:40.90 ID:XXXXXXXX
やめろマジで泣く

23 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:28:20.13 ID:XXXXXXXX
名もなき少女の冒険は続いていたんやな……

24 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:29:00.52 ID:XXXXXXXX
悲しいけど、なんかええ話や

25 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:29:40.80 ID:XXXXXXXX
お前の遊び人、また旅立つ日が来るとええな

26 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:30:10.22 ID:XXXXXXXX
>>25それな、ルイーダの酒場でずっと待っとるわ

27 :風吹けば名無し:2001/02/01(木) 22:31:00.12 ID:XXXXXXXX
ワイもドラクエ3やりたくなってきたわ……

【このスレは涙で見えなくなった人たちによって沈みました】

—— おわり——

【小説】犬おじさんと過ごした夏

夏休みの始まり。
粉彦(こなひこ)は、いつものように近所の空き地を通り抜けようとして、足を止めた。
──そこに、一人のおじさんがしゃがみ込んでいた。
汗でくたびれたシャツ、泥で汚れたズボン、ぼさぼさの髪。
でも、それよりも気になったのは、彼の目だった。
悲しそうにじっと粉彦を見つめ、「くぅーん……」と小さく喉を鳴らす。
人間なのに、犬みたいな声を出している。
それだけじゃない。
彼は四つん這いで、まるで犬のように体を丸めていた。
首元には銀色のプレート。
「意識移植刑適用対象 犯罪者 No.0774」

おじさんは外見は人間のまま、意識だけが犬になっている。
新聞で読んだ記事によると、動物の意識を移植された犯罪者は、GPS、監視カメラや衛星で常時監視されているらしい。
逃亡を防ぐということよりも、誰かが過剰な危害を加えたりしないように、ということだが。

「……おじさん?」
粉彦が呼ぶと、おじさんはぴくりと肩を揺らした。
でも言葉は返ってこない。ただ、喉を鳴らすだけ。
彼は人間だったころの声を失っていた。
何かを言おうとすると、「わんっ」「くぅーん……」としか鳴けない。
「……おじさん、俺が助けてやるよ」

7月21日 晴れ
「犬おじさんはパンが好き」
今日、おじさんにパンをあげたら、四つん這いのまま食べてた。
「くぅーん」って鳴いてたけど、多分喜んでたと思う。
最初は怖かったけど、もう慣れた。
おじさんはただの「犬おじさん」だ。

* * * * * 

粉彦は毎日のように空き地に通った。
お小遣いで買ったパンの切れ端や、家の残り物をこっそり持っていくと、おじさんは四つん這いのまま、それを食べた。
「おじさん、ほら、水もあるよ」
ペットボトルのキャップに少し水を入れて差し出すと、おじさんは恐る恐る顔を近づけ、ペロペロと舐めた。
まるで本物の犬みたいに。
「……おじさん、気持ちは犬なの?」
「わん」
おじさんは、わかっているのかわからないのか微妙な顔で、静かにしっぽを振るみたいに腰を揺らした。
粉彦は思わず笑った。

7月29日 曇り
「犬おじさんはかくれんぼが得意」
今日はかくれんぼをした。俺が隠れて、おじさんが探す遊び。
おじさんは鼻をくんくんさせて、すぐに俺を見つけた。
見つけたとき、「わん!」って得意そうに鳴いた。
ちょっと笑っちゃった。

* * * * * 

時々、おじさんは遠くを見つめることがあった。
まるで、何かを思い出しそうに、でも、それが何だったのか分からなくて苦しんでいるように。
「おじさん、家族とかいた?」
粉彦がそう聞くと、おじさんはピクリと反応し、ぎゅっと目をつむった。
「……くぅーん……」
悲しそうな声。
その鳴き声を聞いて、粉彦は自分のことを思い出した。

粉彦の父親は、家に帰ってこなかった。
仕事が忙しいのだと母親は言うけれど、本当は別の家族がいるのだと知っていた。
たまに帰ってきたときも、母親とケンカばかりだった。
「男ならもっとしっかりしろ」「家族を支えろ」
そんな言葉ばかりで、粉彦のことなんて見ようともしなかった。

「……俺の父ちゃん、家に帰ってこないんだ」
おじさんは、じっと粉彦を見つめた。
「たまに帰ってきても、俺のことなんて全然見てくれない」
おじさんはゆっくりと、四つん這いのまま粉彦の横に座る。
そして、そっと頭を粉彦の膝に乗せた。
まるで、「分かるよ」と言いたげに。
粉彦は驚いたけれど、そっとおじさんの髪を撫でた。
父親にはできなかった触れ合いが、おじさんならできる気がした。

8月3日 晴れ
「犬おじさんは、時々悲しそうにする」
おじさんは、何かを思い出しそうになると、空をじっと見つめる。
俺のことをじっと見るときもある。
何かを思い出そうとしているかのように。
「家族いたの?」って聞いたら、黙っちゃった。
おじさんにも、俺みたいに帰ってこない父ちゃんがいたのかな。

