果糖蜜男(かとう みつお)は、灯りを落とした病室で横たわっていた。
胸の上で、規則的に点滅するモニターの光と呼吸器の間延びした機械音が、暗い空気を揺らしていた。
体中をチューブで繋がれた身体は、ほんの少し首を動かすことさえできなかった。
耳元で看護師たちの囁く声が聞こえる。
「……号室の患者さん、身寄りがいないんですって」
「まだ若いのに……」
果糖の胸の内で、脈拍だけがやけに大きく響いていた。
「死にたくない」
口は動かないのに、その言葉だけが脈に合わせて膨らんでは萎んでいく。
目を開けることすら難しい。
看護師たちの声だけが遠くから水越しに聞こえてくる。
「今日か明日が山みたい」
喉の奥までせり上がった叫びを飲み込みながら、果糖はようやく言葉を見つける。
「こんなことなら……好きなことをやればよかった」
看護師たちの声が、次第に水の底へ沈んでいく。
代わりにコピー機の作動音と紙の擦れる音が、病室の静けさに割り込んできた。
果糖は、二十年前の編集部のソファに座る自分を少し離れた席から眺めていた。
編集者の栗生がメモを指先で折りたたみ、考え考え言葉を重ねている。
「果糖くん、簡単に答えを出さないでくれよ。せっかく新人賞をとったのに……」
「地元で就職が決まったんで」
若い果糖はあっさりと答える。
「仕事しながらでも続けますんで、よろしくお願いします」
「仕事しながら漫画を続けるのは、難しいよ!」
編集者の言葉に反発するかのように、若い果糖は言い放つ。
「地方でも漫画は描けますから」
果糖は混濁した意識の中で、編集部の椅子に座る若い自分を見下ろしてた。
「何言ってんだよ俺。 あれからすぐ描かなくなるんだよ。 楽なほうに逃げるって知ってるだろ」
若い自分は口を閉じたまま、膝の上で握った拳だけをわずかに震わせている。
「食っていくことも親のことも大事だ。 でも一番大事なのはお前のやりたいことだろ」
胸の内側で堰が切れる。
「描け。 描き続けろよ」
その声が届いたのか、記憶の中の自分と反して若い果糖が顔を上げた。
編集者を見据えたまま、あのときと別の言葉を紡ぐ。
「俺、やっぱりもっと頑張って漫画を描きたいです」
その言葉が落ちた場所から目には見えないさざなみがゆっくりと広がり、果糖の夢の中の時間の線を少しずつずらしていく。
夢の中、果糖は女性と立ち話をしている。
「俺、就職しないことに決めた」
彼女は驚きと怒りをにじませた表情で返す。
「だって編集の栗生さんが、あんたの将来を保証してくれるわけじゃないでしょう」
「そうだけど、彼だって企画案を通そうと頑張ってくれてるし……僕だって才能がないわけじゃないんだよ」
果糖は不安定な笑みを浮かべながら続ける。
「なあ……先のことはわからないけれど、夢に向かって頑張る俺に賭けてみない?」
「何を馬鹿なこと言ってんの?」
呆れたように彼女は言う。
現実の彼女はこのあと言葉を飲み込み、そのまま去っていったはずだった。
だが夢の中で記憶の表面にさざなみが立ち、結末の輪郭をなぞり替える。
「……本当に信じていいの?」
振り返った彼女のひと言から、卒業後もふたりで暮らす細い道がゆっくりと延びていく。
果糖のまどろみの中で、これまで知っていた道が少しずつ別のほうへ揺れていく。
夢の中で、彼は編集部の薄い会議室で何度もネームを広げた。
バイトを終えると、制服を畳んでロッカーに放り込み、その足で夜行バスに乗り込む。
眠気をそのまま抱えたまま、朝いちばんの編集部に顔を出す。
小さな読み切りが雑誌の端に載り、ネットで短く名前が流れる。
人気投票の順位は下のほうが常で、数字を見て深く息を吐く夜も多い。
それでもさざなみがわずかな肯定の声を彼の耳に残していく。
そしてベッドの上の果糖は、まどろみの淵から暗黒へ落ちていく。
「やり直せるなら、次は自分をもっと大事にする生き方をしたい……」
闇に包まれ意識が限りなく透明になる。
さざなみが、果糖の人生をすっかり変えた。
地方で就職をすることなく、彼は地道に売れない漫画を描き続ける生活をしていた。
そんな彼を彼女がアシスタントとして手伝いながら……生活は楽ではなかったが充実した日々がそこにあった。
漫画を描きながらときどき果糖は思う。
「あのとき、漫画を描くのをいったん諦めて地方で就職したり、無理を言って彼女を引き止めなかったら、俺はどうなっていたのだろう。今よりもっと充実していたのだろうか」
自分は夢の中の登場人物であり、その外側にまどろみながら覗き込んでいるもうひとりの自分がいるのではないかと。
けれどさざなみは迷いの泡をどこかへ流していく。
「好きなことを頑張る以上の幸せはない」と。
――おわり――
