
月別アーカイブ: 2026年4月
【普通】商品ラベルより身体の都合
【小説】さざなみ
果糖蜜男(かとう みつお)は、灯りを落とした病室で横たわっていた。
胸の上で、規則的に点滅するモニターの光と呼吸器の間延びした機械音が、暗い空気を揺らしていた。
体中をチューブで繋がれた身体は、ほんの少し首を動かすことさえできなかった。
耳元で看護師たちの囁く声が聞こえる。
「……号室の患者さん、身寄りがいないんですって」
「まだ若いのに……」
果糖の胸の内で、脈拍だけがやけに大きく響いていた。
「死にたくない」
口は動かないのに、その言葉だけが脈に合わせて膨らんでは萎んでいく。
目を開けることすら難しい。
看護師たちの声だけが遠くから水越しに聞こえてくる。
「今日か明日が山みたい」
喉の奥までせり上がった叫びを飲み込みながら、果糖はようやく言葉を見つける。
「こんなことなら……好きなことをやればよかった」
看護師たちの声が、次第に水の底へ沈んでいく。
代わりにコピー機の作動音と紙の擦れる音が、病室の静けさに割り込んできた。
果糖は、二十年前の編集部のソファに座る自分を少し離れた席から眺めていた。
編集者の栗生がメモを指先で折りたたみ、考え考え言葉を重ねている。
「果糖くん、簡単に答えを出さないでくれよ。せっかく新人賞をとったのに……」
「地元で就職が決まったんで」
若い果糖はあっさりと答える。
「仕事しながらでも続けますんで、よろしくお願いします」
「仕事しながら漫画を続けるのは、難しいよ!」
編集者の言葉に反発するかのように、若い果糖は言い放つ。
「地方でも漫画は描けますから」
果糖は混濁した意識の中で、編集部の椅子に座る若い自分を見下ろしてた。
「何言ってんだよ俺。 あれからすぐ描かなくなるんだよ。 楽なほうに逃げるって知ってるだろ」
若い自分は口を閉じたまま、膝の上で握った拳だけをわずかに震わせている。
「食っていくことも親のことも大事だ。 でも一番大事なのはお前のやりたいことだろ」
胸の内側で堰が切れる。
「描け。 描き続けろよ」
その声が届いたのか、記憶の中の自分と反して若い果糖が顔を上げた。
編集者を見据えたまま、あのときと別の言葉を紡ぐ。
「俺、やっぱりもっと頑張って漫画を描きたいです」
その言葉が落ちた場所から目には見えないさざなみがゆっくりと広がり、果糖の夢の中の時間の線を少しずつずらしていく。
夢の中、果糖は女性と立ち話をしている。
「俺、就職しないことに決めた」
彼女は驚きと怒りをにじませた表情で返す。
「だって編集の栗生さんが、あんたの将来を保証してくれるわけじゃないでしょう」
「そうだけど、彼だって企画案を通そうと頑張ってくれてるし……僕だって才能がないわけじゃないんだよ」
果糖は不安定な笑みを浮かべながら続ける。
「なあ……先のことはわからないけれど、夢に向かって頑張る俺に賭けてみない?」
「何を馬鹿なこと言ってんの?」
呆れたように彼女は言う。
現実の彼女はこのあと言葉を飲み込み、そのまま去っていったはずだった。
だが夢の中で記憶の表面にさざなみが立ち、結末の輪郭をなぞり替える。
「……本当に信じていいの?」
振り返った彼女のひと言から、卒業後もふたりで暮らす細い道がゆっくりと延びていく。
果糖のまどろみの中で、これまで知っていた道が少しずつ別のほうへ揺れていく。
夢の中で、彼は編集部の薄い会議室で何度もネームを広げた。
バイトを終えると、制服を畳んでロッカーに放り込み、その足で夜行バスに乗り込む。
眠気をそのまま抱えたまま、朝いちばんの編集部に顔を出す。
小さな読み切りが雑誌の端に載り、ネットで短く名前が流れる。
人気投票の順位は下のほうが常で、数字を見て深く息を吐く夜も多い。
それでもさざなみがわずかな肯定の声を彼の耳に残していく。
そしてベッドの上の果糖は、まどろみの淵から暗黒へ落ちていく。
「やり直せるなら、次は自分をもっと大事にする生き方をしたい……」
闇に包まれ意識が限りなく透明になる。
さざなみが、果糖の人生をすっかり変えた。
地方で就職をすることなく、彼は地道に売れない漫画を描き続ける生活をしていた。
そんな彼を彼女がアシスタントとして手伝いながら……生活は楽ではなかったが充実した日々がそこにあった。
漫画を描きながらときどき果糖は思う。
「あのとき、漫画を描くのをいったん諦めて地方で就職したり、無理を言って彼女を引き止めなかったら、俺はどうなっていたのだろう。今よりもっと充実していたのだろうか」
自分は夢の中の登場人物であり、その外側にまどろみながら覗き込んでいるもうひとりの自分がいるのではないかと。
けれどさざなみは迷いの泡をどこかへ流していく。
「好きなことを頑張る以上の幸せはない」と。
――おわり――
【普通】越えられない文章の壁
【普通】AI時代の過剰反応
【小説】月世界の楽団はもう奏でない
イラストレーターの僕は、今まさに「月世界の楽団」という作品のイラストを描いていた。
頭の中には、幻想的な音楽が響き、宇宙の彼方に浮かぶ楽団のシルエットが鮮明に踊っていた。
その時――
ピンポンピンポン!