* * * * * 

「……ああ、そうか!」
粉彦は気づいた。
おじさんには子供がいるのかもしれない。
父ちゃんと同い年ぐらいだから、僕ぐらいの歳なのかな。
きっと、犬なりにそのことを思い出して悲しんでいるんだ。

粉彦とおじさんはお互い、失ったものを補いあっている関係なのかもしれない。

8月15日 雨
「犬おじさんは、俺を守ろうとした」
今日は、怖かった。
おじさんが俺の前に立って、ワンワン吠えた。
でも、俺のせいで殴られた。
ごめんなさい。

* * * * * 

夏休みも終わりに近づいたころ。
粉彦が空き地でおじさんと遊んでいると、同じクラスのいじめっ子たちがやってきた。
「お前、犬と遊んでんの?」
「っていうか、これ犯罪者だろ」
「気持ち悪っ!」
そう言いながら、彼らはおじさんに石を投げた。
おじさんは身を縮める。
「やめろ!」
粉彦が叫ぶと、いじめっ子たちは粉彦を殴り始めた。
その瞬間——おじさんが飛びかかった!

四つん這いのまま、牙をむくようにして突進する。
いじめっ子たちは棒を持ち、おじさんを殴りつけた。
おじさんはいじめっ子にしがみつき棒を落とそうとしたが、後ろに回り込んだ一人がめいいっぱい振りかぶり、おじさんの顔面を棒で殴りつけた。
おじさんの右目まぶたから血が吹き出した。
粉彦は泣き叫ぶ。
いじめっ子は笑いながら逃げていった。
おじさんは、ぐったりと倒れた。
それでも、最後の力を振り絞るように、粉彦の手をそっと舐める仕草をした。
その仕草に、粉彦は思う。
「まるで、お父さんみたいだ……」

8月31日 晴れ
「犬おじさんは、いなくなってしまった」
空き地に行ったら、もうおじさんはいなかった。
昨日までいたのに。
俺のこと、覚えてるのかな。
また会いたいです。

* * * * * 

おじさんの刑期が終了した。
粉彦が空き地に行くと、もうおじさんの姿はなかった。
誰かが連れて行ったのだろう。
犬だった頃の記憶が消されて、また元に戻るのだ。
そういう決まりだから、仕方がないのかもしれない。
でも……胸の奥がぽっかりとあいたようだった。

* * * * * 

高校生になった粉彦は、居酒屋でバイトを始めた。
両親が離婚し、粉彦は母親と二人暮らしになったのだ。
生活費を稼ぐため、学校の帰宅時間から深夜まで働いた。
カウンター越しに酒を注ぎ、皿を運び、ひたすら客の注文をこなす。
リーダーは柚餅(ゆもち)という男だった。
年齢は四〇代。
少し疲れた顔をしているが、どこか落ち着いた雰囲気がある。
口数は少ないが、淡々と仕事をこなし、バイトの面倒も見てくれる。
粉彦は、彼を見た瞬間に分かった。
──この人は、あの夏に空き地で出会った犬おじさんだ。
しかし柚餅は粉彦を知らない。
意識移植刑を受けた者は、人間に戻るとき記憶を消される。
だから、柚餅は「犬だったころ」のことを何も覚えていないはずだった。

休憩中、先輩バイトの男たちが、柚餅の方を見ながらクスクスと笑っていた。
「なあ、柚餅さんってさ、昔『犬』だったんだろ?」
「詐欺やらかして、意識移植刑にされたんだってよ。マジウケるよな」
粉彦はドキッとした。
「どんな気分なんすか? 人間なのに犬やってたって」
「ドッグフード食わされてたんスか?」
柚餅は、何も言わなかった。
ただ、タバコに火をつけて、ゆっくりと吸う。
粉彦は、拳を握りしめた。
(ふざけるな……おじさんは、そんな人じゃない)
でも柚餅本人は、ただ静かに「仕事行くぞ」とだけ言い、厨房へ戻っていった。

その夜、粉彦はやらかした。
忙しい時間帯、客のオーダーを聞き間違えたのだ。
唐揚げを頼まれたのに、刺身を運んでしまう。
「おい、新人! 何やってんだよ!」
厨房の先輩が怒鳴る。
「オーダーミスとか勘弁してくれよ! すぐ作り直せ!」
粉彦は謝りながら、急いで動こうとする。
そのとき——
「新人なんだから、そんな怒るなよ」
柚餅が静かに言った。
「誰だって最初はミスする。お前らも入ったばかりの頃やらかしただろ?」
その声は穏やかだったが言い返せない強さがあり、先輩たちは黙り込んでしまった。
まるで——
(あの夏、俺を守ってくれた犬おじさんみたいだ……)
粉彦は、柚餅の右の目尻を見た。
ほんの小さな傷の痕が残っていた。
あのとき、俺を守ってくれたときの傷だ。
粉彦は確信した。
記憶が消えても、柚餅の心のどこかにあの夏の感情が残っている。

