
人間は、動物の表情やしぐさに意味を読み込みやすい。これは「擬人化」と呼ばれる認知で、相手に心があると仮定したほうが社会的には安全だったため、進化的に強く残った傾向だと考えられている。
視界の端が、常に微細に震えている。
安酒のアルコールは、脳の表面を執拗に掻き毟り、現実と妄想の境界線を、都合よく溶かしていた。
俺は四畳半の安アパートの畳に突っ伏し、意識を水面のように漂わせていた。
呼吸は浅く、畳の湿った匂いと、古い木材の埃が鼻腔に溜まる。
そのときだ。
足元。
畳のささくれとささくれの隙間に、あり得ない色彩の行列が、確かな運動をもって蠢いていることに気づいた。
それは、蟻よりもわずかに大きく、指先よりも遥かに小さい。
極彩色の衣をまとった、「大名行列」だった。
金、朱、群青。
光沢を帯びた粒子のような武具が、畳の繊維を大地として進んでいる。
「ここで休んでも、構わぬか」
声がした。
家来と思わしき豆粒ほどの武士が、こちらを仰ぎ見ている。
幻聴にしては、あまりにも指向性が鋭い。
音は、空気を伝わらず、直接、鼓膜の内側に届いてくる。
「……殿様の様子が、思わしくないのだ」
行列の中央。
一寸にも満たない籠の中で、豪奢な着物を纏った「殿様」が、青い顔をしてうずくまっていた。
顔色は、絵具を薄めすぎた水彩のように淡い。
俺は朦朧とした意識のまま、部屋の隅に放り出してあったコンビニのレジ袋へ手を伸ばした。
「別にいいけど……これ、食う? モンブラン」
指先で千切ったマロンクリームの塊を、畳の上にそっと置く。
それは彼らにとって、黄金色に輝く途方もない供物に見えたに違いない。
殿様は震える手でそれを掬い取り、口へ運んだ。
次の瞬間、籠の中で、かすかな震えが走る。
「……美味」
掠れた声。
だが、確かな熱を帯びている。
「このような美味、現世にあるとは。命の火が、再び灯る心地がする」
俺は身を乗り出し、喉を鳴らした。
「お殿様、こんな小さな体でどこへ行くつもりなんだ。今どき、参勤交代なんて流行らないよ」
殿様はしばし沈黙し、それから、微細な呼吸音とともに言った。
「……敵討ちなのじゃ」
声は低く、重い。
「父上を無残に殺した仇、その男を討つためにな」
その声には、サイズにまったく見合わない、凝縮された怨念が宿っていた。
濃度の高い感情が、空気を歪めているようにすら感じられる。
「そいつは、どこにいるんだ」
「このあたりにいることは、分かっておる。だが……」
殿様が差し出したのは、切手よりも小さな人相書だった。
紙片に描かれた線は粗いが、特徴は妙に正確だ。
俺はデスクの引き出しからルーペを取り出し、その顔を凝視した。
次の瞬間。
頭に、熱いものが一気に流れ込んだ。
「……知ってる」
喉の奥が、乾いた音を立てる。
「こいつ、隣の部屋の助監督だ」
脳内で、日常の瑣末な苛立ちが、一斉に蘇る。
深夜。
俺がラジオを聴いていると、壁をガンガンと叩く音。
俺の生活を否定し支配しようとする、あの不遜なヒゲモジャ男。
映画か何かの助監督だと大家さんが言っていたが、俺の生活をかき乱すあいつが憎い。
「よし」
俺は畳に手をつき、立ち上がった。
「俺も加勢する!」
画像
部屋を飛び出し、隣室のドアを蹴り破らんばかりの勢いで叩き、怒鳴り散らす。
「こら、隣の野郎、出てこい。敵討ちの助太刀だ」
拳が、木の薄い板を震わせる。
足元から、金属が擦れるような甲高い音が響いた。
それは、確かな殺意を孕んだ殿様の声だった。
「そうじゃ。踏み潰された」
声は、もはや囁きではない。
「父上は、あやつに無慈悲に踏み潰されたのだ。この恨み、晴らさでおくべきか」
薄汚れたスウェット姿の助監督が、目をこすりながらドアを開けた。
「……なんだお前。酔っ払ってんのか」
ヒゲモジャ男の視界に、足元の軍勢は映っていないようだ。
俺は、世界の裏側を暴くかのように叫んだ。
「この人たちの先代を、お前が殺したんだってな。謝れ。そして、討たれろ」
「何言ってんだ。気色悪いな。警察呼ぶぞ」
「きえええええええ」
喉の奥から、獣じみた叫び声が溢れ出た。
殿様の、そして俺自身の「正義」を完遂するために、俺は巨大な拳を振り下ろした。
* * *
次に意識が戻ったとき。
視界を占拠していたのは、冷たく、無機質なコンクリートの壁だった。
手首には、重い感触。
金属の冷たさが、皮膚を通して伝わる。
頭痛が、頭蓋の内側を割るように響いている。
留置所。
警察官の話によれば、俺は泥酔状態で隣人の部屋に乱入し、支離滅裂な供述を繰り返しながら暴行を加え、取り押さえられたのだという。
「大名行列? 虫でもいたんじゃないのか。お前の脳内に」
若い警官が、吐き捨てるように言った。
手の甲を見る。
そこには微かにモンブランのクリームが乾燥し、白くこびり付いていた。
あの小さな軍勢は、どこへ消えたのか。
彼らは、本望を遂げたのか。
それとも俺が警察に連行される際、その巨大な靴底で、彼らをも踏み潰してしまったのか。
視界は今や、異様なほどにクリアだ。
そして、残酷なまでに静まり返っている。
あれが単なるアルコールの悪戯だったのか。
それとも、異界の復讐劇に、俺が一時的に利用されただけなのか。
確かめる術は、もう、この現実のどこにも残されていなかった。