玄関のチャイムが激しく鳴り響く。
「……?」
こんな時間に誰だろう?
宅配の予定はない。
嫌な予感を抱きながらドアを開けると、見知らぬ男が立っていた。
「NNKです、受信料を払ってください」
「……は?」
スーツ姿の男が身分証らしきものを掲げている。
「いや、うちテレビないよ?」
そう言ってドアを閉めた、が。
ピンポンピンポン!
また鳴らされる。
「NNKです!」
「だからテレビないってば! うちに上がって見てみるか? 絶対にないぞ!」
「違います。勘違いなさっているようですが、我々はNNK、日本(NIHON)脳電波(NOUDENPA)協会(KYOUKAI)です」
「……何だ?」
「あなたも脳がありますよね?」
「……まぁ、あるけど?」
「なら、受信料を払ってください」
「はあああああ!?」
「脳がある限り、日本脳電波協会から電波を受信しています。契約の必要があります」
「いやいやいや! 脳電波なんか受信してない!」
「いえ、受信しています。今こうして私の言葉を理解している時点で、脳は電波を受け取っています」
「そんな理屈があるか!?」
押し問答が続く。NNKの男は次第に法律を持ち出し、「国民の義務です」とか「契約しないのは違法です」とか言い始めた。
「いい加減にしろ!」
NNKの男はスーツの内ポケットから分厚い書類を取り出し、僕の目の前に広げた。
「こちらが『脳電波法』の正式な書類になります。第一条にはこうあります。『すべての国民は、生得的に脳電波を受信する能力を有するため、その対価として受信料を支払う義務を負う』と明記されています」
「……?」
「さらに、第一七条をご覧ください。『受信契約を拒否した場合、当協会は必要な措置を講じ、受信機能を制限する権利を持つ』と書かれています」
男は親切丁寧にページを指でなぞりながら解説を続ける。
「そして、こちらが受信料の詳細規定です。基本料金は月額三〇〇〇円。ただし、創造活動を行っている場合は特別に基本料金プラス追加で五〇〇〇円……」
「……ちょっと待て、なんか今さらに増えたぞ!!」
「いえ、これは理に適っています。あなたのようなクリエイターの方々は特に受信能力が高く、NNKの電波を享受していることが明らかです」
「……馬鹿にしてるのか?」
「ここに、創造的活動者の脳波測定データの統計資料もあります。ご覧ください」
男はさらに分厚い冊子を取り出し、グラフや数値を示しながら説明を続ける。
「もう勘弁してくれ!!」
僕が怒鳴ると、NNKの男は冷静に言った。
「では、受信できないように処置します」
男は僕の耳の上を軽く触った。
カチリ。
男は一礼し、静かに帰っていった。
「なんなんだよ……」
変なことで集中力が削がれてしまった。
僕は仕事部屋に戻って、イラストの続きを始める。
だが――
あれ?
