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【小説】帳尻の合う未来

雪がちらつく朝。郵便受けを開けると、一通の手紙が目に留まった。
古びた封筒に、妙にくすんだインクで書かれた差出人の名前が、見慣れた自分自身の名前だった。
「……なんだこれ?」
封筒を開けると、中には手書きの便箋が入っていた。
その字は……俺の筆跡に瓜二つで、こんなことが書いてあった。

『二〇一一年一月の俺へ
おいお前、派遣の仕事なんかしている場合じゃないぞ。
まず、借金してもいいから今すぐにビスコッティ株式会社の株を買え。
一刻の猶予もない。今日だ。
そして今付き合っている女と別れろ。
猫をかぶっているけど、そのうちヒステリーばかり起こすようになって、刃傷沙汰で警察に逮捕されるぞ。
あと父親に一刻も早く癌検診に行けと言え。そのうちステージ四の癌が見つかってみんな悲しい思いをすることになる。
最後に。今から東北には行くな。二〇一一年三月一一日に大地震、そして津波で原子力発電所が爆発する。
みんなに言ってもいいけど、多分誰も信じないだろう……でも一応警告だけはしたほうがいいかもな。
ビスコッティの株以外の他の株のことはわからない。
この手紙が送られたことで、歴史が変わってしまうからだ。注意しろ。
未来の俺より』

なんだこれ? 冗談にも程がある。
ビスコッティ株式会社なんて聞いたこともないし、こんな逆タイムカプセル的な手紙が存在するわけがない。
しかし、書かれている内容には奇妙な説得力があった。
俺が最近付き合い始めた彼女の機嫌の浮き沈みが激しいことは、薄々感じていた。
父親の健康も気にはなっていたし、何よりも二〇一一年の震災についての記述が恐ろしいほど具体的だった。
試してみる価値はある。

貯金を叩き、闇金からも金を引いて、当時海のものとも山のものともつかぬITベンチャーだったビスコッティの創業者から、直接譲渡契約を交わして株券(当時はまだ紙の株券を発行していた特別気配の強い企業だった)を手に入れた。
数週間後、手紙の予言通り、同社が開発した検索アルゴリズム「ランダムドッグ」のライセンスを、米国の巨大テック企業「コンテキスタント」がパレオログラファ社経由で買収すると発表。
俺の手元の紙切れは、一夜にして数億円の価値を持つ資産へと変貌した。

——本当に信じてもいいんだな。
俺は手紙の言うことをさらに実行した。
「実は……」
彼女のアパートで、俺は別れを切り出した。
最初は彼女と冷静に話し合おうとしたが、予想以上にこじれてしまった。
「何よ! 私と別れるっていうの?」
彼女が突然キッチンから包丁を持ち出してきた。
怒りと混乱で目が燃え上がっていた。
「落ち着け! 話をしよう!」
俺は後ずさりしたが、彼女は叫びながら包丁を振り回し、それは腹に突き刺さった。

   *   *   *

意識が浮上すると、そこは無機質な病室だった。
脇腹の激痛とともに、視界の端に一通の封筒が映る。前回とは異なる、二通目の手紙だ。

『二〇一一年二月の俺へ
お前、またやられたな。だが、今回はギリギリセーフだ。
医者に感謝しろ。
今度こそ、彼女と距離を置くんだ。
あとビスコッティの株は売るタイミングを間違えるな。
未来の俺より』

未来の自分は、幾度もの失敗を修正しながら、最適解を模索しているらしい。
俺は手紙の忠告通り、彼女を刺激しないよう徐々に連絡を絶ち、フェードアウトを試みた。
腹の傷が癒えるのを待たず、俺はもう一つの懸案事項を片付けるべく地元へと向かった。

地元の病院で再会した父親は、もはや影のように痩せ細っていた。
俺からの再三の警告を無視し続けた代償は重かった。
酒と煙草を止めず、加工肉と脂質にまみれた食生活を謳歌していた父は、激しい腹痛で倒れた時には既に手遅れだった。
ステージ四の大腸がんは、肝臓と肺を侵食し、死へのカウントダウンを刻んでいた。
それにもかかわらず、父の傲慢さは健在だった。
「医者なんてのは、病人を不安にさせて金を毟り取るのが仕事なんだ。俺が癌なわけがあるか。病は気からだ、そうだろう?」
鼻に酸素チューブを通しながら、父は隠れて持ち込んだ煙草を吸うため、点滴スタンドを杖代わりに裏庭へと這い出していった。
「頼むから、自分の状況を理解してくれ……」
「うるさい。この一箱が最後だ」
父が不気味に震える手でライターを点火しようとした瞬間、背後から厳しい看護師の声が飛んだ。
「何をしているんですか!」
「やべえ!」
父は焦り、火のついた煙草を足元の排水溝へ捨て、逃げ出そうとした。
だが、衰弱した足腰がその動きに追いつかない。父は点滴のラインに足を引っかけ、派手に転倒した。
その際、運悪く点滴スタンドの鋭利な支柱が、倒れ込んだ父の胸部を貫通した。
俺が駆け寄り、パジャマの裾を掴もうとした時には、全てが遅すぎた。
父は救急車のサイレンが遠くで鳴り響く中、自らが招いた無意味な事故によって息が止まった。