「お疲れ様です」
帰り間際、粉彦は柚餅に声をかけた。
「今日は……ありがとうございました」
柚餅はしばらく黙りこみ、そして。
「俺な、お前ぐらいの歳の息子がいて……今は会えないんだけど」
壁を向いて、肩を震わせた。
「お前を見ているとな、つい思い出してしまうんだ」
犬おじさんは、今でも優しかった。
粉彦は日記の続きを書くことにした。

* * * * * 

4月30日 晴れ
「元犬おじさんあらため柚餅さんは、泣くのを我慢して向こうを向いて立ってました」

—— おわり——

【小説】メダカスイッチ

大学の一角に、小さな水槽が並ぶ研究室があった。
そこではメダカの神経細胞を研究する若き学者・八ツ橋十郎(やつはしじゅうろう)が、日々メダカたちを観察していた。
彼には、特別に愛する一匹のメダカがいた。
白い体に淡い青の模様が輝くメダカ——「ふなんしぇ」。

「ふなんしぇ……君は僕の声がわかるのかい?」
八ツ橋は顕微鏡をのぞき込みながら、そっと声をかけた。
意識は特定の領域にあるのではなく、脳細胞の結びつきによって決まる。
脳の量や神経細胞の密度が意識の有無を左右するので、ネズミや爬虫類だけでなく、昆虫ですら意識を持つ可能性があるという。
メダカの大脳辺縁系に類する領域の神経活動を調べることで、彼らが本能的な行動だけでなく、ある程度の認知を持つことが示された。
メダカもまた、小さな脳の中で何かを「感じている」のだ。

彼の研究は、東京大学を含む研究グループが発表した「恋のスイッチ」と呼ばれる神経細胞の存在に基づいていた。
メダカの脳内で特定のニューロンが活性化すると、異性に対する行動が変化することを示した研究だった。
彼は、この「恋のスイッチ」の働きを応用し、ふなんしぇが自分を好きになるように仕向けようと考えた。

「もし、そのスイッチを押せば……ふなんしぇは僕を愛する?」
研究室の同僚であるウエハ坂削也(うえはざかさくや)が、それを聞いて深いため息をついた。
「八ツ橋、それは違うだろう。恋愛ってのは、操作するものじゃない!」
その言葉が、八ツ橋の胸に深く刺さった。

彼は気づいた。
愛は操作するものではなく、育てるものだ。
それから八ツ橋は、ふなんしぇにまっすぐ向き合うことを決めた。
毎日、彼女が好むエサを選び、心を込めて話しかけた。
メダカが最も好む青色の背景を用意し、彼女が快適に過ごせる環境を整えた。

変化が起こった。
八ツ橋が話しかけると、ふなんしぇはいつも何か言いたげにヒレを揺らし、じっと彼を見つめるようになった。
あるとき、ふなんしぇは急に活発に泳ぎ出し、水面まで浮かんで、必死に尾びれを振った。
「こいつ、お前に何か言いたいんじゃないのか?」
それを背後から見ていたウエハ坂が言う。
八ツ橋は顔をほころばせた。
その反応を「自分への愛情」だと確信し、彼はさらに研究を進めた。
「メダカの脳の信号を直接解析して、僕たちが会話できたら……」
メダカの脳を解析し、神経細胞の動きを調べることで「メダカ語」を解読しようとした。
八ツ橋は最新の神経科学技術を応用し、メダカの脳の活動を翻訳するプログラムを作り始めた。

ある日、八ツ橋は研究室の外へ出る際、小さな金魚鉢にふなんしぇを移すようになった。
そっと肩にのせ、大学構内を歩く——まるで恋人とデートをするかのように。
この珍妙な光景は次第にキャンパス中で噂になった。
それを笑う者もいたが、ウエハ坂は彼らに向かって毅然と言った。
「純粋な愛に満ちた二人を笑う奴のほうがおかしい!」
青空の下、八ツ橋とふなんしぇの関係はさらに深まっていった。

八ツ橋は、メダカの脳の活動パターンを人間のそれと照らし合わせ、言葉として表現できないかと試行錯誤を続けていた。
ある日、その実験の最中に、異変が起こる。
『……ヤツハシ?』
日本語に変換された人工的な女性の声が研究室に響いた。
金魚鉢の中のふなんしぇが、彼の名を呼んだのだ。

ふなんしぇはゆっくりと話し始めた。
「ヤツハシ……私は、ずっとあなたに言いたかったことがあるの」
八ツ橋は金魚鉢を眼の前に持ち上げ、期待しながら待つ。
ふなんしぇはガラスで隔てられた外界を見つめ、
『……私、ウエハザカのことが好き』

研究室には沈黙が流れた。
八ツ橋は呆然とし、後ろで立っていたウエハ坂は戸惑いながら水槽をのぞき込んだ。
「ま、待てよ……俺?」
『ええ、あなたの、友達想いの優しさに惹かれたの』
八ツ橋はそっと金魚鉢を置いた。
「……科学って、残酷過ぎる」
研究室を出ていった。
ウエハ坂は金魚鉢を前にして深いため息をつく。
(いやいや、なんで俺んとこ置いていくんだよ……)

そんな困惑をよそに、ふなんしぇは幸せそうに水の中でヒレを揺らしていた。

——おわり——