描けない。
筆を持ったまま、じっとキャンバスを見つめる。
今まで浮かんでいたはずの、あのめくるめく光景が出てこない。
鮮明に思い描けていた星の輝き、微細な影、動きのある筆致――それらが霧のように消えていく。
月世界の楽団が奏でていた音楽が、頭の中で完全に消えた。
「……?」
耳の奥に響いていた幻想的な旋律も、空気みたいに無音の彼方へと吸い込まれていく。
筆先は震え、力なく宙を彷徨う。
「まさか……」
恐る恐る空を見上げる。
月から届いていたかのようなあの映像が――途切れた。
何も浮かばない。
脳の静寂――そして、創造の終焉。
こうして月世界の楽団は、演奏をやめた。
月は沈黙に包まれ、ただ冷たく輝いていた。
【普通】街のルールが書き換わった朝
【普通】消費者の記憶は執念深い
【普通】コンビニで発生する生活の敗北
【普通】本音にブレーキがついていない
【小説】朝、これを読んでいるお前へ
落ち着いて。
これは、昨日のお前が何度も成功させてきた手順だ。
深呼吸を一回。
ここで失敗した回数は、もう数えきれない。
胸の奥で、ふいごが鳴るような微かな金属音がしても気にするな。
それはお前の肺が、肉ではない何かで代用されている証拠だ。
お前は混乱している。
ここがどこか分からない。
知らない天井。
知らない部屋。
でも大丈夫だ。
これはお前の部屋で、お前の家で、お前の人生だ。
お前は一日で記憶が消える。
眠ると、昨日が全部なくなる。
それは病気で、事故の後遺症で、お前のせいではない。
怖がっていい。
動揺していい。
でも、パニックにならなくていい。
今から、今日一日を生きるための最低限のことだけを書く。
* * *
起きたら、すぐにスマホを手に取れ。
この手紙を読み終えた頃、次に母が来る。
ドアが開いて、女性が話しかけてくる。
そこにいるのは、お前の母親だ。
ちょっとびっくりするような格好をしているが、驚いた顔をするのは我慢しろ。
あれで傷つきやすい。
髪の毛の代わりに、頭から蛇が生えている。
けれど目を合わせても本物のメデューサみたいに、お前は石になったりはしない。
安心しろ。
ただし、近づきすぎるな。
蛇の中には、マムシやハブやガラガラヘビも混じっている。
彼女の左手には、もう指が一本もない。
それは、お前を動かすために支払われた代償だ。
母は今日の予定を教えてくれる。
驚くな。
毎日、同じ説明をしてくれている。
ここまでが、お前の「身の回り」の話だ。
* * *
朝食の後、入ってくるのはお前の彼女だ。
信じられないかもしれないが、お前には彼女がいる。
ドラム缶の身体の上に据えられた、ガラスの金魚鉢。
その中に浮かんでいるのが彼女だ。
正確に言えば、彼女の脳だ。
お前は、ネット越しに知り合った彼女の心に恋をした。
初めてリアルで会ったとき、お前は驚いた。
それでも、恋の炎を消すことはできなかった。
今の状態では、そういう感情は湧かないだろう。
それでいい。
ガラス筒に耳を寄せても、心音は聞こえない。
聞こえるのは、ハードドライブの回転音だけだ。
彼女はお前の「昨日」をすべて記録している。
だが、それをお前に教えることは決してない。
教えれば、お前の回路は焼き切れるからだ。
無理に「好き」を思い出そうとするな。
思い出せないものは、思い出せない。
ただ、失礼なことはするな。
優しく、穏やかに、彼女のマイクから発せられる声を聞いてやれ。
それだけで十分だ。
* * *
そして今日も、お前は散歩に出る。
彼女が誘うはずだ。
ついて行ってやれ。
これも日課だ。
自分一人では無理だが、それを恥じる必要はない。
二人で高台の公園に向かう。
いつものコースだ。
お前の萎えた足の運動になる。
歩行時、左右の感覚がずれる。
だが、ゆっくり歩けばなんとかなる。
すれ違った人が挨拶したら、にっこり笑って挨拶を返せ。
お前は覚えていなくても、彼らはお前を知っている。
毎週、同じことを繰り返している。
驚くほど親切な人もいる。
信じていい。
ああそうだ、相手がわざとぶつかってこようとしても、絶対に触るな。