   *   *   *

後片付けの最中、実家で目覚めると枕元には三通目の手紙があった。

『二〇一一年三月の俺へ
父親のことは残念だったな。どちらにしろ、長くはなかったと諦めるしかない。
本題だ。もう時間はない。今すぐ株を現金化しろ。
絶対に三月十一日を跨ぐな。』

父の葬儀は、生前の人徳を反映して酷く冷え切ったものだった。
俺、母親、弟の三人だけで、無機質な骨を拾った。
全てを終わらせ、虚脱感とともに東京の自宅へ戻った俺を待っていたのは、更なる絶望だった。
クローゼットに隠していた、数億円の価値を持つ未上場株の譲渡書類と、その控えを収めたボストンバッグが消えていた。
彼女だ。
彼女は俺の不在を狙い、返却させていなかった合鍵で侵入したのだ。
着信履歴は百件を超え、メールボックスは彼女の執念で埋め尽くされていた。
「死にます」
「大事なときに、あなたはいつもいない」
「あなたにとっては、私よりもこのバッグの中の紙切れの方が重いのね」
「この紙切れと一緒に、私も消えるわ。探さないで」
添付された写真の背景を解析すると、彼女は常磐線を北上していることが判明した。
狂言自殺の類だとは分かっていたが、あのバッグの中身を失うことは、未来の俺との契約を破棄することを意味する。守るためには金が必要だ。
俺は新幹線とタクシーを乗り継ぎ、彼女が指定する場所を追った。

三月十一日。福島県、浪江町の海岸沿い。
午後二時を回った頃、俺はついに原発を遠望する崖の上で、古い松の木に背を預ける彼女を見つけた。
「遅かったわね。もう、全て終わりよ」
彼女の瞳には正気が欠落していた。
「バッグは……バッグはどこだ?」
俺の問いに、彼女の顔が怒りで歪んだ。
「やっぱり、私よりその中身なのね!」
彼女はバッグを抱え、崖の淵へと身を投げようとした。
「待て!
それは結婚資金だ! 二人で生き直すための金なんだ!」
苦し紛れの嘘だった。だが、今の彼女を繋ぎ止めるには、その欺瞞しかない。
「嘘よ! ビスコッティなんて聞いたこともない会社の株券に、そんな価値があるはずない!」
「本当だ。だから、頼む。こっちに来い」
俺が手を差し伸べた瞬間、彼女の手からバッグが滑り落ちた。
バッグは崖の途中の岩棚に引っかかり、中からバラバラと書類が覗いた。
「本当に……私たちのために?」
彼女が毒気を抜かれたように立ち尽くした、その時だった。
足元から世界が割れるような衝撃が突き上げた。

午後二時四十六分。
立っていられないほどの激震。地鳴りが鼓膜を圧迫し、崖の一部が轟音とともに崩落していく。
彼女は悲鳴を上げて松の幹にしがみついた。
俺は揺れが収まるのを待たず、岩棚のバッグへと手を伸ばした。
数分後、静寂が戻った海。
しかし、水平線の彼方から、信じられないほどの高さの「黒い壁」が迫っているのが見えた。
「逃げろ、上へ上がれ!」
俺の叫びは、迫りくる津波の轟音にかき消された。
逃げる時間はあったはずだ。
わかってはいたのだが、俺は岩棚の隙間に挟まったバッグを引き抜くことに固執した。
これさえあれば、やり直せる。金は悪くない、使い方の問題だ。
父の死も、彼女の狂いも、全て金で上書きできるはずだ。
黒い濁流が崖を駆け上がり、全てを飲み込む直前……
視界の端を、波に揉まれる封筒のような紙切れが横切った。

あれは、俺がまだ目にしていないはずの四通目の手紙、のはず。
濁流の中、俺はバッグを掴んだまま、紙切れへと必死に指を伸ばした。
あれに触れて、中を見さえすれば。

——おわり——