
セミの抜け殻は空っぽだが、だからこそ何か証拠に見える。私たちは、中身のないものを人生の審査に提出している。
時は昭和の終わり。
厳格な規律と、少し古めかしい校舎が特徴の地方の男子高校。
クラスは皆男子ばかりで、三年間、女性と話す機会もほとんどない。唯一の娯楽は、昼休みに回るラジオと、擦り切れた雑誌だった。
ある日の放課後、担任の先生がふとこんなことを言った。
「お前ら、どうせ卒業するまで女子とは無縁なんだから、せめて脳内で女子のクラスメイトを作ったらどうだ?」
その冗談めいた提案に、クラスのリーダー格である練乳川(れんにゅうがわ)が即座に立ち上がり、机を叩いた。
「じゃあクラスの全員で一人、最強のクラスメイトを作ろうぜ!」
こうして始まったのが、脳内クラスメイト『栗原マロン』の誕生だった。
クラス全員でアイデアを出し合い、彼女のキャラクターが作り上げられていった。
マロンさんの設定
性格:明るくて優しい、でも少し天然
特徴:肩までの茶色い髪、いつも笑顔を絶やさない
趣味:読書とお菓子作り
そんな項目が、黒板の端まで埋まっていった。
練乳川が黒板に箇条書きにし、クラスメイトが次々に手を挙げる。
「国語は得意だけど数学は苦手ってことにしようぜ」
「あとさ、将来は漫画家とかどうよ。俺らっぽい」
さらに、教室の窓際の席が「マロンさんの指定席」と決まり、誰もその席を使わないようになった。
マロンさんがクラスに「いる」という設定は、最初はただの遊びだった。
しかし、次第に皆がその存在を真剣に扱うようになった。
朝、「マロンさん、おはよう!」と声が飛んだ。
最初に声をかけたのは練乳川だった。次の日、その声は別の席から聞こえた。
昼には、「マロンさんの分」と机に小さな包みが置かれた。
クラスメイトの誰かが喧嘩をすると、「マロンさんが悲しむよ」と仲直りを促された。
落ち込んでいる人がいれば、「マロンさんならこう言うよ」と励ましの言葉がかけられた。
文化祭では、マロンさんが描いたことになっている、目の大きい女の子のイラストを展示した。
優秀だったマロンさんは数学だけは苦手だった。補習の時期になると、教科書をわかりやすく解説したノートをコピーして、誰かがマロンさんの席に置いた。
練乳川は成績のことで職員室に呼び出されても、顔色ひとつ変えなかった。
ただ放課後、誰もいない教室で、窓際の机の角だけを、指で一度なぞった。
しかし、次第にその「マロンさん」があまりにもリアルに感じられるようになると、思わぬ問題が起こりはじめる。
クラスのお調子者が冗談でマロンさんの席に座ろうとしたとき、
「おい、マロンさんの上に座るなよ」
練乳川が低い声で注意した。
「ごめんごめん……」
お調子者が周囲を見回すと、みんな冷ややかにこちらを見ている。
「ごめんなさい」
彼は深く恥じて、マロンさんの席に向かって頭を下げた。
そんなある日、事件は起こった。
教室に教頭先生と学年主任が訪れ、突然、教室内を見回した。
「何か異常はないか?」という表向きの理由で、二人は教室内を注意深く確認し始めた。
窓際の机には、いつも誰かが小さなものを置いていた。
消しゴムの屑、飴の包み紙、読んだ雑誌の切り抜き。
「そこ」は、最初から空いていないように見えた。
学年主任が口を開いた。
「みんな、少し話をしよう」
「実は、この教室で何か気になることがある。栗原マロンさんのことだ」
教頭先生も不安げにうなずいた。
「まさか本当にいるわけではないだろうな?」
学年主任はみんなの反応を見ながら言った。
「教室から女子の笑い声が聞こえたという噂があったんだ」
学年主任は言い終える前に、机の列へ踏み込んだ。
「天井裏まで調べろ!」
「机の裏を見ろ!」
「廊下にも誰か隠れていないか確認しろ!」
教師たちは一斉に教室の隅々まで調べ始めた。
机の脚を持ち上げられ、椅子を倒されても、誰も何も言わなかった。
ただ、視線だけが窓際に集まっていった。
最終的に、教頭先生と学年主任は息を切らし、首を傾げて廊下に戻っていった。
二人は帰り間際、マロンさんの席を不思議そうに振り返り、
「……妙だな。そこだけ陽だまりがあるようだ」
とつぶやいた。
戸を閉めた直後、最初は静かだった笑いを我慢するさざめきが、少しずつ広がり、最後、教室は爆笑に包まれた。
三年間の学び舎を後にする卒業式の日。
教室で最後の時間を過ごしていた彼らは、窓際の「マロンさんの指定席」に集まった。
それまでマロンさんが座っていた机は、ただの木だった。触れると、冬の終わりみたいに冷たかった。
「今まで、俺たちは何をしていたんだろう」
冷たさが、急に現実になって、彼らにのしかかった。
と、練乳川が声を上げた。
「マロンさん、ありがとう。俺たちの青春を彩ってくれて!」
机の上に、そっと花を置く。
みんなの顔に、微笑みと、少しの寂しさが浮かんだ。
そのとき。
静かだった教室に、風がふわりと吹き込んだ。
誰かが開けた窓から差し込む日差しが、マロンさんの席を柔らかく照らす。
窓の方で椅子がきしんだ。そこに誰かが座っていた。
肩までの茶色い髪、優しい笑顔、制服姿。
紛れもなく、彼らが三年間思い描いてきたマロンさんが、そこにいた。
一瞬、誰もが言葉を失った。
「……マロンさん?」
練乳川が恐る恐る声をかけると、マロンさんは笑顔で頷いた。
——みんな、三年間ありがとう。ずっと一緒にいられて、とっても楽しかったよ。
音ではなく、どこかに滲む気配だった。
音のない教室に、彼女の色が満ちていった。
——みんなが私を大切にしてくれたおかげで、ここにいられる気がしたの。みんなのおかげで、私はとても幸せだったよ。
「……ありがとう」
誰かが言った。
机の上の花が、少しだけずれた。
「ありがとう、マロンさん」
声が重なっていった。
マロンさんは微笑みながら立ち上がり、彼らを見渡した。
——これからはそれぞれの道を歩んでいくんだね。でも、大丈夫。私はいつでもみんなの心の中にいるから。
マロンさんの姿は、ゆっくりと霞んでいった。
最後に残ったのは、彼女の柔らかな笑顔だけ。
——じゃあね、みんな。
マロンさんの姿は、春の陽炎(かげろう)に溶けるように消えた。
後に残されたのは、誰かが置いた花束と、わずかに残る石鹸のような清潔な香りだけだ。
練乳川は、誰もいないはずの椅子の背もたれに、紙束が挟まっているのに気づいた。
いつか誰かが置いた、数学のノートのコピーだった。
練乳川はそれを抜き、何気なく裏返した。
そこには見事なペンタッチで、笑っている自分たちの姿が描かれていた。
背景には、古びた校舎と、大きく『ありがとう』の文字。
「……おい、これ」
全員がその絵を覗き込み、再び言葉を失った。
昭和最後の春、彼らの学び舎には、確かに「小さな貴婦人」がいたのだ。
練乳川は、涙を拭わずに笑った。
「マロンさん……漫画うまいな」