触れたら、あっさり崩れ落ちる。
最近の人間は、触れると崩れる。
医者は否定するが、見た目も感触も、豆腐にしか思えない。
豆腐どもが泣くのは、塩分を含む涙が、自分の輪郭を溶かすからだ。
自傷行為に近いその羨望に、お前は関わるな。
* * *
高台の公園から街を見下ろすと、地平線はなく、地面は円筒のように頭上へと続いている。
びっしりと建物が、コウモリのようにへばりついているのが見えるだろう。
そこに見える巨大な構造物は、この区画の排泄物を循環させる心臓部だ。
ここは、シリンダー型宇宙ステーション。
ニューサイタマシティという。
地球にいた記憶しかないお前には、奇妙に映るかもしれない。
だが、ここではそれが当たり前だ。
公園のフェンス下、住宅地を巨人が行き来しているのが見えるだろう。
人間と象の遺伝子で作られた、象人間だ。
見えないふりをしろ。
気づいたことを知られると、巨人はどこまでも追ってきて、お前を踏み潰す。
彼女も、見えないふりをするはずだ。
それが正しい反応だ。
お前は、この世界の「ほころび」に気づく側だからな。
……いや、これは今日のお前が知っても仕方のないことだ。
毎日、世界は新しい。
それは不幸でもあるが、特権でもある。
* * *
お前は彼女と家に帰る。
坂道の下へ伸びた影……足首あたりが、妙に分節して見えるかもしれない。
違和感を覚えるかもしれないが、気にするな。
決して、気にするな。
道は覚えていない。
だが、体が動くことがある。
考えるな。
流れに任せろ。
彼女が倒れて、横に転がり始めたら、つかまえて、ちゃんと立ててやれ。
これまでに四回、坂の下で車や建物にぶつかって砕け散っている。
再生医療が進んでいるとはいえ、限界はある。
街ですれ違う豆腐どもが泣いていたら、それはお前を「羨んでいる」証拠だ。
奴らは、形を保つための骨格を失い、細胞の結合組織が粘液化した末路だ。
医者はそう説明した。
それに比べて、お前は継ぎ接ぎだ。
金属と、母の肉によって、どうにか「個」を維持している。
この街で形を保っているのは、もはやお前のような怪物だけだ。
奴らには形があるが、芯がない。
お前には芯があるが、昨日がない。
どちらがマシか、散歩の途中で計算してみるといい。
おそらく、答えは出ない。
計算を終える前に、お前の脳がオーバーヒートして、また新しい朝が来る。
* * *
夕方になると、お前は疲れて落ち込む。
毎日そうだ。
「明日も忘れる」
そう思うと、眠るのが怖くなる。
それも自然な反応だ。
ただし、家についても鏡を見るな。
これはお前が……まあいい、とにかく見るな。
* * *
夜になったら、この手紙を読み返すな。
もう十分だ。
明日のお前のために、今のお前ができることは一つだけ。
眠ること。
お前は壊れていない。
人格も、価値も、未来も失っていない。
記憶だけが、一時的に止まっている。
世界は、毎朝お前を迎え入れている。
お前は毎日、ここに戻ってきている。
それだけは、信じていい。
―― 昨日のお前より
追伸。
右足の付け根にあるネジを、締めるのを忘れるな。
歩行中に外れると、お前を修理するために、また「母親」が指を一本、蛇に食わせることになる。
彼女の指は、もう残り少ない。
お前が人間だった頃の良心が一ミリでも残っているなら、それだけは死守しろ。
母親の指は、お前の関節を繋ぐための有機接着剤に加工される。
彼女が蛇に指を差し出すたび、お前の歩行システムは一日分、更新される。
お前の「良心」とは、その欠損を直視しない機能のことだ。
【普通】学びに来たのに入力がぼやける
【普通】カラス社会に介入した気がする
【小説】廃墟に眠る恋
第一章:廃墟を旅する男
蜂野蜜流(はちの みつる)は車を走らせていた。
山の稜線には太陽が沈みかけ、荒野が橙色に染まる。
もう何時間も無言のまま、ただ目的地を目指していた。
かつて鉱山の街として栄えたが、半世紀近く前に最後の住人が去り、今では完全な廃墟と化した場所。
「……東洋一の硫黄鉱山だったらしい」
昔読んだ資料を思い出す。
