【小説】記憶の虫食い

二〇二五年度末、大阪の実家に僕は帰郷した。
年末年始も外出することがあるので、念のため、休み前三〇日の昼過ぎ、銀行に向かった。
ATMでお金を下ろす。
見回すと、駅前繁華街もすっかり変わった。
二五歳まで住んでいた高槻は、大阪と京都のちょうど中間にある。
中心部は高層マンションが立ち並ぶ都会だが、少し足を伸ばすと、山が広がっている。
僕の実家は山の麓にあるが、駅にも近い。
利便性が高いうえ、緑あふれるいい場所だ。

銀行から帰る途中、久しぶりに普段歩かない道を、少し遠回りして歩いてみる。
塾に通ったり、友達の家に遊びに行ったり、買い物をしたり、図書館へ往復したり、思い出に満ちた懐かしい道だったが、上京して四半世紀以上が経ち、風景が様変わりした箇所がポツポツと目立つようになってきた。
建築基準法改正後に建てられた住宅の前の道は広くなり……角を曲がるタイミングが、自分の思っているのと微妙にずれる。
自分の記憶通りの場所と、そうでない場所が、虫食い状態になっている。

舗装がまだ新しい道路を進んでいく。
マンションと新築の家の隙間に、僕の記憶にない通りがある。
誘われるように、その中へ進む。
この先に、何があったんだろう。

そうだ、僕はここで裸足でしゃがみ込んで泣いていた。
小学校三年生のときだろうか。
遊びに行った、この先の広場で、僕は自転車の鍵を落とした。
途方に暮れて歩いて帰ってきた。
自転車がないことを母親に気づかれ、怒鳴られ、追いかけられ……僕は靴も履かずに飛び出した。
そのまま裸足で舗道を走り、しゃがみ込んだのが田んぼの前だった。
今では田んぼがなくなり、マンションと住宅の隙間になっている。
僕は確かに、ここにいた。

「どうしたの?」
振り向くと、セーラー服姿のお姉さんが立っていた。
泣いている僕に、下校途中の中学生が声をかけてくれたのだ。
染めたわけではないが少し茶色い髪。
顔の輪郭はもう曖昧だが、意志の強そうな目つきだったことを覚えている。
「……自転車の鍵を落として、お母さんに追い出されてん」
しゃくりあげながら、僕は返事した。
「ついてってあげる。一緒に探そう」
彼女は僕の手を引っ張った。
「大丈夫?」
心配そうに、僕の顔をのぞき込む。
「大丈夫」
僕は頷いた。
お姉さんの手は、あたたかかった。

記憶の虫食い部分を、僕はさらに進んでいく。
お姉さんは僕の家の近くから、遊んだ広場まで、一緒に歩いてくれた。
ときには地面に顔を近づけ、乾いた側溝の中も探してくれた。
お姉さんは、僕よりもっと注意深かった。
それでも、見つからなかった。
太陽は地平線の間近にあり、周囲は赤く染まっていた。

最後は、無数に並ぶ自転車置場から、僕の自転車を二人で引っ張り出した。
「私が見張っているから、君が鍵を壊しな」
後ろで、お姉さんが立ってくれた。
僕は落ちている石を手に取り、鍵を叩いた。

ガーン!
ガーン!

周囲の自転車も揺れている気がする。
僕の手が汗ばむ。

ガーン!

鍵が、落ちた。
「外れた!」
叫ぶ僕に、お姉さんは微笑む。
「よかったね!」

自転車を押して、僕は家に向かう。
夕日を背に、お姉さんも横を歩く。
「じゃあね、私、ここやから」
お姉さんは、学校の友達が貧乏な人が住んでいると噂していた、古い文化住宅のアパートに入っていった。
そのアパートは自転車置場と反対の方角で……お姉さんが遠回りして、ついてきてくれたことに、僕は深く感じ入った。

虫食いの穴から、僕は飛び出した。
また、自分の記憶通りの場所を、僕は歩いていた。
振り返ると、高層マンションが立ち並び、僕と一緒に鍵を探してくれたお姉さんのアパートは、その下に消えていた。

この場所で暮らしていると、少しずつ記憶が更新されていって虫食いになることはないのだろう。
けれど四半世紀以上離れて東京で生活をしていると……たまに帰ってきても記憶が更新されず、脳内地図に穴が空いた状態が残ってしまう。
虫食いの黒い穴だ。

引き寄せられないよう、身体を傾け、僕は実家に向かった。

—— おわり——