
月別アーカイブ: 2026年5月
【小説】微塵の軍勢とモンブラン
視界の端が、常に微細に震えている。
安酒のアルコールは、脳の表面を執拗に掻き毟り、現実と妄想の境界線を、都合よく溶かしていた。
俺は四畳半の安アパートの畳に突っ伏し、意識を水面のように漂わせていた。
呼吸は浅く、畳の湿った匂いと、古い木材の埃が鼻腔に溜まる。
そのときだ。
足元。
畳のささくれとささくれの隙間に、あり得ない色彩の行列が、確かな運動をもって蠢いていることに気づいた。
それは、蟻よりもわずかに大きく、指先よりも遥かに小さい。
極彩色の衣をまとった、「大名行列」だった。
金、朱、群青。
光沢を帯びた粒子のような武具が、畳の繊維を大地として進んでいる。
「ここで休んでも、構わぬか」
声がした。
家来と思わしき豆粒ほどの武士が、こちらを仰ぎ見ている。
幻聴にしては、あまりにも指向性が鋭い。
音は、空気を伝わらず、直接、鼓膜の内側に届いてくる。
「……殿様の様子が、思わしくないのだ」
行列の中央。
一寸にも満たない籠の中で、豪奢な着物を纏った「殿様」が、青い顔をしてうずくまっていた。
顔色は、絵具を薄めすぎた水彩のように淡い。
俺は朦朧とした意識のまま、部屋の隅に放り出してあったコンビニのレジ袋へ手を伸ばした。
「別にいいけど……これ、食う? モンブラン」
指先で千切ったマロンクリームの塊を、畳の上にそっと置く。
それは彼らにとって、黄金色に輝く途方もない供物に見えたに違いない。
殿様は震える手でそれを掬い取り、口へ運んだ。
次の瞬間、籠の中で、かすかな震えが走る。
「……美味」
掠れた声。
だが、確かな熱を帯びている。
「このような美味、現世にあるとは。命の火が、再び灯る心地がする」
俺は身を乗り出し、喉を鳴らした。
「お殿様、こんな小さな体でどこへ行くつもりなんだ。今どき、参勤交代なんて流行らないよ」
殿様はしばし沈黙し、それから、微細な呼吸音とともに言った。
「……敵討ちなのじゃ」
声は低く、重い。
「父上を無残に殺した仇、その男を討つためにな」
その声には、サイズにまったく見合わない、凝縮された怨念が宿っていた。
濃度の高い感情が、空気を歪めているようにすら感じられる。
「そいつは、どこにいるんだ」
「このあたりにいることは、分かっておる。だが……」
殿様が差し出したのは、切手よりも小さな人相書だった。
紙片に描かれた線は粗いが、特徴は妙に正確だ。
俺はデスクの引き出しからルーペを取り出し、その顔を凝視した。
次の瞬間。
頭に、熱いものが一気に流れ込んだ。
「……知ってる」
喉の奥が、乾いた音を立てる。
「こいつ、隣の部屋の助監督だ」
脳内で、日常の瑣末な苛立ちが、一斉に蘇る。
深夜。
俺がラジオを聴いていると、壁をガンガンと叩く音。
俺の生活を否定し支配しようとする、あの不遜なヒゲモジャ男。
映画か何かの助監督だと大家さんが言っていたが、俺の生活をかき乱すあいつが憎い。
「よし」
俺は畳に手をつき、立ち上がった。
「俺も加勢する!」
画像
部屋を飛び出し、隣室のドアを蹴り破らんばかりの勢いで叩き、怒鳴り散らす。
「こら、隣の野郎、出てこい。敵討ちの助太刀だ」
拳が、木の薄い板を震わせる。
足元から、金属が擦れるような甲高い音が響いた。
それは、確かな殺意を孕んだ殿様の声だった。
「そうじゃ。踏み潰された」
声は、もはや囁きではない。
「父上は、あやつに無慈悲に踏み潰されたのだ。この恨み、晴らさでおくべきか」
薄汚れたスウェット姿の助監督が、目をこすりながらドアを開けた。
「……なんだお前。酔っ払ってんのか」
ヒゲモジャ男の視界に、足元の軍勢は映っていないようだ。
俺は、世界の裏側を暴くかのように叫んだ。
「この人たちの先代を、お前が殺したんだってな。謝れ。そして、討たれろ」
「何言ってんだ。気色悪いな。警察呼ぶぞ」
「きえええええええ」
喉の奥から、獣じみた叫び声が溢れ出た。
殿様の、そして俺自身の「正義」を完遂するために、俺は巨大な拳を振り下ろした。
* * *
次に意識が戻ったとき。
視界を占拠していたのは、冷たく、無機質なコンクリートの壁だった。
手首には、重い感触。
金属の冷たさが、皮膚を通して伝わる。
頭痛が、頭蓋の内側を割るように響いている。
留置所。
警察官の話によれば、俺は泥酔状態で隣人の部屋に乱入し、支離滅裂な供述を繰り返しながら暴行を加え、取り押さえられたのだという。
「大名行列? 虫でもいたんじゃないのか。お前の脳内に」
若い警官が、吐き捨てるように言った。
手の甲を見る。
そこには微かにモンブランのクリームが乾燥し、白くこびり付いていた。
あの小さな軍勢は、どこへ消えたのか。
彼らは、本望を遂げたのか。
それとも俺が警察に連行される際、その巨大な靴底で、彼らをも踏み潰してしまったのか。
視界は今や、異様なほどにクリアだ。
そして、残酷なまでに静まり返っている。
あれが単なるアルコールの悪戯だったのか。
それとも、異界の復讐劇に、俺が一時的に利用されただけなのか。
確かめる術は、もう、この現実のどこにも残されていなかった。