硫黄と黄鉄鉱を産出し、最盛期には数千人が暮らしていたという。
しかし、時代が流れ、工業の発展とともにその役割は終わった。
硫黄は精製の副産物として大量に作られるようになり、鉱山の価値は消えていった。
住民たちは街を捨て、それぞれ新たな生活へと移っていった。
今はもう、訪れる者などほとんどいない。
そんな街の存在を知ったのは、蜜流が「廃墟」というものに惹かれる人間だったからだ。
過去の時間がそのまま閉じ込められたような廃墟。
そこに足を踏み入れたとき、かつての人々の気配を感じるのがたまらなく好きだった。
なぜ自分はこうも廃墟に惹かれるのか――。
幼い頃、祖父が暮らしていた町がダム建設で水没したことがある。
祖父は「俺の家も、庭も、学校も、全部あの湖の底に眠っている」と言っていた。
失われたものは、どこへ行くのだろう。
そんなことを考えるようになったのは、それがきっかけだったのかもしれない。
日は沈み、藍色になった山の斜面の手前、真っ暗な建物群のシルエットが大きくなる。
「次は……どんな街だろう?」
彼はホームページで自分の訪れた廃墟の記録を定期的に更新している。
多くはないが熱狂的な読者がいて、アフェリエイト収入を生活費、旅の資金に充てていた。
街の入口には、大きく錆びついたゲートがあった。
かつては鉱山の関係者や住民以外の立ち入りを制限していたのだろう。
今はもう、そんな役目を果たす者は誰もいない。
蜜流は車を停め、キャンプ用のバックパックを肩に掛けて歩き出した。
風の音だけが響く。
昼間なら鳥の声や小動物の気配もあるのかもしれないが、夜の廃墟は不気味なほどに静かだった。
足元のアスファルトには、ひび割れの間から雑草が顔を出している。
長い歳月が、この街をゆっくりと自然へ還そうとしていた。
「……思ったよりも、残ってるな」
街灯は朽ち、建物は崩れかけているものの、意外にも家や店舗の形ははっきりと残っていた。
大気汚染がひどかった時代の影響なのか、どの建物も黒ずんで見える。
蜜流は、スマホのライトを頼りに街の中心へと向かう。
そこには、かつての商店街があった。
廃墟となった今も、ここが街の「心臓」だったことがわかる。
飲食店、雑貨屋、スーパー。
シャッターの降りた店が並ぶ。
壁には色褪せたポスターが貼られたままになっている。
「昭和○○年○月○日 納涼祭開催!」
「大売出し! 鉱山作業員さん応援キャンペーン!」
過去の気配が、そこかしこに残されていた。
蜜流は、道の真ん中に立ち、目を閉じる。
――ここに、人がいた頃の街を想像する。
陽が落ちても、店の灯りが輝き、屋台が並ぶ。
仕事帰りの鉱山作業員たちが酒を飲み、笑い合う。
浴衣を着た子どもたちが、夜店で金魚すくいをする。
「……きっと、にぎやかな街だったんだろうな」
蜜流は、そう呟いた。
虫の音と葉のざわめきが響く高原。
廃墟横の空き地にテントを張り、蜜流は眠っていた。
まだ夜遅くとも言えない時刻。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……
すぐ横の地面を何かが歩く音で蜜流は目覚めた。
廃墟の夜、こういうことはよくある。
たいがい野生動物……タヌキとかシカとかイノシシだ。幸いクマとは遭遇したことがないが。
そーっとテントのファスナーをあげ、蜜流は外を見た。
ひとりの女性がいた。
第二章:幻の女性、現実の女性
彼女は、白いワンピースを着ていた。
スカートの裾が夜風に揺れる。
長い髪は背中にすっと流れ、どこか儚げな雰囲気をまとっていた。
彼女は、ゆっくりと街に向かって歩いていった。
まるでこの街がまだ生きているかのように、何の違和感もなく、自然な足取りで。
蜜流は廃墟で幽霊を目撃したことは一度もない。
これが初めての心霊体験か……と一瞬考えたが、そう思うことができないぐらい彼女には現実感がある。
「……誰?」
思わず声をかける。
だが、彼女は振り向かない。
長い髪をなびかせ、彼女は無言のまま、街の奥へと消えていく。
なぜ彼女は、こんな廃墟にいる?
蜜流は、迷うことなくその背中を追った。
その瞬間――
世界が、変わった。
崩れかけた建物に灯りがともり、静寂だった街が一気に賑やかさを取り戻す。
提灯が揺れ、祭囃子が聞こえ、浴衣姿の子供たちが笑い声を上げながら駆け抜けていく。
―― ついさっきまで、ここはただの廃墟だったはずなのに。
「……どういうことだ?」
蜜流は呆然と立ち尽くす。
白いワンピースの彼女は、ゆっくりと歩き続ける。
まるで、ここが「今も生きている街」であるかのように――。
彼女の進む先には、最盛期の街の姿が広がっていた。
―― 路地裏で煙草を吸いながら談笑する男たち。
―― 照明の下、グラスを傾けるカップル。
半世紀に近い間、無人だったはずの街が、確かに生きていた。
蜜流は、呆然とその光景を見つめる。
「俺は、夢を見ているのか?」
商店街の店の中では、店主が客と笑いながら話している。
道路を走るトラックのクラクションが鳴る。
祭囃子の音が響き、浴衣姿の少女たちが手をつないで駆けていく。
だが――
蜜流が近づいても、彼らには触れることができなかった。
まるで空気のように、すり抜ける。
何を言っても、何をしても、彼らは蜜流の存在に気づかない。
「街が生きているようだ……」
これは、幻か。
けれど、目の前の光景はあまりにもリアルすぎた。
通りを歩く人々の笑顔、屋台の香ばしい匂い、夜風に揺れる提灯の灯り。
蜜流は、自分がどこに立っているのかも分からなくなりそうだった。
白いワンピースをまとった彼女は、ゆっくりとした足取りで歩き続けていた。
まるで、この街のすべてを知っているかのように。
蜜流は、何度も彼女に声をかけようとした。
だが、そのたびに言葉が喉の奥で詰まった。
彼女はやがて建物の一室に入っていった。
その瞬間、電気を消すように街の幻がふっと消えた。
蜜流は、そこにただ一人、取り残された。
廃墟の中に。
夜の闇に包まれた、かつての商店街の中央に立ちながら、蜜流は今見た光景を信じるべきかどうか分からなかった。
しかし蜜流はまぶたを閉じても、彼女――白いワンピースの女性の姿が、はっきり残っていた。
蜜流は、彼女に恋をした。
翌日、蜜流は昼間の街を歩いた。
昨夜、彼女が歩いていた道をたどるように。
だが、そこに広がっていたのは、ただの崩れた廃墟だった。
店のシャッターは錆びつき、窓ガラスは割れ、地面にはコンクリート片が転がっている。
看板は色褪せ、剥がれ落ちた壁の向こうには、草が生い茂っている。
「……やっぱり、幻だったのか?」
昨夜の光景が、まるで夢の中の出来事だったように思えてくる。
だが、蜜流は確かに見たのだ。
彼女が歩いていたことを。
そして、街が息を吹き返した瞬間を。
「あれは……何だったんだ?」
蜜流は、どうしても気になった。
彼女は誰なのだろう。
「調べてみるしかないな」
蜜流は、昨夜彼女が歩いていたルートを思い出しながら、その先にあったマンションに向かった。
街の中央にあるマンションは、他の建物よりも頑丈な造りだったのか、まだ形を保っていた。
だが、やはり老朽化は進んでいて、所々ひび割れ、窓は破れていた。
蜜流は、階段を上がる。
昨夜、彼女が入っていったのはこの建物の一室だった。
誰が住んでいたのだろう?
彼女は本当に、この部屋に住んでいたのか?
表札には名前が……「庄渡けい子(しょうと けいこ)」と書かれていた。
第三章:街が見せる走馬灯
庄渡けい子……すぐスマホで名前を検索してみた。
そして――
蜜流は驚くべき事実を知った。
彼女は、今も生きていた。
彼女はこの街を出て上京し、女優をしていた。
蜜流も観たことがあるドラマや映画で……(残念ながら蜜流は覚えていなかったが)フリーのインターネット百科事典によると脇役ではあるが存在感のある役柄を演じていたらしい。
今も存在する彼女の個人事務所のホームページ/SNSには連絡先が掲載されている。
画面の中の彼女は現在も美しかった……が、間近で見たばかりの彼女と比べると、年齢の変化をはっきりと感じた。
「じゃあ……俺が見た彼女は……?」
次の夜、蜜流は廃墟横のテントで彼女を待った。
同じ時刻に彼女は現れ、彼のいるすぐ横を通って廃墟の中に入っていく。
コースに多少の違いはあったが、初めてのときと同じように、街を楽しそうに歩いたあと自分の部屋に消えていった。
次の夜もその次の夜も、蜜流は彼女を追った。
彼女の日課なのか、街の周囲を散策してから商店街へ向かう。
彼女が歩くと同時に夜の廃墟は光を取り戻し、最盛期の街が生き返る。
商店街には光が溢れ、仕事帰りの男、店で働く女性、親を呼びに来た子供……光と喧騒で満ち溢れる。
蜜流は悩んだ末、決断した。
「本物」の庄渡けい子に会いに行こう。
蜜流は、あまり更新されていない庄渡けい子のSNSのアカウントに、
・ファンであること
・自分が個人的にネット記事を書いていること
・けい子を取材したい
……旨を書きダイレクトメッセージを送った。
期待半分不安半分だったが、しばらく経ってから返信があった!
けい子は興味を示してくれたみたいだ。
数日後、蜜流は東京にいた。
けい子の指定した喫茶店は、照明がやや暗いレトロな雰囲気の喫茶店だった。
時間通りに彼女は現れた。
「……あなたが蜂野蜜流さん?」
眼の前のけい子は齢を重ねたとはいえ、あの廃墟で現れた彼女の面影を残していた。
ただ……昨夜まで恋い焦がれていた女性が老けていたことのギャップに、蜜流は最初、うまく言葉が出なかった。
「あの……あなたが生まれ育った街に、僕、最近行きました」
けい子は目を細め、懐かしそうに微笑んだ。
「あの街はね、前は本当ににぎやかだったのよ」
けい子はそう言って、まるで目の前にその風景が広がっているかのように語る。
「硫黄鉱山で働く男たちはみんな陽気で、商店街はいつも活気があったわ」
学校帰りの子どもたちは、いつも坂道を駆け下りて、駄菓子屋に駆け込んでいた。
お祭りの日には、街全体が光に包まれ、夜空には大きな花火が咲き……
蜜流は、けい子の話を聞きながら、昨夜の光景を思い出していた。
あの夜、蜜流が見た光景は、決して夢なんかじゃなかった。
「私はね、あの街がずっと続くと思ってたの。みんなも、きっとそう思ってた」
けい子は息を吐いた。
「でも……すべては、少しずつ終わっていったのよ」
鉱山が閉鎖され、仕事を失った人々が街を去っていった。
学校は生徒がいなくなり、店はひとつ、またひとつとシャッターを下ろしていった。
けい子も街を出た。
「最後の日……私が街を出る時、周囲には誰もいなかった」
窓のカーテンは閉ざされ、商店街の灯りも消えていた」
蜜流は、静かにけい子の言葉を聞いていた。
「今年の秋に、あの廃墟は取り壊されるのよ」
蜜流の胸に、強い衝撃が走った。
蜜流は、自分が見た幻(?)の話をけい子にした。
夜になると街が蘇り、先ほどけい子が話したような最盛期の光景が見えたことなどなど。
………………
けい子はしばらく沈黙したが、その話を否定することなく当然のように受け入れた。
「あなたが見たのは、街の走馬灯のようなものかもしれないわね」
「……街が、最期を悟っている?」
「ええ……壊される前に、街は自分の過去を思い出しているのよ」
蜜流は頭の後ろが痺れる感覚に襲われた……街は、自分の死を悟っている。
「……でも、俺が見たのは街の記憶だけじゃない。あなたも、いたんです」
蜜流の言葉に、けい子は眼を眉をひそめた。
「……私?」
「あなたが歩いていたんです。あの夜の商店街を」
けい子はまた、黙ってから
「それは、私だけど私じゃないわ」
コーヒーをかき混ぜながら
「あくまで街から見た『思い出の中の私』よ」
蜜流は黙ってけい子の話を聞く。
「私は街から出たことがなかったから、ずっと外の世界に憧れていて……街から出たのはいいきっかけだとも思った。街から出て四五年間、誰の力も借りず私は一人で生きてきた……いまでも街は私を構成している要素のひとつだし、私の中にある」
暗い喫茶店にけい子の声が響く。
「だけど、私は、街から独立した人格なの」
そして蜜流の眼を見つめ、
「あなたは、あの街に囚われてはいけない」
第四章:街の呼ぶ声
蜜流は、東京の高層ビル群を見上げながら、深く息をついた。
――「今年の秋に、あの街の廃墟は取り壊されるのよ」
けい子の言葉が、頭の中で反響している。
……あれは街の走馬灯だったのか?
あの廃墟が消える前に、街は最後の記憶を蘇らせていたのかもしれない。
そして蜜流は確かに活気のある街の風景を見た。
それだけじゃない。
彼は、あの街の中で生きていたけい子に恋をしてしまったのだ。
蜜流は、東京の喧騒の中を歩きながら、心の中に静かに広がる感情を持て余していた。
――俺は、本当にもう一度あの街へ行くのか?
けい子の言葉が、まだ耳にこびりついている。
「あなたは、あの街に囚われてはいけない」
その言葉は街の思い出に対しての、けい子からの決別宣言だった。
あの廃墟を歩くけい子は、現在のけい子とは別のけい子なのだ。
しかし蜜流はけい子の忠告にも関わらず、気持ちを抑えることができなかった。
街が俺を呼んでいる……そんな気がしてならなかった。
思いは耐え難く、炎のように身を焦がす。
「ごめんなさい、せっかく会ってくれたのに」
心のなかで、現在の/本物のけい子に謝った。
蜜流は荷物をまとめ、再び車を走らせた。
街にもう一度戻るために。
冷たい風が吹き抜ける山道を抜け、再び街の入り口にたどり着く。
そこは、まったく変わっていなかった。
しかし――
蜜流は違和感を覚えた。
「……何かが、違う……」
確かに、街は前に来た時と変わらぬ廃墟の姿を見せていた。
だが、それだけではない。
何かが、空気の中に満ちていた。
それはまるで、街が最期の時を待っているかのような、静かな緊張感だった。
そして――
彼女がいた。
白いワンピースのけい子が。
彼女はあの夜と同じように、周囲を散歩し、廃墟の建物に向かって歩いていた。
蜜流は震える手を握りしめながら、彼女の背中を追った。
そのとき。
頭上で何か音がした。
蜜流は、見上げた。
風化したコンクリート壁が崩れ、落下してくる。
崩れ落ちたコンクリート片が、けい子の上に降りかかる!
「危ない!!」
蜜流は、反射的に彼女の元へと飛び込んだ。
自分の体が、瓦礫の下敷きになるのを感じた。
次から次へコンクリート片が蜜流の上に崩れ落ちる。
次の瞬間――
世界が、切り替わる。
瓦礫に埋もれたはずの蜜流は、夜の商店街のど真ん中に立っていた。
自分の身体を押しつぶしたはずのコンクリート片は消え……いや崩れかけた廃墟などない。
周囲に広がるのは、最盛期の街の姿だった。
街灯は輝き、窓から光が溢れ、周囲の建物は綺麗に整備されていた。
周囲から生活音、人々が話す声が響いている。
「あなたは?」
その声に振り返ると、白いワンピースを着たけい子がいた。
突然、現れた蜜流に驚き、けい子は立ち尽くしている。
蜜流は震える声で言った。
「俺は……蜜流」
「こんな時間にどうやって山の下から来たの? バスで? 車で?」
怪訝そうな顔で、けい子は矢継ぎ早に質問を重ねる。
「車で。旅をするのが趣味なんだ。この街を見たくて時間も気にせず来たら、夜になってしまった」
蜜流はにこりと笑った。
「ここは……いいところだね」
蜜流の笑顔を見たせいか、説明を聞いて安心したのか、警戒を解き、けい子も微笑み返した。
「そうでしょ?」
そして蜜流の眼を見つめ、
「私、この街から出て暮らしたことがないの! 旅人さん、旅の話を聞かせて!」
「君の街の話も、聞かせてくれる?」
けい子は、嬉しそうにうなずいた。
「夜は、鉱山で働いている人が帰ってきて、昼より騒がしくなるのよ」
かつての街、はるか昔に前に朽ちたはずの商店街を、蜜流とけい子は並んで歩き始める。
もうすぐ、この街は完全に消える。 けれど走馬灯の中の住人は、現実と重なり合った別世界で永遠に生き続けるのだ。












